日本キリスト教団 大塚平安教会 

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助け手を授けてくださる神

2021-10-25 10:05:51 | 礼拝説教
1 二つの創造物語

 今日は、降誕前第9主日、ペンテコステの翌週から始まり、22週間、約5ケ月の長きにわたって続いた聖霊降臨節が先週で終わり、教会の暦の上では、今日から新しい一年が始まります。そして、日本基督教団か定める教会暦の最初の主日の聖書課題は、毎年、「創造」がテーマとなっています。

 皆さんもよくご存知かと思いますが、聖書には、二つの創造物語が記されています。

 一つは、神が天地万物を七日間で造られたという天地創造の物語で創世記1章1節から始まり、2章4節の「これが天地創造の由来である。」という言葉で締め括られています。そして、それに続く2章4節の後半から始まるアダムとエバの物語が二つ目の創造物語で、3章には、アダムとエバが蛇に騙されて、神が「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われた善悪の知識の木から食べて、エデンの園から追放されてしまうという、有名なお話が記されています。今日は、その前の2章の部分がテキストとして示されました。
 ここでは、天地万物の中でも、特に、人間の創造について焦点を当てて語られています。今日は、このテキストから、人とは何か、人はどのようなものとして造られたのかということについて、示されてまいりたいと思います。

2 人はどのようなものとして造られたのか

 初めに、「主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。」と記されています。「地と天を造られた」という言い方には、この物語を語り伝えた人々の関心が、遠い天よりも、自分たちが生きるこの地上世界に置かれていたことが如実に表されているように思います。しかし、その地上の世界は、はじめは木も草も生えていない、荒涼とした世界であったと言います。そして、その原因として、物語の書き手は、二つの事柄を上げています。

 一つは、「主なる神が地上に雨をお送りにならなかったから」だということです。私は、最初に、二つの創造物語と申しましたが、1章の天地創造の物語と2章の人間創造の物語の間には、色々と矛盾する記述が見られますし、創造の業や創造主である神、造られた被造物である人間や地上の世界についてのイメージもかなり違っているように感じられます。例えば、今ここで問題となっている「水」についても、1章の天地創造物語では、「水」は、人間が住む乾いた地を取り囲む「海」として記され、その海は、大きな怪物やうごめく生き物が生息する恐ろしい所として描かれています。それに対し、2章の人間創造の物語では、「水」は、神が雨として地上に送ってくださり、地下からも湧き出て、土の上をすべて潤し、命あるものすべてに潤いを与える恵みとして描かれています。

 そして、もう一つの要素として上げられているが「人」です。「土を耕す人もいなかった。」だから地を覆う木や草が育たなかった。ここでイメージされている木や草は、熱帯のジャングルのような、人を寄せ付けない原生林では決してなく、人の手が入ることによってより良く育つ緑、日本の国土で言えば里山や田畑の緑であり、聖書の世界で言えば、まさにエデンの園の緑がイメージされています。そのエデンの園の土地を耕し、木や草を手入れし、守り、育てることこそ、神が人に与えられた務め、人の使命なのだと、この人間創造の物語は伝えているのです。

 先ほど、創世記1章と2章の創造物語には色々と矛盾があると申し上げました。確かに1章では地を覆う草や木は第3日に造られ、人間は、それより後の第6日に造られていますが、2章では、その順序は逆になっています。また、2章では、人間の使命は耕すことだと伝えていると申しましたが、1章では、人間の使命について、28節で「地を従わせよ。海の魚、空の鳥、家畜、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」と、全く違った言われ方がされています。1章に記されているこの支配命令をめぐっては、西欧の産業近代化の歴史の中で、人間は、人間以外の生き物や自然環境を我が物のように自由に貪ることが許されているのだというふうに解釈され、そうした誤った理解が、近代の産業振興や地域開発を後押ししてきた半面、今日の地球環境破壊を助長することになったのだと言われています。確かに「従わせる」、「支配する」という言葉には、元々、王の国民に対する強権的な力をイメージさせる意味合いもありますが、本来、王の権力は、国民の生活を守るためのものですから、1章で使われているこの言葉は、地上のすべての生き物や自然環境を主権者である神の意志に基づいて正しく管理し、統治しなさいということを意味しているのです。

 一方、2章で使われている「耕す」という言葉は、元々、奴隷や僕を表す名詞と同じ根を持つ言葉で、「働く」、或いは「仕える」というのが本来の意味です。ですから、創世記1章、2章を通じて、人間の使命は何かといえば、神が創造された地上のすべての被造物を神の意志に基づいて適正に管理することだと言えますが、そのやり方について、1章では、王に与えられているような管理権限が強調されているのに対し、2章では、大地に雨を降られる神と、大地に仕えて耕す人間との共同作業という側面が強調されているように思います。

 このように、神様は人間をご自身のパートナーとしてお造りになったわけですが、どのように造ったかのというと、7節に「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」と記されています。つまり、神様は、人間を、陶器師が土を捏ねて陶器を作るようにして、人間を造られたというわけですね。このことは、一つには、人間は、その存在とその形態を神に負っているのだということ、それと同時に、人間は大地に属する者なのだということを表しています。元々、大地の塵にしかすぎなかった人間は、神様が息を吹き込むことによって、生きる者とされました。けれども、この段階では、人間はただ生きているだけで、まだ、真の意味での人間にはなっていません。そのため、8節では「人をそこに置かれた」と、まるで物のように表されています。人は、人間単体があるだけでは人間たり得ず、生活空間や食料、労働、共同体といった、人間の様々な生活諸相を伴ってはじめて真の意味で人間となるのです。それで、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされ」ました。また、人はエデンのすべての木から取って食べることを許されましたが、ただ、食べるだけでなく、神様は、人に、園を耕し守るという仕事、使命も与えられたのです。

3 助け手とは

 しかし、これでもまだ、人は孤独な存在でした。食べる喜びを分かち合う友もいませんし、労苦を共にする仲間もいません。人間らしい喜怒哀楽もまったく感じられません。神様はこのような人間の有様をみて、物足りないと思われたのでしょうか。それとも、哀れに思われたのでしょうか。いずれにしても、このままではいけないと思われたのでしょう。それで、主なる神は「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と思い立って、人間のパートナーとして、様々な獣や鳥を、人間と同じように土を捏ねて造られ、それを人のところに持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶかを見ておられました。「おい、羊。」とか、「おい、クマさん。」とか呼んだのでしょうか。その呼びかけがすべてその動物や鳥たちの名前になったと言います。名前を付けるということは、日本でも「名は体を表す」と言いますが、イスラエルの人々にとっても、名前はその人の全人格を代表するものでした。それゆえ、名前を付けるという行為は、創造の業の一環であり、造られた者の存在を意味づけることであって、名付けた対象を自らの支配下に置くことにほかなりません。しかも、人が彼らに名前を付けて呼びかけても、彼らは人に通ずる言葉を持ち合わせていないので、相互のコミュニケーションには限界があります。

 私が犬を飼っていることはご存知かと思いますが、彼にCocoと名前を付け、呼び掛ければ反応してくれますし、彼の方からも、お腹がすいたとか、遊びたいとかの意志は示してきて、ある程度、気持ちが通じ合うことはありますが、基本的には従属的な存在です。猫の場合は、事情は少し違うかもしれませんが、人格的な関係を持った対等なパートナーとはなり得ないということでは変わりないでしょう。聖書の物語でも、人は結局、動物たちの中からは、自分に合う助け手を見出すことができなかったと記されています。そこで、主なる神は、人を深い眠りに落とされて、人のあばら骨の一部を抜き取って女を造り上げ、彼女を人のところに連れて行ったのですね。そうすると、人は「ついに、これこそ/わたしの骨の骨。わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」と、歓呼の声を上げます。ヘブライ語の語呂合わせもあって、わたしたちには何だか訳の分からない表現ではありますが、それまで全く沈黙してきた人が、小躍りしながら発した心からの喜びの声だと思います。
 人は、遂に彼に合った助け手と出会うことができたのです。しかも、ここで言う「助け」とは、「わたしの父の神は、わたしの助け」というように、聖書の中では、神の助けというようなところで使われている言葉ですから、単なる補助的なお手伝いのことではありません。英語圏では、自分の妻のことを敬意をもってベターハーフ、つまり一つの夫婦の内のよい方の半分と呼ぶことがありますが、人は、そのような、自分と対等かそれ以上の真の助け手として女を受け止めたのだと思います。

 では、何故、人は、女を自分に合う助け手として受けとめることができたのでしょうか。女も彼と同じく、言葉を喋れて人格的な会話が出来たからでしょうか。それもあったかもしれませんが、聖書は別にそのことには触れていません。私は、ここで聖書が伝えている大事なメッセージが、女が人の体の一部から取られて造られたというところに隠されていると思うのです。あばら骨を取られる前の人アダムがどんな存在であったかを考えてみましょう。彼は、実は、はじめの段階では男ではありません。えっと思われるかもしれませんが本当です。何故なら、人は神にかたどられて造られた存在だからです。私たちは天地万物を創造された主を「父なる神」と呼びますが、それは神の父性的な特性に注目して「父」と呼んでいるだけで、神に性別があるわけではないのです。その神にかたどられて造られた人は、当然、男でも女でもないのです。彼は、男女の別のない孤立した存在です。彼には欠けはなく、すべてを満たされていたので、誰かの助けを必要としませんでした。そのため、彼は、神に対して従順ではありましたが、ただそれだけで、本当の意味での神との交わりというものはありませんでした。
 
 こうした状況をみて、神は、人が独りでいるのはよくないと思われたのです。それで、神は人の体から、あばら骨の一部を取り出しました。これによって、人は、欠けのある存在となりました。人はそのことによって初めて、満たされないということを、身をもって知りました。自らの欠けたる状況を知って、それを補ってくれる助け手を求める気持ちが生ずるのです。そこに、彼の欠けをちょうどぴったり補う存在が現れました。それが、彼のあばら骨から造られた女であったのです。人は、女との出会いを通して、自らが初めて欠けのある存在、つまり男であることを自覚しました。そして、男と女は、互いに真正面から向き合い、一つとなりました。人は、また、この経験をきっかけとして、やがて善悪の知識の木から取って食べ、罪を負い、救いを必要とする者となって、本当の意味で神と向き合う存在へと導かれていくのです。


4 向き合って生きる

 さて、ここまで人類最初の人間と言われるアダムとエバの創造が描かれた創世記2章の物語を辿ってきましたが、この物語は、これまでしばしば、結婚について、或いは男と女について語る物語として読まれてきました。実際、新約聖書においても、この箇所を引き合いに出して結婚のこと、男女の役割ことについて語っている箇所がありますので、そのような読み方は間違った読み方だとは言えませんが、旧約聖書のこの箇所は、人間についてのもっと幅広い事柄について書かれた物語なのです。現代社会において、例えば、性の問題一つをとって見ても、単純に女と男の問題と捉える伝統的な理解によっては、そのことによって傷つき、苦しみに陥れられてしまう方が沢山いらっしゃる、そうした画一的な聖書理解、人間理解は、聖書が語る人間理解を狭く貧しいものにしてしまう危険があるということ、聖書が示す人間理解は、もっと豊かで、愛情に満ちたものなのだということを私たちは見失ってはならないと思うのです。

 大事なことは、人は、自分一人で生きる者としては造られていないということです。どんなに豊富な知識や経験があり、知恵や才覚があり、力や行動力があったとしても、土から造られた被造物である限り、持っている能力も全能ではありません。病気にもなるし、思いもかけない災難に見舞われるかもしれません。経営コンサルタントをしている私の友人がある経営者からこんなつぶやきを聞いたそうです。「君にだから言うけれど、僕は、自分の会社の経営に関して、人の意見を聞いたり、相談したりするのは、本当は必要ないんじゃないかと思っている。自分で判断して即行動するほうがいいんじゃないかとね。」と。クリスチャンである私の友人は、この経営者は自分を過信していて、自分のことが見えていないんじゃないか。自分のことを客観的にみて忠告してくれる人の有難さをわかっていないんじゃないかと思ったそうです。

 自分と真正面から向き合ってくれる友がいて、自分が欠けたる存在であることに気付かされる。窮地にあっては、欠けたるところを補ってもくれる友の有難さ。その友がいて、初めて人は真の人、一個の人となれるのではないでしょうか。真の友によって、自分が欠けたる存在であり、友の助け、そして、それ以上に神の助けを必要とする存在に気付くことが出来る。心から神と向き合うことも出来るようになる。そのように思うのです。

 その友は、必ずしも結婚のパートナーであるとは限りません。男女の性別も重要な問題ではありません。関係はどのようなものであっても、心から向き合って、心底助け合える友がいて、その友と共に神の前に立って生きていくことができる。生き生きと生きていくことができる。神様は、わたしたちをそのような存在として造ってくださり、そのことのために、尽きることのない愛をもって、手を尽くしてくださる方なのです。



 祈ります。

 万物を創造し、被造物であるわたしたち一人ひとりを愛し、初めより終わりに至るまで世を支配なさっている父なる神様、御言葉の励ましに感謝します。あなたは、私たち一人ひとりに必要な助け手を授けてくださり、互いに向き合い、支え合って生きていくことが出来るよう、深い愛をもって支えてくださる方です。
 今、長引くコロナ過の中で、人と人との交わりが制約され、互いに助け合い、支え合っていくことの難しさが増しているのを感じます。
 主よ、どうか、こうした状況の中にあって、人の助けを求めておられる方々のところに、必要な助け手を送り届けてください。この感染過の中で、苦しみの内にあるすべての者を憐れみ、助けてください。

 そして、一日も早く、平穏な日常生活を取り戻し、愛する友と共に、あなたの御前に立って生き生きとした日々を送ることが出来ますように。この祈り、主イエスキリストの御名によってお献げします。アーメン


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