日本キリスト教団 大塚平安教会  

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主の家に宿り

2019-10-30 16:31:27 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編27編1~4節】
【エフェソの信徒への手紙2章19~22節】


 今日は、詩編27編の1~4節を読んでいただきました。この詩編27編、14節までありますが、特に今日読んでいただきました前半の箇所は、詩編の中の詩編と呼ばれる詩編23編にも似た、自分の人生の中に、たとえどんなことがあるとしても、主なる神を信じ、主に従って歩んで行こうとする、いわば「信仰を持つ者の勇気」が記されていると言われます。
 その勇気を持って歩む源が、主なる神であり「主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。」と始まります。
 更に、「さいなむ者が迫り わたしの肉をくいつくそうとするが、わたしを苦しめるその敵こそ、かえってよろめき倒れるであろう。彼らがわたしに対して陣を敷いても わたしの心は恐れない。」と続きますが、そのような信仰の勇気、信仰の確信を得るために求められているものは何か、それが4節の御言葉に記されていると思います。
 
「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。」信仰の勇気を得るために必要なこと、それは「ひとつのことを主に願う」もう少し詳しく読むとすれば、「私が主に願うのは、一つのことしかない」と告げています。

 新約聖書の中に、主イエスが、マルタとマリアの家に行ったとき、マルタは主をもてなすためにせわしなく立ち働いていましたが、マリアは主イエスの足元に座って主の話に聞き入っていました。マルタは、少しも手伝わないマリアを見て、ついマルタは主に告げた。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝うようにおっしゃってください。」その答えに主は「マルタよ、あなたは多くのことに思い悩んでいる。しかし、必要なことはただ一つだけである」と答えた場面がありました。「必要なことはただ一つ」その必要なひとつとは何か、主イエスの御言葉を読む時に、私たちは生涯においてその一つと言われた意味を問い続けて行かなければならないと思います。

 けれど、詩編の作者はその一つとは何かを次の御言葉に記しました。「命のある限り、主の家に宿り」この事だと告げています。主の家、それはもっと具体的に言うとすれば、天の国であるとか、死んだ後の世界のことを示しているわけではなく、神の宮、それは神殿であり、会堂であり、現代の私達で言うとすれば教会、あるいは礼拝堂と言えると思います。命のある限り、私は礼拝堂において神に礼拝を献げると告げているのです。

 先週、定例の役員会が行われました。先週の役員会は、11月に向けて、多くの事柄を取り扱う必要もあり、夜の6時近くまで時間を取って行われました。一つ一つの議題を出来るだけ丁寧に、しかし、出来るだけ急ぎつつ行ってもそれだけの時間が必要であったと思います。
 その中に「礼拝への取り組み」という議題がありますが、その中で、私達の教会は礼拝前の直前まで、どうして騒がしいのか、もっと心静かに礼拝を守る、そういう心備えが求められるのではないかという話しが出されました。この課題は、実際のところ、これまで何度も出され続けている課題で、中々結論が出ない課題であるとは思います。
 私自身も礼拝前のギリギリまで動いていることが度々ありますので、私自身にも問われている課題でもあり、遠回しには、私自身のことを言われているのだとも感じています。なぜ、礼拝前の僅か10分ほどの時間を静かに待てないのか。

 この一週間、説教の準備をする中で、色々と思いを巡らして来ました。特に「主の家」すなわち礼拝堂とはどういう場所であるのかとずっと考えて来ました。
 例えば、ドレーパー記念幼稚園を考えました。私は鈴木先生が園長であったことのことを知りませんから分かりませんが、佐竹園長は、幼稚園に割合に多くの心身に課題があると思われるお子さんを入園させています。どの幼稚園でも断られて、断った園がドレーパー記念幼稚園なら入れてくれるかもしれないとさえ話すそうです。
 
 佐竹園長は、そういったお子さんを本当に入園させて、苦労の多い親子と共に歩もうとしておられます。幼稚園の先生方も、そのような子どもたちと共に、クラス作りをしなければなりませんから、他の幼稚園や保育園では味わうことの無いような苦労が多いと思いますし、静かにさせることも一苦労であろう、一緒に行動することも大変であろう、その中を本当によくやって下さっていると思います。
 
 けれど、ドレーパー記念幼稚園は、キリスト教を土台としている幼稚園ですから、どんなお子さんでも、出来る限り引き受けようとする園長の姿も本当に素晴らしいと思う。というよりも頭が下がる思いがいたします。その為に、何倍も苦労が多い幼稚園だとしても、どんな子どもでも、というよりも人として、誰もが神の前に平等であるという信念があると思います。そこにも確かな「主の家」としての姿が見えるのではないか、とも思います。
 
 ましてや、教会は、この礼拝堂は、主なる神を前にして、健常者もなんらかの障害をお持ちの方も、赤ちゃんから、年配の方々までどんな方でもお出で下さい。と告げなければならないでしょう。なぜならここが「主の家」であり、ここに来れば「主の光」が見え、「主の救い」を垣間見ることが出来る、「主はわたしの命の砦」と信仰の勇気、確信を持っている一人一人が礼拝を守る礼拝堂だからです。
 
 礼拝前に騒がしい、それは良く無いとしても、特に心を整えている方々に対して配慮が無いとしても、どんなにか規則を作るにしても礼拝堂のドアに張り紙をするにしても、そこに愛が無ければ、いつのまにか人を裁くことにもなりかねませんし、最終的には私達の心構えによるのだと私は思います。
 
 どんな心構えが求められているのか、「命のある限り、主の家に宿る」ことです。

 旧約聖書にダニエル書という箇所があります。イスラエルにダニエルという少年がいました。けれど、時代はバビロンとの戦いの時代であり、イスラエルは戦いに負けて、多くの人々がバビロンの捕虜となるわけです。けれどダニエルは非常に優秀な少年でしたから、宮廷に召し抱えられて、三年間の学びを受けて、王に仕える者となりました。その後、ダニエルは異邦人でありながら、優れた働きを行い、何よりも人の見た夢を解き明かす能力が主なる神から与えられていましたので、王の見た夢を解き明かしたりしながら、より重要な役職を任せられるようになるわけです。

 けれど、そこで妬み、嫉妬する人々がいた、あのダニエルは異邦人のくせに、あんなに出世してしまった。王様から重宝がられている、なんと腹立たしいことか、そこで相談をして、王様にこう言いました。「王様、この国で一番は王様でありますから、向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、誰であれ獅子の洞窟に投げ込まれる。この勅令を出しましょう。」勿論、この策略はどんな時でも、ただ一人の神を信じ、神に従い、神に祈り続けていたダニエルを陥れるためでしたけれど、王様はそのことに気がつかず、「よかろう」とその勅令に署名して発布したわけでありました。妬みをもった人たちは、更に知恵を働かせて「これはメディアとペルシャの法律として変更不可能なものになります。」と念を押す訳です。

 ダニエルは王がその勅令に署名したことを知っていましたが、いつものように家に帰ると、二階の部屋に上がり、エルサレムに向かい、日に三度の祈りと賛美をささげます。待っていました、とばかり、彼らはダニエルを捕らえて、王の所に連れて生き、王様、ダニエルは王の勅令を無視して、日に三度も祈りを捧げていますと告げました。王は驚き、なんとかダニエルを助けようとしますが、適わず、ついにダニエルは獅子の洞窟に投げ込まれてしまいました。王はその日は食事を断って、眠れず過ごすのですが、次の日、急いで獅子の洞窟に向かい、「ダニエルよ」と声をあげて、呼びかけたところ、ダニエルは答えて「神様が天使を送って、獅子の口を閉ざして下さいました。だから何の危害も受けていません」と獅子の穴から出てくるではありませんか。
ダニエルは神を信頼していたからである。と聖書に記されています。

 皆さん、「ただ一つのこと」、それは「命のある限り、主の家に宿り」です。誰の家でもなく、主の家に留まることです。誰が何をどう言おうとも、主はわたしの光、わたしの救いとして留まり続けることです。留まり続けて何をするのか、それが次の御言葉、「主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」

 一つは喜んで生きる。私たちは、子どもの頃から、一生懸命に生きなさいとか、真面目に生きなさいとか、人に迷惑をかけないように生きなさいとか、そんな言葉を誰からも教わるのに、喜んで生きなさいという言葉を教わりません。でも、主の家に宿る人は喜んで生きる人です。

 そして「その宮で朝を迎えること」この言葉は、口語訳聖書から大きく訳しなおされました。口語訳聖書ではこうあります。「その宮で尋ねきわめることを」むしろ、口語訳の方が原語に近いと思います。しかし、その意図はよくわかります。朝を迎えるまでも、主なる神に尋ね極めようと願い求めることだという意味だと思います。

 先日、教会に電話に電話がかかって来ました。知らない方からの電話でしたが、「はい、教会です」と出たところ、「相談があります。お宅の教会では、悪魔祓いをして下さいますか」という相談でした。一瞬、本当に驚きましたが、牧師のプライドとしてはなんだか、出来ませんというのも癪だな、などと思いながらも、出来ますとも言えず、困った電話でしたけれど、出来るだけ丁寧に、丁寧に、どうしてそんなことを思うのですか、と尋ねて行きました。

 そしたら、少しずつ、自分が置かれている状態や、悩み、混乱や、どうしても悪魔に取りつかれているのという思いを随分話して下さいました。30分位は、聞いたでしょうか。その間、私の頭の思いは、精神科の病院に行きなさいとか、医者に診てもらったほうが良いとか、いつ言おうか、いつ話そうかという思いと、それは言わないほうが良いという思いの葛藤でしたが、それでも私は医者でもありませんから、牧師として「それは本当にお辛いですね。お辛いでしょう。」と何度も何度も話しながら、最後は、大きな声で、電話口でしたけれど、お祈りしましょうと言って一生懸命に祈りました。その祈りが聞いたかどうかは、神様だけが知っているとしても、その祈りの後に、ありがとうございました。と言って電話を切って下さった。
 
 最初に電話に出て、「悪魔祓い出来ますか」と言われて、なにそんなバカなこと言っているの、とか、病院に行った方が良いですよ、と言ったらすぐに切られたでしょう。なぜなら、その人は、周りの誰からもそのように言われていたからです。でも、そのままの思いを汲み取って、豆腐をそっと持ち上げるようにして、繰り返し、繰り返し聞き続けて、最後に祈ることが出来て、私は私の精一杯であったと思います。
 
 詩編の作者は、朝になるまでも神に尋ね極めることだと告げています。今、私達の身に起こっていることの本当の意味を、尋ね極める程に、その思いを尋ねて、尋ねて、尋ねる、そういう働きは、主の家に宿り、そこに喜びを見つけ、喜んで生きている私達こそがなすべき働きでありましょう。
 
 私たちは神の家族です。そのかなめ石は、主なる神であり、主イエス・キリストです。この方の家に私たちは住んでいます。神の宮は教会、あるいは礼拝堂と申し上げましたけれど、神はこの場に勿論おられますけれど、主イエスは、「二人または三人が、わたしの名によって集まるところに私もいる」と話されました。それは、礼拝堂だけではなく、私たちのそれぞれの家でも、学校でも、会社でも、つまりは、どこにおいても、そこが神の宮となるのだと思います。
 しっかりと神の家に宿り、喜びを持ってこの一週間も過ごして参りましょう。 お祈りします。
 

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