日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

2021年2月28日(日)ビデオ礼拝 説教題 「われらは主のもの」

2021-02-28 09:30:00 | 礼拝説教
2021年2月28日(日)【受難節 第2主日 悪と戦うキリスト】

黙 祷

招 詞 イザヤ書30章15節
「お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。」

讃 美 306番「あなたもそこにいたのか」 菊池典子姉



聖 書 詩編100編1~5節

1 【賛歌。感謝のために。】全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
2 喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。3 知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。
4 感謝の歌をうたって主の門に進み 賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。5 主は恵み深く、慈しみはとこしえに 主の真実は代々に及ぶ。


説 教 「われらは主のもの」 菊池丈博牧師



以下、原稿となります。

「我らは主の民」

 おはようございます。3月7日までの非常事態宣言も、あと一週間となりました。恐らく3月7日には解除となり、14日からは会堂での礼拝を再開出来ると思います。その時までもう少し私たちは、より慎重に行動しながら、願わくはコロナにかからないように、祈りつつ過ごして行きましょう。

 今日の礼拝は、詩編100編を読みました。今、私たちの教会の礼拝は、旧約聖書の詩編を読みながらの説教を続けていますが、詩編100編となり、150ある詩編の三分の二を読み進んだことになります。詩編100編は私たちに馴染みのある詩編です。どこに馴染みがあるかというと礼拝の最初の招きの言葉、招詞に用いられる詩編として知られます。
特に1節、2節の御言葉「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ。」この御言葉は、礼拝の最初に司式者によって読み上げられ、その御言葉が礼拝堂に響いて、礼拝がスタートします。華やかで、晴れやかな御言葉ではないでしょうか。この詩編100編そのものも、短い詩編でありながら、礼拝において喜びの詩編として読み継がれ、愛されてきた詩編だと言えます。

 3節には「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」と続きます。この詩編から、私たちが改めて知らされることは何かというと、一つは「主こそ神である」。二つ目は「主は私たちを造られた」。三つめは「私たちは主のもの、その民」でありましょう。

 今日はこの3節の御言葉について、改めて心に受け止めていきたいと願いますが、「主は私たちを造られた」とあります。私たちは造られた存在です。これまで礼拝で何度も申し上げていますけれど、私たちは生まれたくて生まれて来たわけではありません。気が付けば、男として、女として、誕生し、気が付けば親がいて、兄弟がいて、家庭があり、気が付けば日本語を話し、気が付けばこの時代に生きている。江戸時代が良かったな、とか、あと100年遅かったら良かったなとか、思ってもそうはいきません。
 
 私たちはこの時代のこの地域で、ここに生きています。でも、生きているというより私たちは神によって生かされている存在です。
そこでは私たちが何かを選択する領域はありません。神の領域だと思います。私たちの選択は生まれた後に、どのように生きていくのか、その選択は任されているとしても、自分は神に造られていないとは言えません。
勿論、人生という船の船長は自分です。でも、その船を持っている船主は、神様です。ですから、いつか、その船は返さなければなりません。返すまでの時間が地上の生涯となるわけです。そのようにして主は私たちを造られました。

 私たちを造るにあたって、主なる神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろうと言われました。ですから私たちは神様の姿に似ていると思います。似ているとはどういうことかというと、似ているけれど、神様ではないということです。
 詩編8編に「神に僅かに劣るものとして人を造り」と記されていますが、神様の完全の前においては、私たちは不完全であり、でも、その不完全さによって、いつも完全なる神を見上げて生きるようになっているのだと思います。でも、その不完全が悪いのかというと、そうでもありません。

 我が家に昔、ネットオークションで、数千円で購入した、ねじ巻きの古い柱時計があります。一月に一回ねじを巻かなければなりません。でも、正常に稼働しますとありましたので気に入って購入したのですが、家族には評判が悪い、何故かというと一つはうるさい、一時間置きにボーンと時間を知らせ、30分おきにもボーンとなりますからね、慣れるまではうるさいと良く言われました。けれど、それよりも評判が悪いのは、時間が合っていないという所です。一月に普通に10分から20分は狂います。でも、きっと、昔は、十分に許される範囲内だったのでしょう。

 隣の台所の部屋には、ビバホームで購入した電波時計があります。その時計はさすがに電波時計ですから一秒の狂いも無いでしょう。時計ですから、勿論時間が正確なのに越したことはありません。
でもね、私はいつも10分、20分進んでいる柱時計も良いなと思うのです。私たちはいつの間にか、時間、時間で動くようになり、学校も職場も、家庭も、電車も社会全体が時間で動き、時間通りが当たり前、時間にルーズな者は評価されないとか、社会で生きていけないとか言われたりもしますが、柱時計を見ていると、本当にそれほど、時間が大切かと思う時があります。

 私たちの社会はいつのまにか正確さが評価対象となっていますが、私たち自身の内にある不完全さは、それをストレスと感じているのではないでしょうか。

 主なる神は、私たちを主に似せて造って下さいました。だから、私たちを見ると、神が分かるとも言われますけれど、それは私たちの完全さによって分かるのではないと思います。私たちは決して電波時計のように正確な時刻を刻みながら生きられません。
 むしろ、ずっと柱時計のようにして生きているはずです。でも、それなら私たちのどこが、主なる神に似ているのでしょうか。それは、主なる神が徹底的に私たちを愛して下さったように、人と人が互いに愛する存在として造られている、という点ではないでしょうか。私たちは神に少し劣る、だから人には特に愛が必要なのだと思います。

 以前、聞いた話ですが、アメリカでの話です。一人の泥棒がある家に侵入しました。若い夫婦の家でした。その夫婦は夜のパーティに呼ばれ出かけた後に、それを確認してから家に侵入しました。誰もいないと思って入ったのですが、頼まれていたのでしょう。ベビーシッターと幼い赤ちゃんがいたそうです。
泥棒は一瞬驚きましたが、よく見てみると、ベビーシッターがグウグウいびきをかいて寝ていました。だから安心して、家の高価な宝物を物色して、そろそろ帰ろうとした時に、ふと見たらベビーシッターは相変わらず寝ていましたが、ベビーベットに寝かされた赤ちゃんが、まん丸の目で泥棒を見ていたというのです。

 あまりにかわいい顔でこちらを見ているものですから、思わず手を差し伸べたら、口でチュウチュウと泥棒の指を吸って来るではありませんか、そこには疑いとか、怒りとか、悲しみといった言葉ではなく、たった一つ、信頼という言葉の世界がありました。指を吸われた泥棒は、自分の子どもの頃の出来事を思い浮かべました。
 子どもの頃、教会にいっていたな、「主われを愛す」って歌っていたな、幸せだったなぁ、そのことを思い浮かべているうちに、心を取り戻し、何も取ることをしないで家から出たそうです。

 人の中で赤ちゃんほど不完全な脆い存在はありません。一切の何も出来ません。でも、その赤ちゃんが泥棒の心に与えたもの、それは圧倒的な人に対する信頼ですよ。

 その信頼は、主なる神が私たちを造られ、造られただけでもなく、御自分の一人息子である主イエス・キリストを送って下さり、主イエスによって神の愛が知らされたように、神は、私たち一人一人を信頼しておられる。そのことを知らされる度毎に、私たちは確かな心を取り戻すのではないでしょうか。神は私たちに完全であれ、と求めているのではなく、欠けがあるとしても互いに、信頼し、互いに愛することを求めておられる、そのような愛のある場面でこそ、私たちは愛を通して、神を見る思いがするのではないでしょうか。

 神によって造られた私たちの、すべてが主のものです。「私たちは主のもの、主の民」と詩編に記されているように、全てが主のものです。
ローマの信徒への手紙の中14章8節に「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とあります。

 私たちの人生の生きるにしても、死ぬにしても、全ては主のもの、生きているといつの間にか、どこか調子が悪くなる時があります。時には転ぶこともあり、怪我をしたり、思いがけない病気になったり、あるいは今の時代のように、感染症の病気が流行ったり、先日の地震のように自然災害が起こったり、私たちはいつ死んでもおかしくない程に、様々な出来事を経験しながら、しかし、今を生きています。けれど、その人生は頑張って生きても100年です。その100をどう生きていきますか。生きようとしていますか。いつ死ぬか、いつ死ぬかと怯えて生きるよりも、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のもの、全ては主のものと、与えられ、生かされている命を、精一杯生きていきましょう。そのような前向き、肯定的な人生が、人を神に向かわせると私は思っています。

お祈りします。








 

コメント   この記事についてブログを書く
« 2021年2月21日(日) ビデオ... | トップ | 2021年3月7日(日)ビデオ礼... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事