日本キリスト教団 大塚平安教会 

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行き詰まらない生き方

2020-12-29 09:15:14 | 礼拝説教
【詩編88編1~8節】
【ヨハネの手紙一 4章7~10節】


 本日、この礼拝が12月最後で2020年最後の礼拝となりました。この年はあたかも、コロナウィルスで始まり、そのままコロナウィルスの心配を抱えたまま暮れとなり、来年に持ち越すことになりそうですが、そんな中でもクリスマス礼拝、聖夜礼拝と、多くの制限の中で、執り行うこととなりましたが無事に行えましたことは感謝でありました。
 
 先日、25日クリスマスの夜、コロナ禍の中にあっても一つ良いことがありました。私が仲良くしていただいている教会の牧師で、山形県に田中先生という先生がおられます。。恐らく東北では一番大きい位の教会だと思いますが、25日の夜、今年はライブ放送で、全国に向けてクリスマス礼拝を開催しますというお知らせが来ていました。
私は忘れていましたが家内が覚えていて、夕食時に、私と家内と娘の三人で礼拝に参加しました。
 
 田中先生とは、ここ数年お会いする機会もありませんでしたが、久しぶりに画像で見て、説教を聞いて、聞いて行くうちに私は勝手に感動して泣きそうになっていました。
 
 何に感動したかというと、上手に話しをされる先生ですが、説教の内容に感動した訳でもなく、話しに引き込まれた訳でもなく、田中先生が元気に牧師をしておられる、70歳を越えておられるはずですが、一所懸命に話しておられる、その姿を見ていたら、という訳でもない、何に感動したかというと、田中先生の存在、そのものというか、先生がおられる、元気に話しておられるともう感動してくるわけです。
 
 私が学校を卒業して最初の任地として、岩手県の教会に赴任して、数年、まだまだ新米牧師でしたが、教会の中が少しギクシャクしたことがありました。
 原因は簡単で、田中先生の教会で信仰を養った方が教会に来られて、私の所に来ては向こうの教会では「こうやっている、あ~やっている」と言って来られるのです。今思うと、むしろ一生懸命に親切心から言われたのだと思いますけれど、そのころ、私も牧師として数年、3年位は過ぎていましたから、段々とプライドのようなものも成長しておりまして、すっかり自分も一人前のように思っていたと思います。
 
 ですから、聞けば聞くほど、内心では「うちはうちのやり方がある」と思う訳ですよ。そう思いながら聞いている訳ですから、腹が立つ、どうしようもなく腹が立つものですから、直接田中先生の所に電話しまして、相談があるのですが、と下手に出たつもりで電話しましたが、八割ぐらいは文句言いたかったわけで、それで文句を言ったわけです。

 お宅の人が来て困っています。どうすれば良いですか。そんな思いで電話をしました。先生は暫く電話を聞いておられましたが、おもむろに「いや~、菊池先生よ。あんたは立派だな~」って言われました。私はびっくりしました。「まだそんなに若いのに、大したものですよ。今からそうだと、10年後、20年後は、私よりも良い働きが出来ますよ」と言って来られた。

 向こうは大教会の牧師ですからね。そういう先生から褒められる、と言うよりも、文句の言葉を聞きながら、その言っている相手を褒めて、あんたは立派だと言えるその気持ちの持ち方に本当に驚きました。
 
 行き詰まって電話して、文句を言ったとしても、その文句に対する反論は簡単に言えたでしょう。私をやり込めることなんて簡単だったでしょう。でも、勝った、負けた、の世界とか、正しい、正しくないという世界でなく、そういう世界から離れて尚、相手も、自分も、誰もがより豊かに成長できる領域がある、そのことを僅かの電話の会話でさえ教えて下さったと思います。

 それから、私は田中先生の著書を読んだり、直接教わったりしながら、誰もが豊かに成長できる領域があって、何よりも、行き詰まらない生き方があることをずっと教わって来たように思っています。
 
 でも、一緒に礼拝を聞いていた娘は「わたしはさっぱり分からない」とつまらなそうに言っていました。それも、きっとそうだろうと思います。なぜ分からないと思うのかというと、関わりが違うからです。これまで、その人と、どのように関わってきたのか、どんなふうに互いの時間を過ごしてきたのか、そういった一つ一つが、娘には全くありませんから、クリスマスの説教を聞いた、しかも知らない牧師がなにか訳の分からないことを言っている、これしか感じなかったろうと思います。
 そんな娘の言葉を聞きながら、より確信的に感じたのは、行き詰まらない生き方を生きるために大切なこと、それは「関わり続ける」とことだと思いました。

 今日読みました詩編の88編は、まさに「行き詰まり」を感じて、その状況を訴え続けている詩編です。「主よ、わたしを救ってくださる神よ 昼は、助けを求めて叫び 夜も、御前におります」という御言葉で始まり、4節には「わたしの魂は苦難を味わい尽くし 命は陰府に臨んでいます。」6節は「汚れた者と見なされ 死人のうちに放たれて 墓に横たわる者となりました」とあります。

 詩編の作者は恐らく病気を患っていたであろうと思われます。しかも「汚れた者」と見なされているのですから、重い皮膚病とか、伝染性の病であろうと思われます。
 
 コロナウィルスの何が怖いのかと言えば、伝染する、感染するという点です。感染して、しかも死に至る場合がある、と言われると、予防の為には感染した人に近づかないことです。だから密にならないように、私たちは毎日気を付けながら過ごしておりますけれど、気を付ければ気を付ける程に、なにしろ近づかなければ良いわけですから、互いに関らない生き方のほうが良いわけで、病気にならない為には確かにそうかもしれませんが、でも、今度は人と関わらない生き方を生きると、暫くするとどうも「行き詰まる」のです。
 
 詩編の作者の病は、体の病もそうですが、詩編の後半を読みますと「わたしは若い時から苦しんで来ました」とありますし、それ故に、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。」と記されていますが、病も大変な上に、自分の周りの人々も去っていた、その悲しみと絶望の中で打ちひしがれている、まさに行き詰まりを感じる状況であり、もはやどうすることも出来ない悲しみを詩として記し、神様に訴え続けているのだと思います。

 このような訴えに対して、主なる神がアクションを起こしてくださった。そのアクションは私たちの社会に御子イエスが誕生されるというクリスマスの出来事であります。主なる神が、私たちとどこまでも、関わりを持って下さる決意をされた印としてのクリスマスであります。
 
 誕生された御子イエスが、成長してこの世に現れて、弟子達を集め、その後、汚れた霊に取りつかれていた人を癒し、重い皮膚病の人を癒し、中風で動けなくなっていた人を癒し、手の萎えた人を癒し、ガリラヤ中の会堂に行って、宣教し、悪霊を追い出されました。一人ひとりの悲しみに深く関わりを持たれて、そして希望を与え続けられたと思います。
 
 先ほどヨハネの手紙4章を読みました。9節から読みますがこうあります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 
 御子イエスの誕生は、神が私たちを愛する故の出来事です。詩編の作者のみならず、私たちの一人ひとりが行き詰まらないように、真剣に関わり続けようとされて、神の愛を携えて御子イエスは誕生されました。
 
 私たちは自分が大切にされていないと思うと行き詰まりを感じます。自分が必要とされていないと感じると生きるのが辛くなります。愛されていないと思うと涙が出て来るものです。でも、そうではない、誰に嫌われようとも、主なる神は、この自分を大切にして下さり、愛して下さり、いつでもどんな時でも祝福を下さる、文句を言っても、褒めて下さり、怒りを表しても、将来が楽しみだと告げて下さるのです。愛があるからです。
 
 私たちが行き詰まらない生き方を生きるために、どうしても必要なことは、愛を持って生きていくということでしょう。愛とは、「ずっと関わり続ける」とうことかもしれません。昆虫や魚が明かりのあるところに集まって来るように、人は愛があるところに集まって来るのだと思います。
 
 田中先生の教会は山形県の割と田舎の町にあります。どこから向かうにも中々、大変な所に立てられています。でも人が集まってくるのです。つくづくと場所ではないなと思います。この大塚平安教会も、この教会があって良かったと来る方がそう言われるように、これからも尚一層愛のある教会として、行き詰まらない教会として 新しい年も歩んで参りましょう。そのようにして過ごして参りましょう。

お祈りします。

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