日本キリスト教団 大塚平安教会  

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練達は希望を

2018-03-19 11:05:33 | 礼拝説教
【ローマの信徒への手紙5章1~6節】
【マルコによる福音書10章35~45節】

 受難節の時期を過ごしておりますが、今日は既におわかりだと思いますが、説教題を「練達は希望を」と致しました。
 つまりは、ローマの信徒への手紙5章という箇所を読んで頂きましたが、ローマ書の中でも最も良く知られている箇所の一つだと思います。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」

 ここに、苦難、忍耐、忍耐、練達、練達は希望を生むとあります。私たちの人生、何かを始めようとすると、つまり立ち上がろうとすると、不思議なことに苦難があります。立ち上がらないとね、苦難にぶつかることもありません。
 何もしなければ、例えば、自動車の免許を取って、初めて自分の車を運転しようとする、助手席にはいつもいた教官がいない初めての運転。これはね経験された方も多いかと思いますが、実際のところかなり勇気が必要です。
 エンジンをかけなければ何も起こらないし、安全です。でも、エンジンをかけなければ進むことも出来ません。ですから、エンジンをかけて、進み始めるのです。けれど、その先、無事にこの場所に帰って来られるであろうか、本当にドキドキしながら進み始めるように、そして実際にとっさの判断が上手く出来ず、何度もドキッとする経験をする。あるいはあそこに木が立っているなと気が付いて、その木にぶつからないように、ぶつからないように、と気にしながら、でもどうしてもその木に向っていって、ぶつけてしまうのです。あそこに溝があるから気を付けなければと思いながら、でも、思えば思う程に溝に向っていくのです。本当に不思議ですが、そういうことが人生に起こるのだと思います。

 そのような苦難が、ご家庭において、職場において、あるいは学校で、多くの方々が経験されているのだとも思います。ですから、そのために、私たちはどのように生きるのか。

 その一つとして、与えられる苦難に対して、逃げる、避けるという方法があるとは思います。少なくともそのような苦難を見通して、向こうから石が飛んで来たら、何よりも逃げなければなりません。しかも必死に逃げて、振り向いてもいけない、振り向いたら石にあたりますからね。だから逃げるということも必要でしょう。何も、無理に頑張らなくても良いと思います。そういう苦難の避け方もあると思うのです。でも、逃げてばかりではと思い返して、よし、立ち向かっていこう、そう決めて立ち向かうという事もあると思います。

 今日はマルコによる福音書の10章という箇所を読んで頂きました。主イエスがエルサレムに向かう途中での出来事です。エルサレムに向かう御自分が捕らえられ、十字架刑になると知りつつ向っているわけですから、主はまさにその苦難に立ち向かおうとしていた時でもありました。
 弟子たちに対してご自身が、これから祭司長、律法学者に引き渡されて、裁判にかけられ、死刑となり十字架で死に、三日の後に復活すると話された。 弟子たちはその話される意味が良く分からなかったと思います。けれど、恐らく自分達なりの理解をしたのでしょう、二人の弟子、ヤコブとヨハネの兄弟が主イエスの側にやって参りまして、「主よ、栄光をお受けになる時には、私たちどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて下さいと」願うのです。
 
 主は「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるのか」と問い返しました。彼らは「出来ます。」と答えますが、この答えも、本当にその意味が分かっているわけではありませんでした。
 実際に、主イエスが捕らえられた時、既にその時に弟子たちは必死に逃げたわけで、それこそ後など振り向く間も無く、必死の逃亡であったでしょう。けれど、そのような逃げるから変えられて、立ち向かおうと決意する、この苦難こそわが誇りとなるまでには何があったのか、それは、主の十字架、そして、三日の後の復活、イースターの出来事と、更には聖霊降臨、ペンテコステの出来事が必要でした。

 ローマ書は「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」とありますけれど、与えられる苦難もまた、自分の誇りとなるまでに、何が必要なのかというと、神を信じる信仰と、その信仰に生きる実体ではないでしょうか。けれど、この実体を生きるというのはそうそう優しいわけではありません。だからどうしても聖霊の力が必要だと思います。

 先週の水曜日、幼稚園の卒業式がありまして、年長、星組の39人の皆さんが元気に卒業式に臨まれました。その式の中で、私が今年話しましたことは、二つ、いいですか皆さん、皆さんがこれから卒業するにあたって、忘れないで欲しい二つのこと、一つは「そのままのあなたでいいんだよ」ということです。これから小学校に行けば、中々、そのままのあなたでいいよと言われなくなります。もっと大きくなれば不思議なことにもっと言われなくなります。

 でも大切なことは「何が出来るのか、出来ないのか」ではなく、「早いのか、遅いのか」でもなく、そのままであなた方は本当に素晴らしいということを忘れないように。それからもう一つ「どんな時でも神様が一緒にいて下さいます。だから大丈夫」です。どんな時でも大丈夫。この言葉を忘れないでくださいとお話しました。

 半分はね、子どもたちに話しながら、その後ろで聞いているお父さん、お母さんに話しているようなものですが、そう話しましたと、次の日の木曜日に行われた座間地区の家庭集会でも話しました。
 そうしたらですね、その家庭集会に珍しく中学を卒業した娘が出席しておりまして、帰って来たら怒っているのです。お父さんは、嘘つきだというのです。(笑)私が良くない成績を取って来ると、とっても嫌な顔をするし、私はどんなに辛い思いをしたかと、恨みつらみを言うのです。一度も「そのままでいいよ」と言われたことなど無いと言うのです。」そこに兄弟二人も加わってきて、そうだ、お父さんが悪いというのです。(笑)ですからね、私も言いました、そんなことを言われても「そのままのあなたが素晴らしい」という土台があって、励ましたから、みんなが頑張れたのだよ。そこからスタートだよ。まあ、それでも中々納得しない、攻撃の手を休めません。ですからこう言いました。何を言われようと「どんな時でも大丈夫」。(大笑)

 皆さん、私たちが会話する言葉は、何を語っているのか、のその言葉ではなく、何を思っているかの心が伝わるものなのです。心の中で不安だなと思っているのであれば、どんなに「大丈夫」と一生懸命に話しても、伝わるのは「不安」であって、心の中で「何があっても大丈夫」と思いながら、「心配だね」と語るとしても、その言葉の背後にある大きな大丈夫が伝わるのものではないかと私は思います。結局の所、その人の実体が伝わるからです。大丈夫ならば、私たちは忍耐が出来ます。待つことが出来ます。

 私たちは苦難を誇りにするのは難しいかもしれない。苦難は苦難ですからね。でも、その苦難を通して、主にある信仰の実体を生きて、忍耐する力、そして忍耐は練達を最終的には練達が希望へと向かう、これが私たちの信仰のあり方なのだろうと思います。

 そしてもう一つ、苦難、忍耐、練達、希望、そのことを何よりも主イエスがそのように生きられたということを私たちは忘れてはならないのだと思います。

 日本基督教団には、伝道推進室という部署がありまして、先日、そこからニュースレターが送られてきました。何気なく目を通しておりましたら、その巻頭言の御言葉を青山学院で宗教主任をされている塩谷直也という先生が記しておられました。塩谷先生とは、これまで何度か面識もあり、仲良くさせて頂いている先生ですので、喜んで文章を読まさせて頂きました。そこで紹介されていたのは「教誨師」というタイトルの一冊の本でした。

 ジャーナリストの堀川恵子さんという方が記した一冊です。早速、図書館に行きまして借りて読んでみました。小説ではなく渡邊(わたなべ)普相(ふそう)というお坊さんがいまして、凡そ50年に亘って刑務所の死刑囚の「教誨師」として働かれた。その方の記録という形で記されてありました。

 週報をご覧になれば分かりますように、火曜日の私の予定は少年院となっていますように、子どもたちの教誨師をさせて頂いています。教誨師とは、受刑者と話しをしながら、心を聞き取り、励ます役割を担うわけですが、私がいく少年院は中学生から高校生、どんなに年長でも二十歳位の子どもたちです。彼らと色々と話しをするわけです。色々な理由で少年院にいる子どもたちですけれど、一人一人と面接し、話をしながら、でも彼らの心配の殆どは、ここを出たらどうやって生きていこうか、そういう不安ですが、その不安は一方では、皆、若いですから希望でもあるわけです。

 ですから、これまで色々とあったけれど、様々な苦難があったけれど、苦難は忍耐を、忍耐は練達を練達は希望を生む、こんな言葉は子どもたちにとって、とても励みになるに違いない、そんな思いをもって話しをさせて頂いています。

 けれど、渡邊普相さんの相手は、少年ではなく死刑囚だというのです。つまり、この場所を出て、またやり直そうという希望を語れない。一生懸命に話を尽くして、その人の更生の手助けをしても、そこから生きて出ることはないのです。そのような状況で死刑囚を相手にしてきた渡邊普相さんは、やがて自分が自分で耐えられなくなって、そしてついに酒に手を出したというのです。
 
 自らがアルコール依存症になっていったそうです。どうしても酒を止められない。家族に酒を隠されても、逆に本堂の裏の誰にも気が付かないところにウイスキーを隠して、そこにこっそり行ってまでも飲んだそうです。
 けれど、ついに病院に入院することとなり、入院しながら刑務所に通い、死刑囚と話しをしたのだそうです。一生懸命に仏の道を説きながら、しかし自分はアルコール中毒になっている苦しみ、誰にもそのことを打ち明けられない苦しみ、しかしついに、思わず彼は自分がアルコール中毒で苦しんでいることを死刑囚に打ち明けました。「自分も実はアル中で病院に入っているんじゃ」しかし、この思わぬ告白が、死刑囚の何人かの心を溶かすことになりました。「先生、あんたもか!よくわかる。酒も覚醒剤も同じだ。自分で止める以外には手が無いんだよ」と教えられ、「お坊さんよ、頑張ってくれよ」と励まされる経験をしたそうです。

 そんな経験をする中で、自分が自分で気が付いて来た。今までは自分は援助しなければならないと考え、与える側として、相手は受ける側でという一方向の考え方で、どこまでも自分が高い所に立とうとしていた。その為に、相手の苦しみに寄り添えなかったのだと、自ら気が付いて来たというのです。
 
 塩谷先生は先生なりに御自分の文章を記しながら更にこう記しています。「私たちは人間を「与える人」と「受ける人」とに単純に分ける。しかしこの様な区分をしている限り私たちは本当の意味で「与える」ことも「受ける」こともできない。何故なら、そう思うことで相手との間に大きな段差、壁をつくってしまうからである。」
 そして、ひたすら与え続ける側に立ち続ける生活は「美談」であっても、かなり危険である。一方的に与えるだけの人生は、心を閉ざすことに繋がるのではないかと締めくくっていました。

 皆さん、苦難、忍耐、練達、希望を本当に経験しておられるのは、私たちではなく主イエス・キリストです。私たちは、どこかで信仰によって希望に生きなければならないと思います。苦難から忍耐をと頑張ります。忍耐から練達をとギリギリまで頑張ります。その先に希望があると願って頑張ります。

 でも、その頑張りは、もしかしたら私たちは「与える側」にいると思っているからではないですか。本当に与えて下さるのは主イエス・キリストであって、私たちは「与えられて」、だから福音という希望が与えられていることを忘れてはならないと思うのです。

 「与えられた」者だけが本当に感謝して、隣人と寄り添えるのではないのかと思います。

 主イエスの福音は、主イエスが与えて下さる。私たちはそのお手伝いをするのです。そのままで良いよ。どんな時でも大丈夫だよ。なぜなら、神が、死に勝利し、復活された主イエスが私たちと共にいるからです。
 主イエスこそ、我が誇り、主イエスこと、わが楯、この方がおられるからこそ、希望がある。その希望を持ちつつ私たちは互いに歩んで参りましょう。

お祈りいたします。
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きいて!きいて!
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