日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の栄光を見失わないように

2023-01-22 15:33:52 | 礼拝説教
ヨハネによる福音書7章10~24節

 先月、年の暮れに私は意決して、兄に電話しました。一つはコロナ禍が続いていますが、それでも入院している母親のお見舞いに行けるようになったことを伝えるために。
それは私たちにとって喜びでしたけれど、二つ目はこの3月末をもって教会を辞任することを伝えるためでした。兄は驚いていました。驚いていましたが、すぐに「母親はどうするのか」と聞かれました。私は少しだけですが、淡い期待を持っていました。お前も大変だから、母親のことは、兄の俺にまかせろと言ってくれないかなと思っていたわけです。
 
 けれど、結局そのような言葉はありませんでした。勝手にこちらが期待しただけですから特別な思いもありませんでしたが、私はその電話の後に、最後の最後まで私が母親の面倒を見ようと決意した次第でありました。
 多くの方がご存知のように、私は男四人兄弟の次男です。私の家はいわば伝統的な仏教といより日本的文化を持った家だと思います。父親は木彫の彫刻師ですし、母親は田舎の歌舞伎一座の娘です。でも私は成長するにつれ人生に悩み、聖書を読み、そこで生きる力を与えられ、主なる神の導きによって、洗礼を受け、信仰を持ち、主の導きと信じて牧師となりました。
 
 菊池家の中にあっては、私の家族以外は、誰もクリスチャンではありません。クリスチャンでないどころか、私の生き方を批判的に見ているところもあると思います。日本の中には、特に田舎にいけばいくほどキリスト教はよその宗教です。家族伝道も難しいと言われますけれど、そういう面においてもまだまだ、私は家族に対してさえも伝道活動が足りず、なすべきことが沢山あると思っています。
 
 だからこそでもないですが、なすべきことの一つとして、母親の面倒は私が見る。私自身、これからどうなっていくとしても必ず母親の面倒は見ようと思っています。それが、神を知る人の道だと信じるからです。
 
 いきなり、なぜそのような話をしたのかというと、主イエス・キリストという方が自分の人生に入り込み、自分の心が揺さぶられる時、人はその時に、二つの道のどちらかに分かれていくのだろう、と思わされたからです。
 
 本日読んでいただいたヨハネによる福音書7章12節にこうあります。「群集の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」という者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。とあります。
 
仮庵の祭りがエルサレムで行われていました。ですから時期としては秋です。10月頃の話です。主イエスの兄弟が主に告げました。「あなたはエルサレムに行って、自分自身を明らかにした方が良い、自分が王なら王、メシアならメシアだと告げることが大切だ。」と話しました。しかし主は「わたしの時はまだ来てない」と言われてガリラヤに留まられたのですが、結果的には人目を避けて、隠れるようにしてエルサレムに向かわれました。なぜ、人目を避けたのか、まだ、主イエスの時ではなかったからです。 主イエスの時、すなわち十字架の時まで、あと半年待たなければなりません。それ故に人目を避けてエルサレムに向かわれました。

 けれどエルサレムでは既に結構な騒動になっていました。ユダヤ人の指導者たちはイエスを捜して「あの男はどこにいるのか」と言って回っていたのです。「あの男はどこにいるのか」この訳は良い訳です。この乱暴な言葉には怒りと焦りが混じっています。あの男ですからね。律法学者、祭司、ファリサイ派といった人々は、主イエスがこの祭りにやってくるのではないか、やってきたらどうするかというより、19節に「なぜ、わたしを殺そうというのか」とあるように、機会があれば、殺してしまいたいと思ってたわけです。
 
 なぜ、怒りと焦りがあったのか、12節にこうあります。「群集の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
 「良い人」とはあの人は親切な人だとか、優しい人という意味ではありません。むしろこの良い人とは、まことに私たちの救い主かもしれない。メシアなのかもしれないという思いが込められている言葉です。一方で「群集を惑わしている」と言う人たちの思いは、ただの惑わしというよりは、「偽預言者だ」とか「ベルゼブルの頭、魔術師だ」といったニュアンスなのです。旧約聖書のレビ記20章(27節)に「男であれ、女であれ、口寄せや霊媒は必ず死刑に処せられる。彼らを石で打ち殺せ。彼らの行為は死罪にあたる。」とあります。古来、ユダヤ教社会では、魔術師、霊媒師は、民を惑わし、信仰を阻害するものと考えられ、魔術師、霊媒師は石で打ち殺される対象でした。
 ですから、「群集を惑わしている」と言う言葉の背景は、石打の刑に値するという意味なのです。主イエスと関わりを持つ時、二つに分かれるのです。主イエスはメシアか石打の刑か、それほどのインパクトを持って人々は話していた、でも、ユダヤ人指導者たちの怒り、焦りを恐れて、イエスについて公然と語るものはいなかったわけです。
 具体的な例はあげられませんが、現代社会でも同じような事が起こっているのは確かではないかと思います。

 仮庵祭という祝いの祭りでありながら、一週間の祭りの期間、ユダヤ人指導者は「あの男」を巡ってイライラし続けていたと思われます。

 そこに主が現れました。14節「祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた」とあります。主は人目を避けて、エルサレムにやって来ていました。そして一週間の半ばですから、三日目とか、四日目でしょうか。神殿の境内に上り、具体的には神殿の外庭のソロモンの廊下ではないかと言われます。
 その場は、良く知られる高名な教師、ラビたちが、人々を前にして話をしていたそうです。有名であればあるほどに多くの人々が集まったことでしょう。
 そのような場所に、突然主イエスが現れて、そして人々に対して教え始められた。話し始められました。人々は驚いたことでしょう。でも、きっと大勢の人々が主イエスの言葉を聞きたい集まっていたのではないでしょうか。聞いた人々は「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのか」と不思議に思うほどでした。それ程に主イエスの御言葉は、人々の心を捉え、感動を与え、力を与えたのではないかと思います。

 この方は一体どこからこのような力が与えられているのか、その問いかけに答えるようにして主イエスは「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」と話されました。

 自分は自分の思いではなく、主なる神の思いを告げているのだというのです。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求めるというのです。この御言葉はとても大切な御言葉だと思います。
 私は、1995年に教団の補教師となりました。それ以来今年で28年目を迎えました。

 補教師になって花巻教会に参りました時、花巻教会の牧師は女性の先生でしたが、体が弱い方で、60歳となって引退されるというので私が呼ばれたわけでありました。その先生は40歳で牧師となられた方でしたから、20年教会を牧会された方でした。一年に日曜日は52回ありますから、一年に50回、礼拝説教されると考えれば、20年で1000回になります。当時1000回の礼拝説教なんて、信じられない、考えられないと話したことを思い出します。けれど、いつの間にか私自身20年は遥かに超えて、28年となりました。その間、果たしてどれだけ「お遣わしになった方の栄光を求める」説教が出来たかと思うと、まことに情けない自分であることを思います。けれど、同時に自分の栄光を求めて説教したわけでもないとは思います。これまでの間、私自身が気を付けていた事の一つは、礼拝の後に、こちらから「今日の説教どうでしたか」と絶対に聞かないようにしようと決めていました。良かったと言われれば自分の鼻が高くなり、良くなかったと言われれば、自分自身が落ち込んでしまうからです。
 どちらにしても、自分の感情が大きく揺れ動かされ、自分にとっても、教会にとってもそれは良くないことだと思い、言われれば謙遜に聞くとしても、こちらからは聞かない姿勢を貫いてきましたし、これからもそうしたいと思っています。
 
 でも、私もやっぱり人間ですから、どんなに気持ちを引き締めるとしても、自分の栄光を求める者の一人だと思っています。ですから批判はいつでも引き受けなければなりません。けれど自分に対する批判は引き受けるとしても、主なる神の栄光が汚されないようにと自分なりにですが務めて来たつもりではあります。
 大切なことは、語る者も、聞く者も、主イエスをお遣わしになった方の栄光を求め続けることです。なぜならそれが真実だからです。

 私たちは主なる神の真実なる栄光、光に包まれなければなりません。その光に包まれて生きていかなければなりません。主の栄光に生きる教会でなければ、私たちは、その未来に間違いを犯してしまうかもしれません。
 今の時代、コロナ禍が長く続いています。教会員の高齢化が叫ばれ、逆に若者は集まらないと言われます。経済的に非常に厳しい状況が続いています。私たちの教会もその例外ではありません。でも、だからダメなのではなく、このような時にこそ、私たちに対して、決して諦めずに何時でもどんな時でも、共にいてくださる方を見失わず、この方から力を得て、神を愛し、隣人を愛して過ごして参りましょう。この方の栄光を汚すような事があってはなりません。

 真実は極めて単純です。自分も祝福され、隣人も祝福され、その回りの人々も、巻き込まれるように祝福されていく、そうなるようにと私たちは神様に招かれているのです。私たちも主なる神の恵みの相続人であり、恵みと喜びを告げる一人一人なのです。感謝して、今週も過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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