日本キリスト教団 大塚平安教会 

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良い実を結ぶために

2017-07-26 13:03:57 | 礼拝説教
【マタイによる福音書7章15~23節】


 7月の第2週の日曜日、各部集会が行われましたがその際青年会を行いました。教会の青年会をこれから、少しでも活発にしていければと願いながら、色々と取り組んでいこうと思っておりますが、7月の青年会は、横浜にある教会というタイトルでお話をさせて頂きました。

 横浜と言っても、横浜には教会は沢山ありますから、一回目として横浜の神奈川区にある教会に絞りました。それでも沢山の教会がありましたが、準備の為に、私は直接神奈川区にある教会の一つ一つの教会に出向きまして、教会を見せて頂いて、写真を撮って、週報を頂いて話を伺って参りました。そういう意味では私自身が一番学びになったと思います。
 
 訪問した教会は、日本基督教団ではない五つの教会ですが、その中で、特に印象に残りましたのは、横浜ハリストス正教会です。一般的にはロシア正教と呼ばれる教会です。
 
 日本が江戸から明治になった頃に、海外から多くの宣教師がやって参りましたが、ロシア正教からも宣教師がやって来ました。特に有名な宣教師がニコライという宣教師です。北海道にやって参りまして、主に日本の北の地域を中心に宣教したと言われます。
ただその後、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命等が起こり、正教会の日本での伝道は順調にはいかず、困難であったという話も初めて知った話でありました。
 東京のお茶の水にニコライ堂という正教会の美しい建物がありまして、今は国の重要文化財となっているそうです。横浜ハリスス正教会もニコライ堂を小さくしたような形です。   
 礼拝堂を案内して頂きました。中に入りまして本当に驚きました。全く私たちの教会とは違います。何から何まで違うと言っても良いのですが、大きな違いは二つで、一つは礼拝堂一面に、イコンと呼ばれる聖人の絵で埋め尽くされています。青年会では写真を撮って皆で見たのですが、いつか一緒に見る機会があればとも思いますけれど、金や銀といった派手な色が沢山使用されてかなり豪華な印象を受けます。同じキリスト教の教会なのだろうかとさえ思う程ですが、もう一つの大きな違いは礼拝堂に椅子がありません。ですから、広くがらんとしている印象があります。なぜ、椅子が無いのか、椅子がなかったらどうやって礼拝を守るのか。皆さんが立って礼拝を守るのだそうです。
 
 2時間、3時間と続く礼拝を皆が立って礼拝をする。ニコライ堂も、基本的には立って礼拝するそうです。勿論、現在は、年配の方とか、理由があって立っての礼拝が厳しい方には椅子が用意されるようですが、なぜ、椅子が無いのか、後で調べましたら加藤常昭先生が記した文章の中にその答えを見つけました。そのまま読みますが「そのひとつの理由は明瞭です。居眠りなどさせてはいけないということであります。」とあります。
 
 私たちは時々、礼拝の特に牧師が説教をしている時に眠ってしまうことがあります。特に今日のような暑い日に暑さの中家を出て、時間をかけて教会にやって来られる。礼拝はやはり緊張が強いられますし、しかも、大きな声で共に讃美歌を賛美し、立ったり、座ったりしながら、牧師の説教の時間となると、やっと一息つきたくなるものです。すると、不思議なことに、というか不思議でもないのですが、眠くなってくる。人の体とは自然にそうなるものだと思いますし、むしろ、1分でも2分でも、つい眠りこけてしまっても、その後、目が覚めてすっきりして説教を聞くことが出来ますので、私は寝てはいけませんなどと言うつもりもありませんが、けれど、だから寝ていても仕方がないというわけにも行きません。
 
 礼拝を守る、礼拝を献げるとはどういうことなのか。これも加藤常昭先生が記された文章そのままですが「礼拝すること、それこそが私どもにとって生きることであります。ここにおいて、生きることの充実、ああ、生きていてよかった、このように生きることは素晴らしいことだという体験をすることがないと、教会になぜ来るのか、改めて問い直さなければならないと思います。人生の充実はまず、礼拝において始まるのであります。」とありました。
その通りであろうと思います。礼拝の時間だけが、普段の生活から切り離されているわけではありません。

 東京大学で教えておられた信仰の先達でもある隅谷三喜男先生が「二階建ての信仰」という言葉で、私たちの信仰について説明されたことがありました。いつもの日常の生活は一階で生活している、でも日曜日になると、今日は礼拝の日だからと二階に上っていく、二階で礼拝を守り、神様に感謝し、礼拝を献げ、そして、礼拝が終わると一階に降りて来て、さあ普段の日常生活に戻ろうと言う。そんな思いが日本人の思いの中にあるのではないかと説明されました。良く分かるなぁと思って、良く覚えております。

 隅谷先生は礼拝と日常が切れてしまっているのではないかと指摘しているのでしょう。生きていて良かったなぁと礼拝でも思い、その思いのまま日常生活を営んでいく、生きていると色々とあるけれど、主なる神によって生かされている人生を、喜びを持って、感謝を持って、生きていける。周囲の人が、あなたはどうしてそんなに喜んでいられるのか、感謝して生きていられるのかと問われた時に、はい、私は教会に通っていますから、礼拝を守っていますからそう答えられるのならどんなに幸いであるかと思います。そのような礼拝に大塚平安教会も更に目指して参りたいと願います。

 今日はマタイによる福音書の7章15節から読んで頂きましたが、主イエスが人々を前にして山上の説教の中で教えられている、しかし既に終盤の箇所となります。人々に対して「偽預言者を警戒しなさい」と話されました。この警戒すると言う言葉は、先ほどから申し上げていることで言えば、眠らない、よ~く、注意して目を覚ましていなさい。目を凝らしていなさいという意味になります。なぜ、目を覚ましていなければならないのか。偽預言者がいるからだというのです。

 本日はエレミヤ書の7章という箇所も読んで頂きましたが、エレミヤが生きた時代に、エレミヤが苦労した一つは偽預言者であったと言われます。今日読んで頂いた箇所はそのことが良く分かる箇所の一つです。「主からエレミヤに臨んだ言葉、主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。『主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダヤの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主はこういわれる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。』なぜ、神殿の門でエレミヤがこのように人々に告げなければならなかったのか。イスラエルの人々が異教の神々を拝み、バアルと呼ばれる異教の神に従い、時には盗み、殺し、姦淫し、偽りの誓いをしながら過ごしているからだというのです。日常の生活では神を顧みず、過ごしつつも礼拝の為に神殿に集まって来ては、神の前に立って、立って礼拝を守っていたと思われますけれど、そして「救われました」と言うからだと主なる神がエレミヤに伝えているのです。
 
 イスラエルの人々にとって、エレミヤよりもずっと偽預言者の方が、ずっと本物らしく見えていたと思われますし、また、偽預言者の方がずっと、人々に心地よい言葉を語り続けていたのかもしれません。
 
「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来る」と主イエスは言われました。羊の皮の意味は、神の使いという意味があるようです。あたかも自分は神の使いのようにしてやって来るというのです。優しそうに、柔らかそうにやって来て誘うけれど、中身は貪欲な狼、それが偽預言者だというのです。

 しかも、もっと凄いことを主は話されました。22節ですが、「かの日には、大勢の者がわたしに「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろと行ったではありませんか。と言うであろう。」かの日とは神の審判の日です。神の御前に出されるときです。神の前に出された時に、神の前で主よ、わたしは御名によって預言し、悪霊を追い出し、奇跡を起こし、一生懸命に生きてきましたと語るのです。それは何も弁明でもなく、本当にそう思って、正直な思いでそう告げているように思います。けれど、そのような人々に対してして、23節では「そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ』これはどう考えればよいのか。
 
 例えば、こういうことではないかと思います。8月に入って最初の週は、平和聖日でもあり、教会の創立記念日となっています。例年、礼拝を行った後に、幼稚園の園庭でバーベキューを行っておりますが、流石にこの年の暑さの中でバーベキューをするのは辛いのではないか、それよりもずっと信仰的に実りのある礼拝、礼拝そのもので創立記念を祝えたら良いのではないかと役員会で考えました。
 
 その中で、礼拝の中で、短い時間ですが、特に信仰生活の長い方の中に、証をして頂くというのが良いのではないかと決まりました。役員会ではあの方が良い、この方が良いというのです。でも聞いていると、とても引き受けて下さらないだろうなと思う方の名前がどんどん出るのです。誰が交渉するのですかと聞いたら、牧師がやって下さいと言う。私は本当に困りました。お願いしても無理だろうなと思いまして、ですから、一か月近く頼めないでおりました。
 けれどどうしても進めなければなりませんので、決意してお願いしました。最初から無理かなと思っていますから余計かもしれませんが、やっぱり断られるのです。何人とは申しませんが、次々と断られて行くのです。それでも、本当に幸いなことに、週報に記してありますように間島九子姉妹が引き受けて下さいました。とはいえ、間島さんも本当のことを言えば「ハイ、分かりました。お任せください」と言って下さったわけではありません。必死になってそれだけは勘弁して下さいと何度も言われました。でも、最後はね、分かりましたと話して下さり、私は間島さんと神様に感謝しました。
 
 証をするというのは、時には自分をさらけ出すようなものだと思います。神様を前にして、聞く一人ひとりを前にして、自分は信仰を得て、こんな立派なことが出来た、人生が成功した。信仰を得て上手くいきました。といったサクセスストーリーを話される方もおられますが、それも良き証になるでしょう。 
 けれどまた、実に自分は神の前に力ない者であるか、情けない者であるかを証するようなものなのだとも思います。けれどそんな自分を神様が用いて下さったことに感謝する、けれどそれをまた、言葉に乗せて、皆さんの前で話をする、それほど簡単な事ではありません。簡単に引き受けるわけにはいかないと思われると思います。

 ましてや、かの日に、つまり主の裁きの前に出て、主なる神を前にして、主よ、私は御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を色々行いました。と本当に言えるものでしょうか。例えば私が主の前に立たされた時に、主よ、わたしはいつもあなたの名によって間違いのない、正しい説教を話して来ました。いつも力ある業を行ってきました。立派な愛の業を示して参りました。自分の力でこれだけの人が救いに導かれましたと言えるのかと問われるとするなら、それは全く出来ないことだと思います。

 むしろ、私は悲しいくらいに、神の前に、恥ずかしさのあまりに泣き出してしまいそうになるかもしれない。何一つ主の満足のいくようなことが行えませんでしたと、やっとの思いで告げることになるのではないかとさえ思います。けれど、それは私だけでもなく、恐らく多くの皆さんも同じ思いを持たれるではないかと思うのです。

 むしろ偽預言者と呼ばれるような者こそ、主を前にして堂々としているのかもしれません。けれど、だからこそ主は『あなたのことは全然知らない』と言われるのではないでしょうか。

 ここまで話しまして、改めて思いますのはこの偽預言者とは誰なのかということです。主イエスは「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」と話されました。実とは信仰による実りのことです。具体的にはどんな生き方をしているのか、どんな行いかということです。口では立派に話すけれど、少しも行いが伴わないからあの人はダメだとか、あの人は口だけだとか、恐らく牧師が一番そう言われているのかもしれませんが、主イエスの言葉で言えば、偽預言者とは「不法を働く者ども」です。行っているのか、行っていないかという比較でありません。「主よ、主よ、と言っている者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と主は話されました。

 大切なことは「天の父の御心に生きる」ということだと思います。しかし、それこそ、本当に容易なことではありません。私たちの人生で、生きていく中で、これこそ天の父の御心であると確信をもって生きることは本当に容易ではありません。むしろ、それがわからないから悩みながらの生活ですし、悩むのが嫌だからと自分でさっさと決めて、自分の道を生きようとする人がなんと多いことだろうかとも思います。しかし、自分の意志で自分の思いのままに生きる時、その時天の国はますます遠くなっていくのではないでしょうか。

 そこで、大切になってくるのは、私たちに与えられているこの聖書の、例えば今日の箇所は主イエスの山上の説教と呼ばれる箇所でありますけれど、ここに記されている主イエスの御言葉の一つ一つを私たちは知らないわけではないと思います。聖書に記されている御言葉を知らないわけではありません。知らない訳ではないのに、御心がわからないと簡単には言えないと思います。主イエスがお知られる、話しておられる一つでも実践してみる、「人を裁くな」「求めなさい」「敵を愛しなさい」そのような御言葉を聞くためにも毎週の礼拝があり、そこでしっかりと目を覚まして、御言葉を聞くということは、神の御心を生きていく為に大切なことではないでしょうか。だからこそ礼拝が、私たちにとって大切なものとなっていくのだと思います。
 私たちの人生が神の御心を生きるものへと益々祝福されますように、共々に祈りつつ、新しい一週間を過ごしてまいりましょう。


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