日本キリスト教団 大塚平安教会 

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渇かない生き方を求めて

2022-07-31 11:55:41 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書4章1~15節】

 礼拝においてヨハネによる福音書を読み続けています。今日の礼拝から4章となりました。「イエスとサマリアの女」というタイトルが付けられた箇所です。
 
 3章では、エルサレムを離れた主イエスが弟子たちと共にヨルダン川で「新しく生まれるため」の洗礼を授けていました。一方においては、バブテスマのヨハネも人々に「悔い改め」の洗礼を授けていました。

 主イエスは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けていますから、いわば師匠と弟子といった関係です。ですからそれぞれに洗礼を授けていたとしても、その意味においては大きな違いは無かったかもしれません。けれど、人々は次第に主イエスの洗礼の場所に集まるようになっていきました。なぜか都言えば、違いは一つです。3章31節にありますようにバブテスマのヨハネは「地に属する者」であり、主イエスは「天から来られた方」だからです。
 ヨハネはそのことを知っていました。しかし、そのことさえ喜んでいました。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」3章30節に記されています。

 けれど、4章に入り、そのような主イエスのもとに多くの人々が集まって来ているという状況であると、ファリサイ派の人々の耳に入ったとあります。
 バプテスマのヨハネの「悔い改め」の洗礼も、主イエスの「新しく生まれる」ための洗礼も、もともとユダヤ人にとって必要としない洗礼でありました。
 ユダヤ人は神の民であり、自分達には神の律法が与えられ、男性は割礼を受けている。それは神の民としての誇りであり、プライドとなっていました。
 ですから、ヨハネの働きも、主イエスの福音宣教も既存のユダヤ教に対する、宗教改革といった色彩が強いものであったと思います。
 
 主イエスの働きが、注目され盛んになるにつれて、ファリサイ派の人々が妨害して、止めさせようとしたのかもしれません。この時に、実はバブテスマのヨハネは、ヘロデのほうは兵隊によって逮捕され牢に入れられたのだと考えることも出来ます。
 
 主イエスも自らの危険を察知したかもしれません。一旦ユダヤを去り、御自分の故郷であるガリラヤに戻ろうとしたのだろうと思われます。
 
 ユダヤからガリラヤに向かう、その途中にサマリアと呼ばれる地域がありました。地図を見ることはしませんが、北にガリラヤ地方があってそこにガリラヤ湖があります。その下の地域がサマリア地方です。その下にエルサレムがあるユダヤ地方となります。ガリラヤの人々は、エルサレムに向かうには通常サマリア地方を通らないで迂回してエルサレムに向かいました。サマリアの人々もエルサレムに向かうガリラヤの人々を通さなかったと言われます。なぜかといえば、ユダヤ人とサマリア人は互いに仲が悪く、特にユダヤ人からみれば、サマリア人は軽蔑の対象でもありました。
 
 その歴史は古く、ソロモン王の後継者争いの時代にまで遡ることが出来ます。ソロモン王の後継者の争いが激しくなり、結果的に国が二つに分かれて、北イスラエルと南ユダに分かれてしまいます。紀元前930年後の話です。分かれてからは、南ユダはエルサレムの神殿で礼拝し、北イスラエルはエルサレムに行かせないために、新しくダンとベテルに神殿を作り、金の子牛を置いてそこで偶像礼拝のようにして神を崇める礼拝をしていました。
 それだけでも、南ユダからすれば軽蔑の対象となるのですが、その後も度重なる戦争によって北イスラエルの土地に色々な民族、人種が住むようになり、いわばユダヤ人としての純粋性が失われていくことになります。
 
 同じ歴史を辿り、同じ神を信じていたはずなのに、様々な出来事によって少しずつ違う状況、環境が与えられていく、それは良いとか悪いということよりも、近しいだけにその違いが非常に気になり、気になることとは気に入らないことなのです。

 いつの間にか差別、軽蔑、憎しみの対象となっていく、ロシアがウクライナに侵攻した経緯も、互いが極めて近しい関係であった故であったと言われていますが、韓国と北朝鮮の関係もまた近しさ故の問題があるのかもしれません。

 ガリラヤの人々が神殿のあるエルサレムに向かうには、サマリアを通るのが一番の近道ですが、わざわざ迂回したようです。サマリアも自分達の土地を通過させなかった、けれど、通過させる場合もありました。それは逆のルート、エルサレムからガリラヤに戻るのであれば、サマリアを通ってもよろしいとなっていたそうです。
 ですから、主イエスと、弟子たちがサマリアを通れたのは、エルサレムからガリラヤに帰ろうとしていたからです。状況的には急ぎの旅でした。けれど、また主イエスは意図してサマリアを通ったと考えることも出来るでしょう。
 どのような意図があったのか、それが今日読まれた「サマリアの女」との出会いと会話に現れてくるわけです。
 
 主イエスは旅に疲れてそのまま井戸のそばに座っておられました。正午ごろのこととあります。今、私たちの国は真夏の暑さを経験しています。イスラエルは基本的には私たちの国より暑い国です。正午ごろ、最も日の光が高い、大分暑い時間帯です。
 そこに一人のサマリアの女が井戸に水を汲みにやって来ました。水汲みの仕事は朝一番の、涼しい時間に行う仕事でした。そうでなければその日一日が始まりません。ですから正午頃に水を汲みに来る、それにはこの女性なりの理由がありました。

 その理由については、次回の礼拝に回しますけれど、人と接したくなかったのだろうと思います。主イエスは水を汲みにきた女性をじっと見つめていたのでしょう。そして何をどう思ったか、突然声をかけました。「水を飲ませてください」この言葉はいわば驚きの言葉です。
 人と接することを嫌がっていた女性が、人と接しなければならない状況となった、女性にとって、それだけでも十分な驚きだと思います。けれど、それ以上の意味を持つ驚きの言葉です。
 一つは、当時の習慣として公の場で、男性から女性に声をかけることはありえないことでした。二つ目に、聖書に記されているように、ユダヤ人はサマリア人と交際しませんでした。一説では、互いに目を合わせることさえしないようにしたと言われます。
 交際と言う言葉は、同調する、共有するという意味にも取れます。女性は「主よ、あなたはくむ物をお持ちではないし、井戸は深いのです」と話しています。ユダヤ人とサマリア人が同じ器を用いて水を飲む、これもまたあり得ないことでした。
 
 三つ目に、主イエスがサマリアの女性に対して、「水を飲ませてください」と願いました。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていました。この場合、大切なのは「買う」ことです。つまり、買うことによってサマリア人から負い目を受けないようにしていたのです。けれど、主イエスはサマリアの女性に願いました。謙り、自ら負い目を受ける立場となったと言えるでしょう。

 「水を飲ませてください」という言葉は、当時のイスラエルの人種的、宗教的、社会的に立ちはだかって壁を乗り越える言葉でもありました。女性からすれば、何重にも亘って信じられない言葉、大きな驚きであったと思います。
 
 なぜ、主イエスが「水を飲ませてください」と願ったのか、主イエスは喉が渇いていた、これは勿論その通りでしょう。けれど、主イエスの眼差しが私たちに伝えていることは、サマリアの女性が生きて来た中で、何度も人生の渇きを感じ、生きる希望を失い、そしてとうとう人目を避けて昼に水を汲みに来るようになった、そのような生き方に、潤いを与え、生きた水を与えたいと願ったからでありましょう。
 生きた水とは、停滞していないという意味です。いつも動いている水です。泉のように湧き出て流れていく、そのような動き続ける水を意味しています。
 
 女性は、主イエスとの会話を通して、当初、この男は一体だれだろうと思っていたでしょう。けれど話せば話すほどに、自分自身の心の内にあった渇き、これまで誰も癒してくれることが無かった渇き、潤うことのなかった思いが満たされて行く感覚を感じていたのではないでしょうか。
 今日は15節までで区切りましたが、次の礼拝では16節以降を読む予定です。そこにはこの女性がこれまで5人の夫がいて、今、連れ添っているのは夫ではないと記されています。なぜ、そうなったのか、誰が悪いのか、誰に責任があるのか、何も分かりません。けれど、女性の人生が乾ききっていたことは間違いありません。

 その渇きに神の潤いを与えようと、主「水を飲ませてください」と願ったのでしょう。そして、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と女性に語り掛けるのです。
 永遠の命に至る水、それは主イエスをメシア、救い主と知ることです。人間は、人生の渇きを感じる時に、自分がいかに小さい者であるかを感じます。夜空を見上げて、星を見つめながら、人はどんなに小さな者であるかを感ぜずにはおられません。人はなぜ生れ、どこに向かって生きていこうとしているのか、そのように思う時、案外、人生の空しさを感じているような時ではないでしょうか。
 しかし、神を知り、主イエス・キリストを知ると、渇きが癒され、生きた水が心に流れてくるのです。
 
 今、教会では、毎週火曜日に英会話教室を開いています。教会員のTさんが英語の先生ですから英会話を教えてくださいます。小さい教室です。中学生レベルの英会話ですから予習もいりませんし、楽しいだけの時間です。
 
 Tさんは現在の学校制度の中で、どれほどの学生が英語の授業で落ちこぼれてしまっているかいつも嘆いておられます。本当に分かっていない学生が多いと話してくださいます。なるほどと聞いていますけれど、実際、私自身、中学、高校と全くの落ちこぼれの学生でした。特に英語は酷かった。だからTさんが話される意味を私は良く分かります。
 
 私が英語を勉強し始めたのは、聖書を読んでからのことでした。聖書を読み、私も神様から愛されていることを知り、恐れるなという言葉に励まされて、一人で英語の勉強を始めました。塾に行くお金もなく、でもなんとかしたいと考えてバイト先でもそのような勉強が出来る仕事に就きました。そのようにして2年、3年と殆ど毎日必死に勉強し続けました。NHKのラジオが先生でした。既にその頃、出来れば牧師なる学校に入りたいという目標を持っていましたから、必死でした。必死でしたけれど今から思えば、あの頃は本当に楽しかったとも思います。
 
 なぜ楽しかったのか、心が潤っていたからです。渇いた心に主イエス・キリストが渇く事の無い水を与えてくださり、貧しくても、食べるものが無くても、何も無くても楽しいなぁと感じていました。そして、その楽しさは、今も少しも衰えることはありませんし、生涯衰えることは無いであろうと思っています。
 
 主イエスは「私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と教えておられます。私たちは、主イエスが与えてくださる水をしっかりといただきましょう。人生の歩みを潤す神の水をしっかりと受け止めて、私たちは生きていきましょう。

お祈りします。

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