日本キリスト教団 大塚平安教会 

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「生きているのか、生かされているのか」

2023-01-01 12:46:46 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書15章15~17節】

 皆様、新年明けましておめでとうございます。新年1月1日が日曜日となりまして、主なる神に対する礼拝から一年を始められますことは真に幸いだと思います。
 
今日の説教題を「生きているのか、生かされているのか」と致しました。
 
 わたしがキリスト教と出会ったのは二十歳を過ぎてからです。池袋から西武池袋線が出ていますが、池袋から一つ目の駅に椎名町という駅があります。私は長くその町に住んでいました。一月一万七千円の床が斜めに傾いているアパートで長く住んでいました。
 1980年代です。今から思えばその頃の日本社会は景気の良い、幸せな時代であったと思います。
 けれど、私自身は仕事にも行き詰まりを感じていましたし、将来自分がどう生きていこうとするのか具体的な目的も見つけられず、体調も崩して、具合を悪くしてこれから自分がどうやって生きていけば良いのか、天を見上げて絶句したことを良く覚えています。
 
 その頃に、神様の導きとしか言いようがないのですが、私は聖書を読み始めました。
 
 旧約聖書は創世記から、新約聖書はマタイによる福音書から読み始めました。読み始めてすぐに、マタイによる福音書は主イエスの山上の説教となります。
 人びとを前にして主イエスが話をされる場面です。6章25節から「思い悩むな」という教えがあります。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかとか、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。」「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
 
 この聖書箇所の御言葉を読んだ時に、頭の中の何かが爆発したような気持ちになりました。今思えばまさに神の聖霊に包まれたとしか言いようがありません。
 
 これまでどう生きていこうか、どうやって食べて行こうか、どう生活していこうかとあくせくし、苦しんできた自分に対して神様は「思い悩むな」と教え、そう教えるだけでなく「あなたには価値がある」と話してくださる。自分自身の内になんの価値をも見いだせないで辛い思いをしていた自分にでさえ、「あなたに価値あり」と言ってくださる。しかも、そう言ってくださる方は天地創造なる神、主イエス・キリストです。
 素直に嬉しかったですね。自分には生きる価値もあり、神様は決して見捨てることは無い、あなたは生きているのではない、あなたは生かされて生きているのだと知らされたのです。神様が繋がってくださったことを素直に喜びました。

 それからほどなくして、教会の礼拝につながり、教会の仲間とつながり、信仰の兄弟、姉妹が与えられ、その過程を顧みますと、自分の人生がまことに幸いであることを改めて思わされます。
 
 自分自身が自分で生きていこう、なんとしよう、なんとかしたいと思っている時、それを試練と言っても良いと思いますが、人生のもがきを経験します。

 子どもの頃、川でおぼれたことがあります。夏の暑い時に、仲間と一緒に川遊びをしていた時に、水を飲んで溺れたのです。慌てました。苦しんで辛くて、もがいて足をバタバタして、死ぬかとさえ思いました。けれど、バタバタしていた足が地面に触れたのです。地面があると感じて立ってみようと思い立ったら、すっと立てて、水は膝よりも低い水位でした。自分は一体何をしていたんだろうと思って恥ずかしくなりました。
 でも、膝よりも低い水位でさえも、ダメだと思うともがくのです。人から見れば「なんだそれぐらい」ということでさえ、自分にとってみればそれは試練ですよ。

 神を信じる信仰者であっても、色々な試練を経験し、もがきを繰り返しながらの人生ではないですか。でも、その苦しみを苦しみだけとせず、人生の導き手であり、私たちを生かしてくださる方が手を差し伸べ、大丈夫、思い悩むなと言ってくださり、あなたは立ち上がりなさいと立ち上がらせてくださるのです。
その手の差し伸べ方は、どのような方法かと言えば、その人の「存在の肯定」です。

 人が経験する試練の多くは、「存在」ではなく「行動」によるものです。しなければならない行動をしない時、試練がやってきます。してはいけない行動をした時、試練がやって来ます。主イエスは聖書の中で、何度もファリサイ派、律法学者と対立します。

 なぜ対立するかといえば、彼らは律法を守るか守らないかが基準であり、主イエスは存在を愛すること教えたからです。クリスマス前にヨハネによる福音書を読みながら礼拝を守り献げていましたが、ヨハネによる福音書5章で、主イエスはユダ人の祭りの際にエルサレムに上られ、ベトザタの池と呼ばれる場所に行き、そこで38年も病気で苦しみ、自由に動けないいた人を癒されました。彼に対して「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました。主の癒しの奇跡が現わされた場面でありました。
けれど、その日は安息日でしたからユダヤ人たちは怒りました。そのようなことをしてはならんというのです。してはいけない行動をしたというのです。主イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」と話したのですが、それがまた彼らの怒りを買って、ついに「イエスを殺そうと狙うようになった」と記されています。彼らにとっての基準は律法です。そして行動です。行動するのか、行動しないのか、それによって、彼らは裁くことが出来ると信じていました。

 でも、主イエスからすれば、そこに病で苦しんでいる人がいる。38年も病の中で動けないでいる。その人を癒してあげる、安息日かどうかが重要ではなく、その人の「存在」を見つめているのです。人はその人の「存在」が認められるところで人として生き生きと生きられ、希望を持つことが出来るのです。

 今日は、ヨハネによる福音書15章15節からを読んでいただきました。主イエスが弟子達を前に話しをされている場面です。15章の状況としては、最後の晩餐を終えた後の場面です。あと数時間で主イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、十字架刑に処せられる、主イエスにはそのことが分かっている。主からすれば緊迫した場面です。そのような中で、主は弟子達に対して長く話をされました。言ってみれば遺言だとも言えます。特に15章は良く知られた聖書箇所で、「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」と主が話された場面でもあります。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と繰り返し言われた場面でもあります。

 そのような中、15節でこう言われました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

 主イエスが弟子達を前にその存在を肯定する言葉として「あなたがたはもはや僕ではなく、友だ」と告げました。主人と僕との関係は、僕は主人の思いを知らなくて良いというところにあります。命令されたことを行い、なぜそうしなければならないのかその理由を知る必要もありません。あるいは意見を伝える必要もありません。僕だからです。けれど主は、あなたがたは友だと言いました。僕ではなく「友」と呼べる関係、その特徴は隠し事が無いということです。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからだと告げています。

 勿論、この場面で弟子達が、主イエスの言葉の全てを理解したわけではありません。主イエスが心を込めて、思いの丈を話される御言葉の、その深い真理にまで行きつくには時間が必要です。

その内容を理解し、理解するだけでなく、それが行いへと移るまでには、主イエスの十字架と復活、復活された主と再会、更に主は天に昇られ、神の右の座に座された後、さらに聖霊降臨、ペンテコステの出来事によって、弟子たちは初めて主イエスが語られた御言葉の全てを理解したわけでありました。
 聖霊に満たされ、弟子たちは主イエスの福音を世界に向けて語り出すことになります。ユダヤ人のみならず、サマリア人に対しても、異邦人に対しても、その福音が宣べ伝えられるのです。聖霊を受けたペトロが福音宣教に出向き、「神は人を分け隔てなさらないこと」を理解し、「イタリア隊」の隊長コルネリウスに洗礼を授けて、エルサレムに帰って来て教会の人々にその話をした時、人々は「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を賛美したと使徒言行録11章には記されています。

 先ほど、行動によるものではないと申しましたが、ペトロがこのように行動が行えたのは、その存在が認められ、大切にされていることをしっかりと受け止めたからです。何度も申しますが人はその存在が認められるところでこそ、輝くことが出来、希望を持ち、前を向けるのです。

 主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのでない。わたしがあなたがたを選んだ。」とも話されました。わたしたちが神から生かされている者として、その存在を肯定されている者として神が選んでくださったのです。
 神は、私たちのうちにこの世的な価値をみいだして選ばれた訳ではありません。

 私たちはこの世的な価値観の中で生きています。この世的な価値観の中で判断され、人の目盛で測られ、そこで喜んだり、悲しんだりするのです。それが私たちの生きている社会でありましょう。

 けれど、神の価値観は違うところにあるようです。コリントの信徒への手紙一1章にはこう記されています。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。」
神の選びはこの世的に知恵ある者、能力ある者、家柄の良い者だからではないと告げています。なぜか、知恵ある者は知恵を誇り、能力ある者は能力を誇り、家柄の良い者は家柄を誇るからでしょう。なら誰が主なる神を誇るのでしょうか。神を誇る者は、世の無学な者、世の無力な者だと聖書は記します。

 この言葉を記したのは、ユダヤ教の学者、博士とも言える使徒パウロですよ。どれだけ能力があったかと思えるパウロですよ。でも、パウロは神の前に自分はどれだけ弱いかと知っていました。だから、「弱い時こそ、強い」という言葉も記しました。

 主なる神は、神の前において自らの内に誇る者が無いことを知る者をこそ選ばれるのでしょう。なぜならそのような一人ひとりが、主なる神を誇って生きるからです。主なる神から選ばれ、主なる神によって生かされる人生を、私たちはこの2023年という新しい年も生きていきましょう。

 今日は最後に旧約聖書申命記7章6節からの御言葉を読みます。旧約聖書292頁です。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」
わたしたちは、主なる神から選ばれ宝の民とされた一人一人です。神に生かされ、命与えられ、地上の命を生きてる者です。生涯、主を賛美し、神を喜び、隣人と共に過ごして参りましょう。
お祈りします。

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