日本キリスト教団 大塚平安教会  

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魂を陰府から引き上げてくださる

2019-05-14 09:30:17 | 礼拝説教
【詩編30編2~4節】
【ルカによる福音書24章1~12節】

 皆さん、イースターおめでとうございます。旧約聖書詩編30編を読んでいただきました。4節にこうあります。「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れ わたしに命を得させて下さいました。」

 今年のイースターは、今日4月21日です。イースターは移動祝日日と申しまして、毎年日にちが変わります。基準は春分の日で、春分の日の次の満月の次の日曜日がイースターとなります。少し複雑な計算でイースターが決まるのですが、今年は、例年になく遅いイースターとなりました。調べましたら、今日以上に遅いイースターは、凡そ20年後の2038年が4月25日となっておりました。是非、ここに集う皆さんと一緒に、生きて(笑)そのイースターもお祝いしたいと願っています。

イースターの二日前は、今年は19日ですが、金曜日が受難日となります。

 私は、その受難日に、ある古い知り合いの方で、私が町田の教会におりました時からずっとお付き合いがあるご婦人ですが、信仰を持って生きておられた方でしたけれど、教会には、随分長く通われておられませんでした。
 その方が95歳で亡くなられたという知らせが入りまして、ご家族だけで葬儀を行ったというのです。けれど、どうも、心の中で収まりが悪いと思われたのでしょうか。ご家族から電話が入りまして、納骨式だけでも行えたらとお願いされまして、急な話でしたが、私で良ければと二日前の19日に行って参りました。

 私も含めて、身内の方5名で納骨式を執り行いました。95歳、とても安らかに召されて行かれたと伺いました。それでも、晩年は脳梗塞を起こされたりして、割と長く認知症を患っておられたとも伺いました。式の前に少し時間があったものですから時間を待ちながら話をする中で、長男の方が、母親が認知症となり、病状が進み、誰が誰かもわからなくなるまで生きるというか、医学の力で生かされるというか、果たしてそれが良いことなのかどうか、と思うと話されました。その方自身、お医者さんですから、余計に様々な思いが心にあったと思いますし、お母さんの年齢も考えつつ、率直な思いであったろうと思います。

 私自身、認知症となっている母親と一緒に過ごしておりますから、少しずつ弱っていく母親の姿を見るのは、中々辛いものがあります。
ですから、その方の言われた意味が良くわかるような思いも致しました。けれど、同時に、丁度、受難日でしたから、主イエス・キリストの十字架の死をも思わされておりました。

 改めて主イエス・キリストの十字架の意味は何であったのかを思います。

 私たちは、まず何よりも恐ろしいと感じるのは、思わぬ病気、そして死ぬということです。自分が病気になる、その先に死が見えている。実は昨日の昼前に、突然の事でしたが、それこそ前任の町田市の教会の教会員の方から電話が入りまして、私たちの教会の礼拝にも出席されたことがある方が、今、海老名総合病院に入院しておられるというのです。それでどうも危ういというのです。

 その方が、お見舞いに伺ったら、入院されている方が、菊池先生に会いたいと言われたと言うのです。ですから、どうしても黙っておられなく電話を下さいました。すぐ午後に、夫婦お見舞いに行って参りました。病状としては、確かに非常に厳しい状況でした。お会い出来て喜んで下さいましたが、本人はもう覚悟は出来ています、と寂しい言葉を言われて、それでも願わくは回復されますようにと願いながら、三人で泣きながらお祈りいたしました。

 心を合わせて一緒に祈りました。祈ると、不思議ですね、やっぱり少し元気になられるのです。病気というものは、勿論、全知全能の神に祈るわけですからね、祈って癒される、確かにあると思います。でも、祈っても癒されない場合もあるでしょう。でも、祈っても癒されないとしても力が出るのです。そこではっきりと分かりますのは、何か、切れていたものが繋がったということです。

 自分でも考えてもいなかった思わぬ病気となる。また、その先に死を思わされる。あたかもそれは自分の体も心も、また、見守る家族もまた、魂が陰府にまで引き落とされてしまうような思いをするのではないでしょうか。病気、そしてその先にある死、それは繋がっているものが切れていくのだと思います。

 病院に一人入院している、その心細さも含めて、繋がっていた社会から自分が切れていくように思う、繋がっていた人と切れていくように感じる。切れて、切れて、自分の魂が陰府の方向に向いていくように感じる。
けれど、祈りの力は、その逆です。切れるのではなく、繋がっていくのです。そして、何よりも主なる神と繋がる時にこそ、人は本当に力が与えられるのだと思います。

 詩編30編を記した作者も、どうも30編全体を読みましても、この人は、恐らく重い病気を患っていたのではないかと思わされます。必死に回復を願い、祈り、求めていたものと思われます。自分の命の灯火も、あと僅かであろうかと思いつつ、しかし、この詩編の作者は回復したようです。ですから、非常に力強く「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを あなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させて下さいました。」主なる神に対して、大きな喜びと、深い信頼、神を称える賛美の詩編を記しました。

 神としっかりと繋がっている様子を伺い知ることが出来ます。

 人の病気は、現代の医学をしても、全てが癒されるわけではありません。人生100歳の時代と言われるようになったとしても、癒されない病も多くあり、長く患い、本人も家族も辛い苦しい経験をされる方も少なくありません。主よ、なぜ、そうなのですか?とまさに訴えるような思いで、神に祈られた方もおられると思います。

 しかも、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう」と告げたヨブ程の信仰にも、私たちは中々到達するものでもないと思います。とはいえヨブでさえ、その後、与えられた病の中で、苦しみ、辛さを神に訴え続けるのですが、ヨブの信仰が優れていると言われる所以は、状況、状況によって、神を恨み、神に訴え、もう死なせて下さいとさえ告げるとしても、主なる神と切れることはなく、ついに繋がり続けたという点なのではないでしょうか。

 先ほど申し上げました納骨式の後に、5人ですから一台の車で、皆で帰路につきました。その中の一人、召された方のお孫さん、と言っても30代位の方ですが、今、オーストラリアに住んでおられるというのです。8歳のお子さんがいて、キリスト教主義の学校に通っているのと言っておりました。そして、こう言われました。「先生、実はオーストラリアの若者の自死率が先進国と言われる国の中で、一番高いのです。なぜでしょうか。」と聞いてくるのです。

 突然、そう聞かれてもオーストラリアの事情がどうなっているのか、私も分かりませんし、答えに戸惑いました。戸惑いましたけれど、自死率であるならば、日本も大分高いはずですが、と申しましたら、若者だけで見るとしたら、オーストラリアは凄く高くて問題になっているというのです。

 住んでおられる方がそう言われるのですから、その通りなのだと思います。でもどうしてなのか、色々と話しをする中で、思いついたのは、先進国と呼ばれる国の若者の多くが、ある年齢になりますと、自分の人生を自分で決めなければなりません。

 オーストラリアの学校の事情はよく分かりません。進学するにも日本のような受験の形なのかどうかはわかりませんが、何らかの試験があるのは間違いないでしょう。その試験に受かるかどうか、合格か不合格かという時代を過ごさなければなりませんし、就職するにしても、いつも比較され、比べられ、出来るか、出来ないかがいつも問われる状況は、日本とあまり変わりが無いのではないかと思います。更には、合格、不合格も大切な問題ですが、自分の将来をどう生きようとするのか、誰もが問われる時が来るのです。
 それは昔ならあり得なかったことです。農家の子供は農業を、商売をしている家は商売を継ぐのが当たり前の時代もありました。けれど、今は何にでもなれる、何をしても良いと言われる。それは若者にとって案外、プレッシャーなのだろうとも思います。あなたはあなた次第で、どうにでも生きていける。自分が好きな事を生きていける。

 これほどの自由は無いはずなのに、果たして自分は何をどうしたいのか、そんな大切なことを簡単に決められるものでもないと思います。だから、自分はどう生きようかと迷う。しかも、横を見ると、もう横の人は既に自分の人生の設計図を描き出していたりしますから、余計に取り残された感を感じる若者もいるかもしれません。

 つまり、どう生きたら良いのか分からない、その分からないを、親も、学校の先生も分かってくれない。自分で考えなさいと言われても分からないものは分からない。気持ちだけ焦って、一歩も前に出ないのです。停滞している、止まってしまっている状況が起こるのではないでしょうか。

 止まっているとは死んでいるようなものです。墓穴に向かっているようなものです。どうしても若者の自死率が高くなりがちになるのかもしれません。

 けれど、詩編の作者はこう告げました。「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ 墓穴に下ることを免れさせ わたしに命を得させてくださいました。」

 停滞していると思う、止まっていると思う、なぜそうなのか、神と切れているからです。若者と呼ばれる年齢の人々の多くは、自分は自分で出来る。自分でやれる。実際、自分はやっていると思うでしょう。けれど、自分で思っている程はやっていないとうことも気が付かず、しかも、神と切れていると、復活された主イエス・キリストの、神のエネルギーが溜まって来ませんから、エネルギーが溜まらないとどうなるのか。生きている感動から遠くなるのだと思います。

 ルカによる福音書の24章からを読んで頂きました。主イエス・キリストの復活の場面であります。週の初めの日の明け方早く、安息日があけてすぐに婦人たちは十字架で死なれ、墓に納められた主のご遺体にせめて香料だけでも塗りたいと願ってやってきました。しかし、やって来ると、既に蓋の役割をしていた石が取り除けられて、中に入るとご遺体も無い、途方に暮れていると、二人の天の使いが現れて告げるのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中から捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」そう言って、主イエスの復活を告げ知らせるのです。婦人たちは驚き、大急ぎで戻って、十一人の弟子たちと、他の仲間たちにその一部始終を知らせました。けれど、その話を聞いた使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、信じませんでした。「そんなバカなことがあるだろうか」そう言って取り合わなかったというのです。

 けれど、その話を聞いて、ただ一人、弟子のペトロだけが立ち上がりました。そして墓へ向かって走り出しました。ここで使われる「立ち上がった」という言葉は「復活した」という言葉と同じ言葉が使われていると言われます。

 もともと、ペトロは、弟子たちの中にあっても、少しそそっかしいところもあり、時には、「主よ、あなたはメシアです。救い主です」と告げて褒められたかと思えば、次には、十字架と復活の御言葉を聞いて、主に対して、そんなことを言っては困りますと諭して、逆に叱られたり、「主よ、わたしは、あなたが行かれるところなら、どこにでもついて参ります」と言ったその後で、十字架刑とされる裁判の中では、「私はあんな男は知らない」と三度も告げたら、鶏が鳴いて、それが主の言われた通りだったので自分で自分が悲しくなって泣いてしまったりするのです。

 時には信じたり、時には信じなかったり、時には疑ったり、時にはメシアと言ってみたり、つまり、私たちの信仰を代表するような人だと言えるでしょう。

 でも、復活の話を聞いた時に、他の弟子たちは動こうとはしませんでした。主イエスは死んだ、そして、弟子たちもまだ死んだままなのです。

 でも、ペトロは立ち上がりました。死から生に向かって、魂がしっかりと陰府から引き上げられて、それによって墓穴に向かうことを免れ、そして、必死になって走ったことでしょう。汗を流し、息を切らし、一目散に、でも、希望を持って、いや確信を持って、主の復活の栄光の場となった場所へと向かったことでしょう。そこに既に迷いはなかったでありましょう。

 人は、そのようにして神の復活に触れるならば、必ず自分もまた立ち上がることが出来る。切れてしまっている思いが、神の復活によって繋がり、命がよみがえり、力が与えられるのです。それが主イエス・キリストの十字架と復活の出来事なのだと思います。
 このイースターによって、私たちは更に強く復活の主と繋がり、どんな状況の中にあっても、主我と共におられる、だから大丈夫と、何度倒れようとも、何度打ちのめされる思いをしようとも、その出来事さえ、自分の宝物として、止まらず、動き出して参りましょう。私たちの教会もそのようにして死から勝利され、復活された神の栄光に守られ、確かな将来が与えられていることを信じて歩んで参りましょう。

 お祈りいたします。
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きいてきいて
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