日本キリスト教団 大塚平安教会 

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何倍もの祝福が与えられる

2022-10-09 14:08:23 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章1~15節】

 ヨハネによる福音書6章1節からの箇所を読んでいただきました。これまでヨハネによる福音書を読み続けてまいりましたが6章4節に「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とあります。これまで5章まで読んでまいりましたが、2章に記されていた、所謂主イエスの宮清めの出来事、エルサレムの神殿で、羊や牛を境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、台を倒して「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と告げられた場面、この場面も過越しの祭りの場面でした。
 
 その2章の場面から5章まで進み、今日の6章となって二度目の過越祭となります。三度目の過越祭で、主イエスは最後の晩餐、その後捕らえられ、裁判にかけられ、十字架に処せられます。そう思いますと主イエスの地上での宣教、その働きは真に短い働きでありました。しかし、主イエスと共に歩んだ弟子たちにとっては神の奇跡を目の当たりにし、メシアと共に過ごしたかけがえのない時間であったことをも思います。
 
 特に今日読まれました「五千人に食べ物を与える」というタイトルが付けられている出来事、そのタイトルの下には他の福音書との並行個所が記されている訳ですが、マタイにも、マルコにも、ルカにも同じ出来事が記されていることが分かります。
 
 先週の礼拝まで5章を読んで来ました。ベトザタの池の出来事が記されていましたが、そこには38年も歩けないでいた男が主イエスの「床を担いで歩きなさい」という言葉によって歩き出した、神の奇跡の出来事が記されていました。しかし、この奇跡の業はヨハネによる福音書のみで読むことが出来る箇所です。
 勿論、どの福音書にもそれぞれ特徴がありまして、その福音書でしか読めない特別な出来事や、あるいは主イエスの御言葉が記されていますけれど、逆に十字架と復活の場箇所を除くとして、四つの福音書が揃って、同じ出来事を記している場面はそれほど多くはありません。けれど主イエスが五千人の人々に魚とパンを分け与えた出来事は、四つの福音書全てに記されている、それにはきっと理由があっただろうと思います。
 どのような理由かというと、主イエスの業が行われ、その業を通して主の弟子たちが深く関わった出来事であったからではないかと思うのです。
 
 この聖書箇所を読み、また説教を考えるにあたって私は思い起こす出来事がありました。それは私たちの教会の出身教職であり、神学校を卒業してこの4月から横須賀上町教会で伝道、牧会されている杉野信一郎先生の教師の任職式が7月最後の31日に執り行われました。暑い日でありました。私は家内と共に出席いたしました。就任式の礼拝司式、説教者は神奈川教区議長でもある、横浜の蒔田教会牧師の古谷正仁先生でした。古谷先生は、その任職式で、ヨハネによる福音書6章1節からの箇所、すなわち今日読まれた聖書箇所を選ばれて話をされました。
そこで語られたことは、主イエスが祈り、五つのパンと二匹の魚を分け与え、人々が満腹した時に、主イエスが「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われ、集めてみるとパンの残りは12の籠が一杯になったという場面です。なぜ、12の籠一杯となったのか。主イエスは祈りながら、様子を御覧になりながら、思わず調子にのってパンと魚を出し過ぎたとか、残ったパンはどうしたとかも記されていません。私も、聖書を読み始めた頃にどうして12もの籠に残る程多くパンを裂いたのであろうかと思ったことがありました。

 けれど、古谷先生は、この12の籠は12人の弟子たちの為のパンが取り分けられていたのだと話されたわけでありました。そう話されながら、これから伝道牧会をされる杉野先生に対して、主イエスの働きに寄り添う弟子のような者となるようにと励ましの思いを込めてこの箇所を選ばれたのであろうと思いながら聞いていました。
ベトザタの池で38年もの間、歩けずに辛い生活をしていた男を癒された場面だけでもなく、読み進めていきますとヨハネによる福音書の11章では、主イエスの友であった三人の兄弟、姉妹のラザロの死の場面があります。ラザロが死んでしまった、けれど主イエスは、ベタニヤの彼らの家にやって来てラザロを生き返らす奇跡を成されます。これはヨハネによる福音書のみに記されている出来事です。
ルカによる福音書7章では、主イエスがナインという町に寄られた時、町の門に近づかれると、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでありました。母親はやもめで町の人々が大勢そばに付き添っていました。主はこの母親を見て、憐れに思い「もう泣かなくともよい」と声をかけられて、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人が起き上がってものを言い始めた。人々は大預言者が現れたと大喜びしたという出来事が記されています。この話はルカによる福音書にのみ記されています。

 福音書には幾つか、主イエスの働きは、神様の働きですから、死人をよみがえらせたという出来事が記されています。病人が癒されたとか、目が見えない人が見えるようになった以上の死人の甦りの出来事、人々は驚き、たじろぎ、この方は一体何者なのであろうと震えるような思いで主イエスを見つめたであろう出来事でさえ、四つの福音書全てに記されているわけではありません。

 でも、五千人にパンと魚を分け与えた、この出来事を、弟子達が福音書を記すにあたって、どうしても書き記したかった、忘れられない出来事なのです。
何が忘れられないのか、主イエスは弟子たちと共に、山に登りました。しかし、大勢の群衆が後を追いました。主イエスの奇跡の業を見た人々でありました。主は大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、弟子のフィリポに言われました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」すると、フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と答えたわけでした。
二百デナリオンですよ。一デナリオンが一日の労働の対価と言われます。仮に一日一万円すると二百デナリオンは二百万円となります。それだけあってもそこに集った人々が少しずつ分け合うほどだとフィリポは言ったわけです。更に弟子のアンデレは、「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と主に告げたわけでした。
弟子たちはもはや如何ともしがたい、無理な相談、諦めの思いを抱いていました。

 けれど、主はそこから人々を座らせて、パンを取り、感謝の祈りを唱えてから座っている人々に分け与えられました。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられました。でも、その時座っているのは男だけで五千人ほどです。女、子ども、年寄り、合わせれば倍の一万人もいたかもしれません。その一人ひとりにパンと魚を渡すために12人の弟子たちはどれだけ頑張ったことでしょうか。渡しても、渡しても、まだ足りない。汗が出て、疲れが出て、足腰が痛くなったかもしれません。でも、その時、その疲れ以上に笑顔であったに違いないと私は思います。

 一人ひとりが食べ物を受け取り笑顔になる、食べて満腹して幸せになる。良かったなぁと思って弟子たちも笑顔になる。でも、それ以上の喜びです。それは主イエスがなされた奇跡の業が、主イエス一人によって完結するものではなく、いつもなら、主の奇跡は弟子をも含めた人々を驚かせ、そこに幸いをもたらすものであったとしても、主イエスの奇跡が完全であったのに、この五千人に食べ物を与える奇跡は、弟子達の活躍無しには成り立たなかっただろう、そういう出来事だったのだと思うのです。

 勿論、主イエスは弟子たち無しでも、人々を満腹にと思えば、そう出来たでしょう。けれど、この時、弟子たちは主イエスの働きに参加させていただき、喜びを分かち合い、笑顔を交わしながら神の福音の働きをその身をもって体験出来たと思います。だから、この出来事は、どの福音書にも記されているのだと思います。

 神の働きに自分もまた参加させていただいている。自分もまたその働きを担わせていただいている。そして人々が満腹したとき、主イエスは12の籠に一杯になるほどのパンと魚を弟子達の為に残しておられて、弟子たちは笑顔でパンと魚を食べたことでありましょう。
 
 今を生きる、現代の教会の働きもこのような働きでありたいと願います。

 2年以上に亘り世界中がコロナ禍となり、世界中では650万人以上の方が亡くなったと言われます。そのような最中に、ロシアがウクライナに侵攻し、既に半年以上に亘って戦闘状態が続き、その見通しは決して明るいものではありません。先週、北朝鮮はミサイルを何発も発射し、韓国、日本を威嚇し続けています。
 6章の1節を読みますと「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」とあります。何気ない文ですが、ガリラヤ湖と記して、改めて、ティベリアス湖と書き直しました。ガリラヤは地域の名前ですが、ティベリアスとは、二代目のローマ皇帝の名前です。ガリラヤ湖のほとりに町が作られ、皇帝の名前を取って町の名前がティベリアスと名付けられました。それによりガリラヤ湖もティベリアス湖と呼ばれるようになったので、わざわざ書き直していると言われます。
 
 いつの世も、支配する側はその力でもって支配する地域を牛耳り、自分の思い通りにしたいと思う、それが人の思いではないでしょうか。それは今も、昔も変わらないのかもしれません。
 けれど、強大な力をもって世を支配していたローマ帝国も、ティベリアスの支配も、今となれば既にありません。
しかし、五つのパンと二匹の魚でもって、五千人の人々を満腹にし、笑顔と喜びをもたらした方の業は、昔も、今も、そしてこれからも読み継がれていくでありましょう。昔も、今も世界中の信仰を持つ者が、この世にあってこの方に希望をつないでいるのではないでしょうか。

 そのような力がこの方にある。この方を教会は示し続けて歩んでいます。この方の業に参加した弟子たちのように、そこに真の喜びを見いだした彼らのように、そして主の十字架の死と復活、聖霊降臨を体験して、この世のどのような権力によっても、消えることのなかった神の御力を信じて、この僅かな働きが信じられない程に大きくされて、多くの人々を満腹にして、笑顔をもたらした方を信じて、この新しい週も過ごして参りましょう。

お祈りします。

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