日本キリスト教団 大塚平安教会 

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わたしの民を慰めよ

2017-12-24 10:04:14 | クリスマス
【イザヤ書40章1~11節】 
【マルコによる福音書1章1~8節】

「わたしの民を慰めよ」

 クリスマスを目前としているこの主の日でありますが、旧約聖書イザヤ書40章を読んで頂きました。イザヤ書は全部で、66章から構成されていますが、一般的には研究者が考えるには、少なくとも三つのイザヤ書で成り立っていると言われます。

 一つは1章から39章まで、二つ目が40章から55章、三つ目が56章から66章。それぞれ第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼ばれています。記されている年代や内容がそれぞれ違っていると考えられているようです。

 今日はそういうことで言えば、第二イザヤ書と呼ばれる最初の40章を読んで頂きました。時代的には、イスラエルがバビロン帝国との戦いに負けて、首都エルサレムが陥落する。首都が陥落するとは、日本なら東京が陥落するということですから、その意味は国としての機能を失うということです。その為イスラエルの民も、既に国の形を維持することが出来ず、しかも、主だった人々は、バビロンに捕囚の民として、強制移住させられ、強制労働や奴隷のようにして強いられたと思われます。そのような生活が結局の所、凡そ50年続きました。その50年の間、悲しみと、疲労と、涙と、絶望の中で過ごして来た。けれど、ついに一つの希望が見えて来た。そんな場面がイザヤ書40章に見られます。

 その希望の源は、バビロンの北に位置していたペルシャという国が、成長し、領土を大幅に広げて、力を付け、ついにバビロンを滅ぼすという出来事が起こった。バビロンの支配体系は、中央政権的といいますか、専制政治のようにして全ての民を支配下に置くという考え方でしたが、ペルシャはむしろ、その支配した国の体制を大切にして、無理なことをしないという政策を取りました。ですから、これまで50年間の捕囚の民としての苦しみにあったイスラエルに対しても捕虜の状態から解放し、自分達の国に帰っていいよ、そして、自分たちの信仰を守ってもいいよ、神殿を建てたかったら建ててもいいよと告げるのです。イスラエルの解放の喜びが特に今日、読んで頂いた箇所から読むこと出来ると思います。

 40章1節にはこうあります。「慰めよ、わたしの民を慰めよ、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼び掛けよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた。と」このようにして、ついにイスラエルに大きな慰めと希望が与えられるのだと言うのです。

 私達が生きていく中で、その人生の中で、様々な試練が与えられます。その試練は、それぞれに全く違った試練であり、人によって様々です。学生さんは勉強が試練であり、人によっては家庭が試練、また人によっては仕事がそうだという方もおり、お金がという人もいる、あるいはこの病気さえと、試練を感じている方もおられるわけです。その与えられている試練は、また二つに分けて考える事も出来ます。

 問題と艱難の二つです。何が違うのかと言えば、問題とはまさに問題ですから答えを見出すことが出来る。例えば勉強の事、仕事の事、自分で頑張れば解決していくと思われるような試練、例えば我が家の子ども二人は、来年の春には受験を控えていまして、今、それなりに大分苦しんでいるようです。試練だなあと思っていると思いますけれど、でも、こういう試練はね、努力次第ということもある。自力によって乗り越えていけるといいますか、ある意味乗り越えていかなければならない試練であろうとも思います。ですから周囲の励ましや協力なども必要でしょうし、そんな中でいずれにしてもいつかはどのような形であれ解決していくものでしょう。

 けれど、同時に、このような試練、つまりこのような問題は、答えを見出すことが出来るだけに、いつの間にか時として神を忘れることがあると思います。自分に試練だなと思われる問題が与えられる、でも、それを、自力で自分の頑張りで乗り切ることが出来る。それは人生においては大きな自信となり、決して悪いことではないと思いますが、しかし、それはまた神から離れていく誘惑が伴うのではないでしょうか。

 しかしまた、先日、ある本を読んでいましたら、ある女性が自分の願いを叶えたいけれど、叶うでしょうかと牧師に相談に来たという話が記されていました。その相談を聞きながら、牧師は、いずれにしても教会に通うことを勧め、その女性もその勧めを受け入れ、熱心に教会に通い、ついには洗礼を受け、奉仕を怠らず、熱心に学び、すっかり仲間の一人として牧師が安心していたその頃に、突然、その女性がやって来て、私の願いは結局叶わなかったので、もう教会には来ないと言ったと言うのです。牧師は本当に驚いたそうですが、誰が悪かったのか、何が悪かったのか、それはなんとも言うことが出来ません。

 ただこの女性が、主なる神や、あるいは教会に見切りをつけたということなのかもしれません。

 最後まで彼女の心の中は、自分の問題であり、それが解決するか、しないかそれだけが最大の関心事だったのでしょう。願いを叶えない神は必要無いと思ったのでしょう。
 様々な試練、問題や艱難が与えられる、頑張れは解決出来る問題や、自力でやり切れると思うのであれば、神は必要でないと思う人がいるだろうと思います。けれど、逆にどんなに祈っても、願っても、必死に望んでも、叶えられないこともあって、それなら、そんな神はこっちから願い下げだと思う、どちらにしても、自分の心の中心に自分がいて、その中心を神などには明け渡すものかと頑張っているのであれば、主の慰めを受けるのは難しいのではないでしょうか。

 実際のところ、イスラエルの捕囚の期間は50年と申しましたが、当初、捕囚の民は、自分達はすぐにでも帰れると思っていたようでうす。エゼキエル書などを読みましても、そのような雰囲気があることがわかります。エゼキエル書が記された頃、まだエルサレムも陥落せず、頑張っておりましたし、難攻不落と言われたエルサレムを攻め落とすことは出来まいと高を括っていたところがあったようです。けれど、その思いは虚しく過ぎて、思いがけない50年もの長期にわたる、捕囚の時期を過ごすことになります。
 
 50年とはもうその土地で、捕囚の民として連行された第一世代の人々よりは、その場で誕生した第二世代、あるいは第三世代の人々が大勢いたに違いありません。そして、そのようにして世代が移っていく中で、自分達はイスラエル人であること、自分達は、神の民であること、自分達は神の民として、律法が与えられていること、そういった信仰の継承こそが、イスラエル人、ユダヤ人としてのアイデンティティを支えるために、どれだけ有益であり、また大切にされたであろうか、実際そうであったとも言われています。

 どんな状態の時もイスラエル人として、ユダヤ人として、希望が見えない時代にこそ、信仰がより一層強められるそういうこともあったでしょう。
しかし、一方では、その50年の間、願い、祈り、信仰を磨き、神に祈る、でも実際には、尚、捕囚の状態は変わらないのです。やっぱりこれは試練ですよ。答えが与えられない艱難としてずっと与えられ続ける、これこそ試練ですよ。

 ですから、イスラエルの民の中には、先ほどの女性のように、主なる神に見切りをつける人々もいたでしょうし、祈ったところで、願ったところで、それが一体何になるのか、神は本当におられるのか、おられたとしても、私たちは見放されているのではないかと絶望の淵で、虚しく生きていた人々も少なくなかったと思うのです。

 けれど、それでもなお、多くのイスラエルの人々は一所懸命に祈ったでありましょう。主なる神よ、私たちは今、私たちの力では何も出来ない状況です。毎日が苦しい日々です、それでも主よ、私たちはあなたに祈り続けます。
 その祈り、特に自分達ではもはや解決出来そうにないわけですから、毎日が虚しいものであったでしょう。でもね、そのよう繰り返し、繰り返しの中で、いよいよ自分達の信仰が強められ、このことを通しても尚、主が働かれるときがやって来る、そのように信じて生きた人々も多かったことでしょう。

 そして、ついに、ペルシャという国が登場しバビロンを打ち負かし、自分達は帰還の希望が見えて来た、その喜びを、主なる神が、第2イザヤと呼ばれる預言者に伝えるのです。41章25節で、主なる神がイザヤに告げています。「わたしは北から人を振るい立たせ、彼は来る」というのです。「北からやって来るのは」ペルシャの国です。この国がバビロンを滅ぼし、イスラエルの民よ、希望が見えて来たというのです。その希望がはっきりと見えてきた、そんな時代です。「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。」まず、希望には何よりも慰めが必要だというのです。
 
 慰めとは何か、慰めとは「とりなして下さる方の力」だと言えるでしょう。とりなす力、具体的には「聖霊なる神」の働きです。主イエスが、弟子たちを前に、人々を前にしてこう告げて下さいました。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である」と告げるのです。非常に有能な弁護士がいるとして、どんなに苦しい状況にあっても、尚、確かな助け手となるように、この方がいるのなら、この状況では、無理、難しいというと思えるそのような状況でも尚、希望が見えるよと告げて下さる方の力なのです。

 皆さん、艱難、自分ではいかんともしがたい状況が起こる時、自分の努力ではどうにもならないと思えると、何かが起こるのかというと、一方においてはそれでもなお、主に頼り、主に祈り、主への信仰にゆらぐことなく生きていける、そのような人がいることは確かです。けれど、また一方では、何ともならない思いを、誰にもその怒りや悩みの持って行きようがありませんから、ついには、誰を責めるかというと、自分を責めるようになる。なんで戦争に負けたかな、自分が弱気になったからだ。なんで最後まで祈れなかったのかなぁ、自分が諦めたからだな。なんで病気になったかな、あの時、薄着で歩いたからな、毎日手を洗って、うがいしていたら大丈夫だっただろうに。そうやってどんどん、自分を責めて、責めて、それで何とか納得しようとするといいますか、折り合いをつけるようとするのです。

 天上に向って、ツバを飛ばすと、自分に帰って来るように、そうだからなと思う。自分で蒔いた種は、自分で刈り取るという御言葉がありますが、これはだから良い種を蒔けば、収穫も多いよという教えですけれど、悪い種を蒔いたから、それも自分が刈り取らねばと思ってしまう。
 
 いつの世でも、つまり現代もまた、決して良い時代ではないと言われます。なぜ、そう言われるのか、私は究極的には、この世にあまりにも沢山の自分で自分を責めている人がいるからではないかと、最近すごく思うようになってきました。この事は子どもに対する教育や、道徳観や、宗教観にまでも広がっていて、自分を責めて折り合いを付けようとするのです。自分で解決するのはそうするしかないと思ってしまうのです。そうやって自分を責めていると、結局は自分が持ちませんから、自分を責めるその量でもって、相手を責めるのです。だkら、状況はもっと悪くなっていくことにもなりかねません。

 慰めとは、そうじゃない、あなたは悪くない、あなたが悪いのではない、それどころか、あなたが置かれている状況では、あなたはあなたの最善を尽くしていた、あなたは本当に頑張っていたよ、そう言ってとりなして下さる方がおられる。それが聖霊の力ですよ。もうダメだ、無無理だという思いに支配されている自分に対して、でも、大丈夫。
 
 このことを通しても、私はあなたを責めることをしないし、あなたが精一杯であることを良く分かっている。だから、あなたはあなたの心に支配されないで、自分の方向ではなく、私の方向に、その姿勢を正し、主なる神に向かえと主なる神はイザヤを通して、イスラエルの民に、そして、私たちに語りかけるのです。

 主なる神は、そのとりなしの証として、何を示して下さるのか、続くイザヤ書の40章3節ではこう記されます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え 私たちの神のために、荒れ野に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ、険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ、主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。」

 荒れ野に道を備えて下さる方が現れるというのです。そのような栄光を見る日がやってくるというのです。何年も、何年も祈って来た、願って来たその試練を越えて、「草は彼、花はしぼむが、わたしたちの神は言葉はとこしえに立つ」その日がやってくるというのです。

 皆さん、この荒れ野は、イスラエルの民にとってみれば、まさにバビロンと、自分達の故郷との間にある道であったでしょう。山あり、谷あり、道なき道であり、そして、帰るにも、帰れないと思われる道、それこそが試練です。でも、その道をまっすぐにする者が現れる、この時、イザヤは何を預言したのか、あなたがたは帰ってもいいよと言ってくれる支配者が現れると預言したことは確かでしょう。
 
 けれど、新約聖書の時代となって、主イエス・キリストを指し示す洗礼者ヨハネが現れた時にも、この言葉が示されました。ヨハネは真の救い主である主イエスに向かう民の為に、その道を整ええ、その道筋をまっすぐにするものとして人々の前に現われました。「私は水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」とヨハネは語りました。
 
 聖霊で、すなわち、あなたに本当の慰めを届けるために、主イエスに向かうその道を、艱難だ、試練だと思っているだろうその道を、私は整え、そして、あなたがたは確かな慰めを受けることが出来ると宣言したのです。

 皆さん、私たちの人生に、主なる神がいつも共におられ、確かな慰めを与えて下さる為に、御子イエスはこの世に誕生して下さいました。ローマの支配の中で、苦しんでいる人々、弱っている人々の為に、そして現代を生きながら、神を見失ってしまいそうになっている私達の為に、自分ではなんともしがたいと思っている私達の人生の上に、確かな希望の光として、御子イエスは誕生して下さいました。だから、私たちはしっかりと主なる神から慰めを受けて、そして神様に感謝して生きていける。希望をもって、いつまでも、何度でも神の祝福を受け取ることが出来るのです。そのような恵みに私たちは、この週も共々に過ごして参りましょう。お祈りします。



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