日本キリスト教団 大塚平安教会 

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御子の居場所はここに

2021-12-12 14:42:32 | 礼拝説教
【詩編135編1~3節】
【ルカによる福音書2章1~7節】

 次週のクリスマス礼拝を前にして、今日はルカによる福音書から「イエスの誕生」という箇所を読んでいただきました。
 「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た」とあります。「そのころ」とはどの頃か、というと、こういう言葉は前の箇所から引き継ぐわけですから、前の箇所は、御子イエスの親戚でもある、バプテスマのヨハネが誕生した場面ですから、ヨハネが誕生した頃だということでしょう。

 では具体的にはいつの時代かというと、皇帝アウグストゥスが全領土の住民に住民登録の命令をした頃となります。全領土とはローマ帝国とその属国の人々が住んでいた地域です。国の皆さんよ、あなたがたは住民登録しなければなりません。登録するとどうなるかというと、国民の数が分かります。国民の数が分かりますと、税金がどれだけ徴収できるか分かり、また戦争に備えて徴兵できる人の数が分かる、つまり、国の力、国力が分かるということです。

 私の感覚ですが、私たちの国で言うところの国税調査に近いと思いますが、マイナンバーカード登録の方が近いかもしれないと思います。キリスト教国といいますか、西欧の国々の国民は誰もがマイナンバーカードを持っています。自分はどの国の誰か、そのカードが全てを示します。いつも携帯していなければなりません。日本ではあまり普及しません。なぜかというと、色々な意味において国民が国を信用していないからだと言われます。多分、それは当たっているだろうと思います。
 
 いずれにしても、登録の命令が出されました。広い領土ですから、登録は何か月、あるいは数年に及んだかもしれません。「人々は皆、登録するすためにおのおの自分の町へ旅立つ必要がありました。」自分の町という言葉の感覚は良く分かりませんが、言わば自分の本籍がある町、あるいは自分の先祖の町、自分のルーツとなる町という意味であろうと思います。

 その命令によってマリアの夫のヨセフも登録のために旅をしなければなりませんでした。その際、既に身重であった、いいなずけのマリアも同行しました。ヨセフにとっての自分の町は、ダビデの町と呼ばれるベツレヘムです。
ベツレヘムでダビデが生れ、ダビデが育ち、羊飼いをして家族を助け、ある時、サムエル記上16章に記されてありますように、祭司サムエルが、ダビデの父エッサイのもとを訪れ、ダビデを見いだし、油を注ぎ、サウル王に次ぐイスラエル二代目の王とした町です。ベツレヘムの人々は、自分達の町出身であるダビデを誇りとし、ダビデの町と言っていたでありましょう。
ナザレからベツレヘムまで凡そ120キロと言われます。道のりは平たんではなく、歩きかせいぜいロバに荷物を乗せ、あるいはマリアが乗って旅をしたものと思います。

 無事、ベツレヘムに到着し、しかし、そこでマリアは月が満ちて御子イエスの誕生となり、生れた御子は飼い葉桶に寝かされました。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。とあります。今日の聖書箇所はそれほど長い箇所ではありません。

 それでも福音書記者のルカによって御子イエスの誕生の経緯が記されてあることは私たちにとっては感謝なことだと思います。

 今日の聖書箇所から、今日は三つのことを申し上げたいと思います。一つは、神の御子イエスの誕生は人の歴史の中での出来事であったということ。二つはダビデの町という意味、三つ目は、なぜ飼い葉桶だったのか。という点です。

 なぜ、ルカが皇帝アウグストゥスの時代と記したのか、なぜキリニウスがシリア州の総督のであったときと記したのか。皇帝アウグストゥスはローマの初代の皇帝です。私たちが学生の時に世界史の時間に聞いたことがあるジュリアス・シーザー、ラテン語ではユリウス・カイザルの甥っ子がアウグストゥスです。紀元前63年に生まれて、紀元後14年に亡くなりますが、戦乱の時代を潜り抜け、ローマ帝国を成立させ、世界はそこから「ローマの平和」と呼ばれる暫く平和な時代が続くことになります。アウグストゥスは本当の名前をオクタビアヌスと言いました。皇帝となりアウグストゥス、尊厳王という称号が与えられます。もうほとんど神様に近い、神様のような扱いを受けた人です。なぜならアウグストゥスが世界に平和をもたらしたからです。ローマ社会にあって彼は「救い主」とされていました。

 ローマ皇帝アウグストゥスの時代、更にキリニウスという人がシリア州の総督であった時、となると大分歴史的には絞られていくわけで、そのようなまさに人の歴史に、神の御子イエスが誕生した。そうルカは記しました。

 けれど、ルカはこの福音書を記すにあたって、人々がローマ皇帝アウグストゥスを讃え、我らの救い主と崇めている時代の中で、神の子、御子イエス・キリストが、私たちのまことの「救い主」として誕生された、この方の誕生を起点として、人類の歴史が変わる程の神の業がこの時にもたらされたのだと記したかったのではないでしょうか。

 アウグストゥスは確かに人々に平和をもたらしました。けれど、その平和は多くの人々の血が流された軍事力によってもたらされた平和でした。この平和を守り続けるために、更に多くの人々の血が流されたことも間違いありません。
強大な権力による平和は人にまことの平和をもたらすことは無いと人の歴史は繰り返しそのことを教える通りです。

 ルカは皇帝がこの世を支配しているのではなく、主なる神が人の歴史の支配者であることを伝えようとしたのだと思います。だからあえて時代背景を記したのであろうと思うのです。

 二つ目は、ダビデの町です。なぜ御子イエスの誕生はベツレヘムであったのか。旧約聖書のミカ書5章1節にこう記されています。「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く。永遠の昔にさかのぼる、」預言者ミカを通して、伝えられた神のみ言葉は、メシア、救い主はベツレヘム、つまりダビデの家系から出ると人々は信じていました。夫となるヨセフの家系は聖書に記してあるようにダビデの家系であることは間違いありません。

 古い伝承によれば、マリアの父はヨアキム、母はアンナと言われていまして、ダビデ家の家系であったと言われています。その信憑性は分かりませんが、御子イエス・キリストはベツレヘムで誕生された。マリアは知っていたか、どうか分かりませんがミカ書の予言の通りに動きました。御子イエスはメシア、救い主の資格を持つ者としてこの世に誕生されたと言う意味であろうと思います。

 三つ目は「飼い葉おけ」の意味です。なぜ御子は飼い葉桶に寝かされたのか。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。だから、宿屋ではなく馬小屋の中での出産となり、そばに寝かすのに丁度良いサイズの飼い葉桶があったのでしょう。勿論、普段使用されていない綺麗な物であったと思われます。その飼い葉桶に御子が寝かされた。

 その意味の一つは印です。次週のクリスマス礼拝で、次の聖書箇所である羊飼いと天使を読みますが、天使は羊飼いたちに「あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げています。飼い葉桶は、救い主の印でもありました。

 しかし、更に、飼い葉桶には多くのメッセージが込められています。その場合、多くの説教者は、飼い葉桶を弱さの象徴と例えます。この世において弱い立場の人々を守るため、貧困であえいでいる人々を支えるため、苦しみ苦悩している人々と共にいるため、悲しみ涙している人々と共にいるための印として、御子イエスが誕生されたのであると言われます。私も全く、その通りであろうと思います。

 ある説教者は、だから御子イエスの誕生を喜ぶ私たちこそが、御子の飼い葉桶になりましょうと伝えます。貧困や飢餓、戦争、病気、経済、教育、コロナウィルスのワクチンに至るまで、この世は殆ど全ての面において平等から遥かに遠く、貧富の差は激しく、苦しみあえいでいる人々がいる。そのことを私たちは良く知っています。だから、そのような人々を御子イエスと見なして、私たちこそが、そのような人々の飼い葉桶となって、苦しんでいる人々が安心と平和に生きられるように励んで生きましょうと伝えます。私もその通りだと思います。飼い葉桶にはそのようなメッセージが込められていると思います。

 けれど、私はこの年、皆様に申し上げたいと思っていることは、少し違います。御子イエスの飼い葉桶が伝えるメッセージ、それは、神が神の御子でありながら、馬小屋で、しかも飼い葉桶に寝かされる。それは、あえて申し上げますけれど、それは、神様が、私たちに対して「負けて」くださったという印ではないかと、この年、そう思っているのです。

 私たちは何事においても、「勝ちたい」と思います。自分の意見や自分の主張などと言う程確かでもない、でも、それぞれに自分の思いを持って私たちは生きています。でも、いつも自分の思いは正しく、相手は間違っているのです。

 意見の正当性が重要なのではありません。あるいは皇帝であろうと、羊飼いであろうと、大金持ちであろうと、貧しい人であろうと変わりません。自分には自分の意見があって、自分の思いがあって、自分は正しいのです。
でも、時として、その正しさは多くの人々から否定されます。子どもの思いは親から否定され、学生は先生から否定され、会社員は社長から否定され、妻の思いは夫から否定されるのです。子どもは子どもで正しいと思っているのに、学生は学生で正しいと思っているのに、妻は妻で正しいと思っているのに、否定されるのです。

 それは教会においても大きな違いはありません。誰もが自分の思いを理解して欲しいと願っていても、滅多に、お前は正しい、お前は大したものだと言ってくれる人に出会いません。

 けれど、それが出来る方、というよりそうされる方が誕生された、それがクリスマスではないかと思います。その印が飼い葉桶ではないでしょうか。

 主なる神は、社会的にどんな立場の人であろうとも、お前は正しい、お前は大した人になるよと、そう告げるために、つまり、私たちに負けてくださるために誕生されたのではないか、「参った」という印としで飼い葉桶があるのではないかと思いました。私たちは神にまで勝ちたいのです。それが本音であって、だから主イエスは十字架に架けられるために誕生されたのではないですか。

 そして、その意味は、私たちを徹底的に愛しておられる、その証拠として飼い葉桶に寝かされたのではないか。だから王宮にでもなく、高級な建物にでもなく、馬小屋だったのではないですか。自分を捨てる程に人を愛することを神は願っておられるでしょう。でも、私たちはそうは生きていけません。それが本音です。だから罪があるのです。でも、そのような欠けのある私たちを丸ごと受け止めて、誰も傷つけることをせず、徹底的に愛し、全てを赦してくださる方として、御子イエスは誕生されました。だから、私たちはこのクリスマスを喜ぶことが出来るのです。神様の御計画に感謝して、この一週間も過ごして参りましょう。

 お祈りします。



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