日本キリスト教団 大塚平安教会 

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新しい革袋に入れる意味

2020-11-01 16:50:19 | 礼拝説教
【詩編90編1~12節】
【マタイによる福音書9章14~17節】


 本日は2020年度の召天者記念礼拝となりました。この礼拝では既にお分かりのように両側の柱にそってこれまで信仰を持って歩んで来られた方、教会と深く関わりを持って下さっていた方々の写真が飾られています。
お手元には召天された方々のお名前が印刷されている紙が配られていますが、その人数は数えますと66名です。
 写真は両側に60名程の写真が飾られていますので、既に写真を飾る限界が過ぎております。ですから来年からはどのようにしようか検討しなければなりません。
 礼拝前まで、プロジェクターで召された方々の写真を映しておりましたが、そのような処理の仕方ならともかく、物理的に写真を飾り続けるのは毎年難しくなって来ております。お写真は減ることがありません。必ず増え続けていくことになります。
 
 このことは、改めて申し上げる必要もありませんが、人は必ず死を迎える日がやってくるということです。
 
 人の誕生について申し上げれば、私たちは誰も生またいと思って生まれた訳ではありません。女性で生まれたいとか、男性で生まれたいとか、こんな家族が良いとか、こんな親が良いというように、選ぶことも出来ません。親も子を選ぶことは出来ません。
 しかしまた、たまたま生まれてしまったとか、偶然でもなく、私たち信仰を持つ者にとって、人の誕生は、主なる神の愛の中でこそ起こるものと信じているわけです。
 
 けれど、また健康について考えてみても、人によっては丈夫な人もおられますし、そうでない方もおられる、病気がちの人もいれば、病院に行ったことはないという方もおられるでしょう。生まれながらの体質ということもあるわけです。
 
 先日、我が家の娘が食事の席で、自分は冷え性だからと話していたら、長男が自分もそうだと話しておりました。そんな会話を聞いていた家内は、手足が冷えるなんて分からないと言っておりました。そんな会話を聞いていると、ならば、手足が冷えるのは私の体質を受け継いでいるわけで、なんだか申し訳ないなと、謝りたい思いに駆られました。でも、良く考えてみますと、私もそういった体質を受け継いでいるわけで、隣で知らん顔して食事をしている母親が悪いかなとか、責任を押し付けたくなったりしました。でも、きっと母親のせいにしたところで何か変わるわけでもありません。
 
 健康面に限るだけでもなく、家庭において、社会の中で、人と人の関係の中で、私たちはそれぞれにきっと、自分ならではと言いますか、生まれ持った時からもあるし、生きていくにつれてということもあるし、自分に与えられている多くの重荷を抱えながら生きているのではないでしょうか。
 
 けれど、重荷はまた、自分にとっては大きな重荷でありますけれど、隣人からすれば案外気が付かないものです。気が付いているとしてもそれほど関心を持たないかもしれません。重荷について、時として親切な人が熱心に話を聞いてくれるということもあるでしょう。励ましてもらえるということもあるでしょう。力付けられるということもあるでしょう。
 でも、究極の所は、自分の重荷を別の人に担ってもらうことは出来ません。自分の重荷は自分の重荷であって、上手く解決するなら何よりと思いますが、多くの場合は、上手く折り合いをつけながら生きていくしかありません。
 
 でも、そうようにして生きていく中で、ある時には少し疲れたなと思うこともあるのではないでしょうか。若い者も、年配の者も、年齢に関係なく、何が危機かと言えば、自分の人生に疲れを感じる時、そういう時がやって来ますと人生の危機だと言えるかもしれません。
 
 そのような人生の危機、人生の疲れから解放されるためにも、私は私たちの創り主である神を信じる、信仰が求められると思います。
 
 私は、正しい信仰とか、正しくない信仰という言葉はあまり使用しないようにしていますけれど、けれど、あえて正しい信仰とは何かというと、命と関わりを持つ信仰、人の命は限られていると言える、あるいはその言葉を受け止めることが出来る信仰はではないかと思います。

 神を信じるとは命と関わることです。人は普段の生活の中で、命に関わる事は避けようとします。私たちはその日の糧や、富、安全、といったことには大いに関心があるのですが、自分の死について正面から考えることは滅多にありません。そんなことを考えるなんて、おかしな人だと言われかねません。
 でも、神を信じるとはそういうことだと思うのです。
 
 命に関わるとは、自分もまた召されていく時があり、最初に申し上げましたように、飾られている写真を見る側ではなく、見られる時がやって来ることを受け止めることが出来る、自分の命は限られていて、その限られている命をどのように生きるのか、神様から問われていると気が付かされるということではないでしょうか。
 そして、人は自分もいつか、死を迎える日があるということを、心から受け止めることが出来た時、死を心配しながら生きるのではなく、今生きている命が、どんなにかかけがえのないものであると感じるようになるのだと思います。
 
 その時に、重荷と思っていた重荷の疲れからでさえ解放され、解放された心で前を向いて、状況に寄らずに元気に生きていこうとするのではないでしょうか。

 昨年の11月の召天者記念礼拝の時から、一年、私たちの教会は、三名の方を天に送りました。伊藤Tさん、大矢Yさん、吉田Kさんの三名であります。
 今日はご家族、近親の皆様もお出で頂いております。今、この礼拝でお一人、お一人についてお話をする暇はありません。どの方も全く違った人生があり、違った生き方があり、晩年の生き方も全く違っています。私もそれぞれの方に多くの思い出があり、時間が許せば話たくなる思いがいたします。
 
 けれど、三人の方々に共通している点もある。それは三人の方々がそれぞれに、それぞれの重荷を負いながら生きて来られたという点です。長く病と闘っておられた方もおられ、病の家族を支え、見つめながら生きてこられた方もおられます。それぞれにそれぞれの人生の戦いがあったと言えるでしょう。けれど、もう一つの共通点は、その重荷を重荷としながらも、いつも前を向いて、確かな歩みを歩み続けてこられていたという点であったと思います。
 
 今日はマタイによる福音書から「断食についての問答」という箇所を読みました。

 そこで主イエスは「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば革袋は破れぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする。」と教えられました。
 
 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とは、聖書の言葉の中から、既にことわざとしても用いられていますが、新しいぶどう酒は暫くの間発酵しますから、古い革袋にいれると駄目になってしまう、そういう理由から新しい革袋に入れる、ビンやボトルが無かった時代、革袋に入れて液体を保存していた時代の話ですから、誰もが実感として良くわかる話だったと思います。
 
 ここで大切なことは、新しいぶどう酒とは何か、新しい革袋は何か、というところがポイントでしょう。それについて一つに絞ることはできないかもしれません。けれど、あえて絞るとしたら、新しいぶどう酒とは、主イエス・キリストが告げて下さった「神の国の福音」です。人は神の前において誰もが平等であり、誰もが愛されていて、誰もが祝福されている、神が自分の死をかけてまでも、私たちを愛して下さったという祝福です。
 では新しい革袋とは何か、これは聖書の文脈から考えなければなりませんが、ある牧師は、新しい革袋、それは「共に食べること」であると記してありました。
 
 主イエスは、当時一般的に行われていた断食や、罪人とは一緒に食べないといった、当時の習慣を破ってまで、誰とでも一緒に食べて、誰とでも一緒にぶどう酒をのんで、誰とでも一緒に生きることを喜んで下さった。そのようにして新しい革袋は、共に食べることだと教えておられました。私もそう思います。そう思うだけでなく、さらに私が思いますのは、きっと、このようにして教会に集う信仰共同体こそが、新しい革袋なのではないかと思うのです。
 
 主なる神を中心とする人生を、信仰共同体の仲間と共に、それぞれに与えられている重荷を負いながら、でも、新しい神の国の福音を携えて、一緒に歩んでいく。そのようにして生きてこられたのが、三名の共通するところであったと思うのです。
 しかし、それはこの三名に限ることでもなく、今ここに写真として飾られている一人一人、信仰の先達もの一人一人も同じことであり、今、地上に生きている私たちもまた、同じでありたいと切に願います。私たちに与えられている命を、人生を、新しい革袋しての信仰共同体として、これからも神様に守られて、しっかりと生きて参りましょう。

 お祈りします。 

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