日本キリスト教団 大塚平安教会 

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闇の中に昇る光

2021-05-23 15:28:56 | 礼拝説教
詩編112編1~10節
使徒言行録2章14~21節
「闇の中に昇る光」

 今日は聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝です。昨年のペンテコステ礼拝は5月31日、5月最後の礼拝でした。7週間に亘る第一回目の緊急事態宣言が終了して、最初の会堂での礼拝がペンテコステ礼拝でした。
 昨年は「聖霊を受けると人生が変わる」という説教題で話をしています。

 主イエスと共に歩んだ弟子たちでしたけれど、思いがけなく主イエスが捕らえられ、十字架刑に処せられる。これで全てが終わったと思っていたのに、三日後に復活された主イエスが弟子たちの前に現れてくださった。なんという奇跡、弟子たちは驚きと共に、多いに力付けられたでありましょう。
 
 主は40日に亘り、弟子たちと共におられましたが、その後天に昇っていかれます。この時も弟子たちは随分と力を落としたであろうと思います。神が我らと共におられないわけですから、その喪失感は大きかったでしょう。
けれど、主は弟子たちに約束したように、天に昇られてから10日後、つまり主の復活から50日目、(ペンテコステとは50番目、50日目というギリシャ語です。)弟子たちが一つになって集まり、祈りを献げていた時に、天から炎のような舌が分かれ分かれに現れて、一人ひとりに上に留まりました。

「すると一同は聖霊に満たされて、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話しだした」とあります。

 聖霊に満たされて、すなわち、どんな時も主イエスが我らと共におられるという信仰を再び取り戻し、確かな確信、喜びを感じ、喜びを自分だけのものとするのではなく、この喜びを人々に語り伝えたい、分かち合いたいと思い、立ち上がり、しかもただ語りだすだけでなく、それぞれの国の言葉で語りだしたわけでした。。聞いていた人々は、自分達の故郷の言葉で福音を伝えられるものですから、驚いたことでしょう。でも自分の国の言葉で話される、そのよく分かる御言葉は一人ひとりの心の奥まで届いたのではないでそしょうか。
 
 そのようにして神の福音の宣べ伝えが開始されたところから、ペンテコステは教会の誕生日とも言われます。教会はペンテコステの出来事から始まった。ですから私たちもまた新しい思いを持って、この一年も、状況に寄らず、主の御言葉を語り告げていきましょう、と心新たにする時でもあると思います。
 
 今、私達が生きる社会は、コロナ感染予防の対策の為に大変な状況です。緊急事態宣言が東京をはじめとする10の都道府県に出されています。ワクチンの接種は始まりましたけれど、中々進んでいない上に、今の状況は一年前と変わらないというよりは、もっと悪くなっているかもしれません。

 先日、ある外国の方と話をしていましたら、「新型コロナ感染予防」を英語で一体なんと言えばよいのか、訳が分からず困りました。 

 迷っていましたら、直ぐに教えて下さった。「パンデミック」でしょ。世界ではパンデミックと言うようです。

 パンデミックとは、感染症の世界的大流行という意味です。100年前にスペイン風邪と言われるインフルエンザが世界的に広がり、パンデミックになりました。それ以前にも、コレラ、ペストをはじめ、伝染病が大流行した時代もあり、当時は私達が想像出来ない程の世界的な大混乱になったと思います。更にそのような病気は人間社会の考え方や、生き方を大きく変えて来たとも言われます。今の時代も一つの時代の変わり目となると思います。

 弟子達が神の聖霊を受けて、力強く立ち上がり主の御言葉を宣べ伝えて教会が誕生しました。誕生した教会は、当初は厳しい迫害を生きながらも生き延びるだけでなく、歴史的な経緯は省きますが、世界中の人々に宣べ伝えらえることになります。そして、勿論、人の社会の中で、幾多の戦争に巻き込まれ、時には戦争を引き起こす原因ともなりました。欧米では宗教改革と呼ばすにただ改革と言う程に、社会の変化をもたらした時代もありました。時代、時代において人は時には戦争、時には飢饉、時にはパンデミック、と言った、生きるのが困難な時代を潜り抜けて来ました。私はその都度に、教会も大きな変化が求められつつ、社会の人々と共に歩んで来たと思います。
 
 今のこの時代も、特にパンデミックが治まった後には、社会が更に変化していくでしょうし、教会もその変化に対応することが求められるであろうと思います。聖書には、「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」とありますように、どのような社会になろうとも、主の御言葉が変わることは無いと思います。

 どのような時代であっても、人は神の御言葉のうちに人の命を見いだして、力を得て人生を歩みだし、その歩みに主が伴って下さるだけでなく、毎週、毎週の礼拝へと力を得るために帰ってくる。基本的にはそこは変わらないだろうと思います。

 けれど、教会はその時代、時代において、神の御言葉の前に、様々に変化しながら歩んで来ました。国の特性や、自然環境、民族性といったことも多きく影響していると思いますが、まさに聖霊に満たされて熱狂的に、踊ったり歌ったりする、教会も多くあります。一方においては、聖書を重んじ、聖書の御言葉を学び、御言葉に厳格な信仰、厳格な礼拝を守り続けている教会もあります。あるいは、社会的な問題に注目し、差別問題に、社会、経済、政治と深く関わりを大切にして歩む教会もあります。

 私は、そのどれが良くてどれが悪いということではなく、どんなタイプの教会もその生きる社会において求められている必然の姿だと思います。
 
 アメリカの黒人が多く集まる地域の教会に、世界的に有名な牧師が招かれて、一時間伝道説教をしたそうです。そしたらその後に、その教会の責任ある牧師が、更に一時間続けて説教したそうです。招かれた牧師は驚いて終わった後になんで話したのと聞いたら、集まっている一人一人が生活に困窮している、仕事もなく、でも家族を守り、健康を支えていかなければならない、その日その日を生きていかなければならない厳しい状況を生きる彼らが、元気になって、よし生きていこうと思うまでに、一時間では足りません、と答えたそうです。

 私は、社会状況が教会を変えることもあると思うし、教会が社会を変えるそういう時代もあると思います。どちらが大切かというよりは、どちらにしても、変化するには痛みが伴い時もあり、闇の中に迷い込む時もあり、全てが上手くいく訳でもなく、予定通り、予測通りに変化してきたということも無いと思います。
 
 それだけに大切なことは、私達の力はどこから来ているのか、どこから来るのかを忘れてはならないと思うのです。私達の力は、神の聖霊の力です。聖霊が働くときに私達の働きも祝福され、聖霊が働かない時には、私達の働きも実り少ないものになるでしょう。
 
 更に言えば、時代、状況の中で、私達が計画を立て遂行しようとする時に、それが本当に主の御旨に叶っているのか、叶っていないのか私達には分かりません。私達の計画に対して神様が現れてくださり、「よしきた」と計画書の裏に、神様がサインしてくださるわけではありません。
 
 それならどうするのか、答えは動き続けていくしかないということではないでしょか。今の時代、最初からあきらめて何も動こうとしない若者が増えていると言われます。失敗すればそれなりに傷つきますから、傷つかないほうがましだと考えているようです。傷はつかないと思いますけど将来は見通せません。それよりも舟を漕ぎだしてみよう。竿を川の流れに、海の波の中にさしてみようとする努力が求められているのではないでしょうか。

 もがくようなものかもしれません。前に全然進まないかもしれません。依然として闇の中かもしれません。

 でも、今日読みました詩編には「まっすぐな人には闇の中にも光が昇る」と記されています。必ず神の光が昇る時があって、そしてそれは神の聖霊の力が確かに私達の上に働いた時であろうと思います。
 
 聖霊が私達の上に注がれ、パンデミックの中で、苦しんでいる一人一人の上に注がれるように祈り、神様の御計画に感謝しながら、今週も過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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