日本キリスト教団 大塚平安教会 

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後になる者が先に

2017-10-09 10:30:49 | 礼拝説教
【マタイによる福音書20章1~16節】

 いよいよ衆議院選挙が始まろうとしていますが、二日前の金曜日に、「希望の党」から選挙公約が発表されたとありました。その中にベーシック・インカム制度の導入というのがあると聞きまして、少し驚きました。
 
ベーシック・インカム制度とはあまり聞きなれない言葉ですが、ベーシックは「基本的な」という意味で、インカムは「収入」という意味ですけれど、国民一人ひとりに、基本的な生活に必要な金額を国が支給する制度と言われています。
 
 私達の国はいつのまにか自由競争原理の中で、格差社会と呼ばれるようになってきました。収入の格差が広がっていると言われます。社会構造的な問題として、どんなに頑張って働いても、生活するにままならない家庭や個人がどんどん増えている、それが現実だと思います。
 その為に、希望を失い自死する人や、犯罪に手を染める人もいます。進学をあきらめる子どももいます。その解決法の一つとして、一人ひとりに基本的な生活費を支給しますよ、もし、その制度が導入されるとしたら、生活の為に長時間労働が強いられる人や、頑張って働いても報われない多く方々や、病気で働けない人や、様々な困難を抱えている方々の苦労が軽減されることは間違いありません。多くのメリットが考えられますが、デメリットとしては、もし実現すれば一人ひとりの労働意欲の減退や、現実的には財源が無いということも上げられます。
 
 私がベーシック・インカムという言葉を初めて聞いたのは、2年程前のことです。さがみ野ホームで阿部志郎先生という先生がお話をして下さるのでと、誘われて話を聞きに行ったときに、話された一つがこの言葉でした。阿部志郎先生は東京女子大学や明治学院での働きを務められ、特に社会福祉の面においては、現在でも第一線の指導者として働いておられますが、その講演で話して下さいました。社会福祉という面から言えば北欧諸国が恐らく世界で最も先進的な立場です。消費税は非常に高いのですが、教育費や病院の治療費等はお金がかかりません。そのような制度が成立するのは国民が国を信頼して初めて成り立つのだと教えて下さいました。そして、更にそのような制度の先に、ベーシック・インカム制度という考え方があって、北欧でも検討されているし、ドイツとかヨーロッパの幾つかの国も検討されているのだと話しておられました。とはいえ、流石にまだ導入した国はありません。とも話しておられました。

 導入しない理由は沢山あるようですが、もし本当に生活費が支給されるとすれば、人の労働意欲が減退するわけで、労働意欲が減れば、国に治める税金も減るわけで、生活費の支給の財源は税金からですから、税金が減れば制度が成り行かなくなるといった矛盾も考えますし、社会福祉国会としても、検討はするけれど、実現性は乏しいのではないか、と考えているのかもしれません。

 ですから「希望の党」の公約がどうだと言うつもりもないのですが、私がここで話したいのは、政治家としては、どの党であっても、人が人として生きていく為に、どのような考え方、どのような方法でもって、国民一人ひとりに対して、平等性を示していくのかが求められているのだろうと思うということです。  

 私たちは不公平と感じる社会を望んでいるわけではありません。でも、これでは不公平ではないかと感じる時もあり、こんな不公平な社会を作っている政党や政府を支持するわけにはいかないと思いますから、政治家としては、自由や平等をどう捉え、どう実現するのかが問われているのだと思いますし、いつでも考えさせられるのだと思います。そして、そのような平等性について、天の国のたとえとして、主イエスが話しておられる箇所の一つが、今日与えられた聖書箇所であろうと思うのです。
 
 私たち自身、聖書を読む者には馴染みがある「ぶどう園の労働者」の譬えです。先ほど、読んで頂きましたので繰り返して読むことは致しませんが、主イエスが話された譬えを信仰のある者として、私たちはどう捉え、考えるのかも、やはり問われていると思います。ある時に、この譬え話を幼稚園のお母さん方と一緒に読んだことがありました。一緒に聖書を輪読して、どう思いますかと聞きましたら、多くのお母さん方は、不平等な話だと思うと言われました。同じ労働時間、同じ労働内容に対して、同一賃金ならわかるけれど、労働時間が極端に違っているのに、同じ賃金なのはおかしいと答えられました。

 そう答えられるだろうと想定してこちらも聞いているわけですが、だから、どうお話すればよいのか、一つはこの話は時給ではないということです。主人はブドウ園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけていって、一日につき、一デナリオンの約束で、労働者を雇いました。一デナリオンとは当時の、一日分の労働賃金と言われますので、妥当な約束だと思います。でも、人手不足だったのでしょう9時にも行って人を雇い、12時にも行って、3時、5時とまた行って、人を雇いました。
 ぶどうの収穫の時期、今頃のイスラエルの日没は、何時かというと調べましたら今日のイスラエル、エルサレムの日没時間は6時20分でした。6時過ぎには真っ暗になりますから外での仕事は殆どで出来ないでしょう。5時に雇った人の労働時間は一時間も無かったかもしれません。けれど、そのような人々に対しても、主人は一デナリオンを支払い、逆に夜明けから働いた人々に対しても一デナリオンを支払ったというのです。
 
 当然のように一日中働いた人々は不平を語りだしました。私たちは一日中、夜明けから暑い時間もずっと辛抱して働いたのに、同じ扱いなのですか。この不満は私達も良く理解できるように思います。けれど、主人は「友よ、あなたには不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」と説明しました。約束を破ってはいないというのです。

 ところで、主イエスはなぜこのような譬え話をしたのかというと、それには理由があります。この譬えの前後に記されている御言葉を読みますと、19章の後半では「金持ちの青年」の話があります。一人の男の人が主のもとへとやって来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねました。そこで会話が始まり、最後に主は「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に冨を積むことになる。それから私に従いなさい」と告げたところ、青年は、悲しみながら立ち去っていきました。たくさんの財産を持っていたからであるとあります。
 
 その様子を見ていた弟子のペトロが主のもとにやって来て、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけのでしょうか。」と尋ねるのです。ペトロは、自分はあの青年のようではないと主張したのです。この問に対して主イエスは「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子ども、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」と永遠の命を約束されました。けれど、同時に「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と答えられた後に、「ぶどう園の労働者」の譬えを話し始められたのです。

 更に、この譬え話をされた後に、主は、ご自分の死と復活について弟子たちに話をされます。これが三度目の話であり、最後ともなるのですが、その後、どうなったかというと、この話を聞いたからでしょうか。栄光の時が近づいたと思って、ゼベダイの息子たちの母、すなわち、ヤコブとヨハネの母親が主イエスのところに来て、ひれ伏して、主にお願いするのです。「イエス様、あなたが王座にお着きになるとき、二人の息子を、一人はあなたの右に、一人を左に座れるとどうぞおっしゃってください」とお願いするのです。そして、その会話を聞いていた他の十人の弟子たちは、腹を立てたとあります。この話もまた、私たちが一番理解出来そうなのは、腹を立てた十人の弟子たちの思いかもしれません。抜け駆けはずるいぞと思うのは当然だと思われるでしょう。

 しかし、主は更にこの時も、弟子たちに対してこう言われています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」

 主イエスが「ブドウ園の労働者」の話をされた前後の経緯を考えながら、改めてこの譬えを考えてみますと、主イエスが私たちに伝えようとしたことは何かということが明らかになってくるように思うのです。それは、あなたは一体、どこに立っているのかということではないでしょうか。

 その当時、どのようにして賃金を支払っていたのか、その詳細はわかりませんが、8節を読みますと 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に告げました。「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい。」そこで、仕事が終わり、賃金を受け取るために、彼らは監督の前に並んだのではないでしょうか。一デナリオンが入っている封筒を監督は、最後に来た者から順番に渡していったと思われます。「ハイ、ご苦労様」、「ハイ、ご苦労様」。その封筒の中を見て、ぶどう園に最後にやって来て、したがって最初に並んだ労働者は封筒の中を見た時、歓喜の声をあげたのではないでしょうか。わずかしか働かなかったのに、一デナリオンが入っているのです。やった! 一デナリオンを貰うことが出来た。これで今日の家族の夕食をちゃんと準備出来ると大喜びであったと思うのです。その喜びの笑顔を見ながら、期待に胸を弾ませたのは、次に並んでいた3時に来た人々であって、その後ろに並んだ12時からの人、更にその後ろには朝9時からの人々、そして最後尾の夜明けから働いていた人々はどんなにか、期待したことでしょう。けれど、3時からの人も、5時からの人も、12時からの人も、9時からの人も、夜明けからの人も、全員が一デナリオンでした。

 3時からの人、12時からの人たちは、ここで文句は言えないと思ったかもしれません。半日しか働かなくて一デナリオン貰えるのだから文句はない、でも、9時からの人、夜明けからの人はどうでしょうか。最初の人々の喜びの歓声から、後ろになればなるほどに、歓声から不満の表情と、もしかしたら怒号の声に変わっていったかもしれません。
 
 そして、最も早く来た人々が主人のところへ詰め寄って、こんなのは不公平だと文句を言ったのです。
ところが主人は「友よ、あなたに不当なことはしてない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。」と告げたというのです。

 主人は公平だと思われるでしょうか、それとも不公平なのでしょうか?けれど、この話は主人の公平性が問われているのでしょうか。私は主人の問題というよりも、監督の前に並ぶ労働者と一緒に、もし私たちが並んでいるとして、私たちは一体どの場所に並んでいるのか?ということなるのではないかと思うのです。

 皆さんが、ご存じのように、今、私は母親と一緒に過ごしております。今から5年前に父親の容態が悪くなり施設に入ることが決まってから、母親をどうするのか兄弟で相談しました。男4人兄弟ですが、相談といいましても大した相談でもありません。私以外の誰もが引き受けられないというのです。勿論、私も、当時この教会に赴任して2年、子どもたちの成長のことを考えても、いよいよこれから教育費や何やらと時間もお金も必要だろうし、家内にも大変な思いをしてもらわなければならないし、無理だと断ろうとすれば断れたかもしれません。でも、引き受けようと決心して一緒に住むことになりました。正直つらいなと思うこともあります。引き受けてから兄弟が何か連絡してくるのかと言えば、兄が年に数回連絡してくるだけで、下の弟二人は母の日に花を送ってくる位のものです。出来れば、近づかないようにしておこうと思っているかもしれませんし、わかりません。でも、本当の苦労は、私ではなく、家内ですよ。誰よりも一番大変な思いをしているだろうに、愚痴も文句も言わないのは本当に有難く思います。

 でも、兄弟と比べて、自分は何か損な役回りをしているかな、と思うとすれば、私はきっと監督の前に並ぶ労働者の随分後ろ側にいることになります。でも、幸い牧師という仕事は、定年が決められているわけでもなく、家内も協力的だし、子どもたちもとりあえず元気に育ってくれているし、私もなんとか元気で過ごしているから、やっぱり母を我が家に迎えて良かったなと思えるならば、私は大分前の列に並んでいることになるのだろうとも思います。

 そのようにして、私たちは、この自分の病気の苦労がなかったらとか、どうして自分だけがこんなに苦労してと思う、実にそのような方がこの世では多いのですが、ですから多くの人は、監督から遠い側に立っている人、すなわち、朝早くから一生懸命に働いているのに、誰よりも頑張っているのにと思っている人が大勢いて、そしてその働きは報われないと思っている。だから余計にこの話を読むと不公平だと感じるのだろうと思うのです。
 けれどまた、今回この聖書箇所を改めて読みまして、気が付いた事、それは人々の前に立った監督が「神の福音」を意味しているのではないかと思ったのです。となると、このブドウ園は神の国ですよ。神の国に長くいることが出来て、しかも、その報いは主人によって最初から約束されている人は、大いなる平安と喜びに包まれているはずではないのか。
 
 でも、いつのまにか私たちはそのことを忘れてしまっているとしたら悲しいことではないでしょうか。独り身の時は、結婚したいと願い、結婚すれば子供がと願い、子どもが授かれば健康で出来の良い子でなければと思う、そして、常に、結婚出来ない、子どもが授からない、ろくな子供ではないと、その時、その時に、不満と不平で生きているとしたら、私たちは監督の前で、すなわち、福音を前にして、いつも後ろのほうにならんで、自分に約束されている祝福にさえ不満を訴えることをしているのではないでしょうか。

 けれど、私のような者が、夜明けからずっと神の国で過ごすことが出来ている、と感謝だなぁと思えるなら、ギリギリで間に合って、滑り込むようになしてやって来た仲間に、お前よかったなぁ、間に合って良かったなぁと声をかけてあげることができるのではないですか。そして、それが地上に現われている場所は教会であって欲しいと願います。
 
 後のものが先になる、それは大いなる祝福なのだと思います。人間がどんなに考えても完全には実現できそうもない、平等の世界を、主なる神こそが、それをなしうるのだと信じながら、私たちはこれからも歩んで参りましょう。

お祈りします。

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