日本キリスト教団 大塚平安教会  

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神の国は近づいた

2018-03-07 18:14:59 | 礼拝説教
【マルコによる福音書1章12~15節】

 先週の火曜日、幼稚園で企画して下さった「家庭教育講演会」を私が講師として礼拝堂で行いました。凡そ30名の方々が集まって下さり「感情免疫力を強めよう」というタイトルで3時間近く一緒に過ごしました。楽しいひと時でした。これは行政が補助金を出して行う企画でもあり、講演会ですから、その様子や内容、評価が求められます。

 ですから講演会の後には、それぞれ参加して下さった皆さんからアンケートを書いて頂きました。全員が書かれたわけではないと思いますけれど、幾つかご紹介したいと思います。

「落ち込むことが多かったのですが、それも「思い込み」だったのですね。心が救われました。よし、今日も頑張ろうとエネルギーが湧いて来ました。牧師先生のお話はいつも心に染み入ります。ありがとうございました。」

「分析のチャートで、「自分の無意識の部分を知ることが出来て、足りない部分や思い当たるふしが沢山あっておもしろかったです。「感情免疫力」を高めるために、縛られているものから解放されるために、「思い込み」に飲み込まれないようにします。日頃から意識して生活していきたいと思いました。」

「自分の性格のことがよくわかりました。わかっているつもりのことも正しいとは限らない、一歩立ち止まることも大切だと思いました。」
 その他、幾つも寄せられています。

 多分、W園長が良いアンケート結果だけを私に見せたとか、良いように書くようにと強要していないとすれば(笑)概ね好評だったと思います。

 私たちは感情、心によって生きているというのが私の考え方で、ですから、感情、心をどう自分達が良い状態で保つのかによって、人生が大きく変わって来るのではないか、そのためにも、日頃私たちが思っているもの、感じていること、の多くが「実は思い込みではないのか?」という話をさせて頂いたわけです。

 どんな思い込みがあるか?例えば最も良く知られる所の思い込みは、「完全主義」という考え方があります。自分は完全に生きたいと思う、今、丁度、我が家でも受験生を抱えていますが、娘が試験を受けて帰ってくると浮かない顔をしています。どうだった?と聞いても、「う~ん」と重い返事をする。

 ですから、これ以上は聞かない方が良いかなと思って聞かないでいると、もう私立高校などでは、試験の翌日にはパソコンで合格発表がありますから、見てみたら思いがけずに合格となっていたりするのです。良かったねと言っても、あれも間違っていたし、これも間違ったのに信じられないと答えます。

 どうも考え方の中に100点以外は不合格という意識があるのではないかと思います。合格点には達したんじゃないかとか、自分なりには頑張った、ではなく、100点か0点か。まあ、受験といいますのは、あまりキリスト教的ではないですが、「時の運」といもいわれますし、1点、2点の差で合格、不合格が決まったりするわけですから、中々素直に良かったとも言えないだろうとは思います。

 でも、そのようにして、私たちの日常生活でも、どうも、完全主義に生きようとするところがあると思います。けれど、そこで気づくのが自分は完全ではないということです。そして、完全ではない自分は許せないのです。不完全でも良いとは中々思えない。 
 案外、特に私たち日本人にはそういう傾向を持つ方が多いいのではないかとも思います。

 だから、いつの間にか自分は完全主義に陥っていたなと、自分が心の中に持っていたなと気づくことがとても大切です。完全主義の人に「あなたは完全主義者ですね」と話しますと、大抵、そんなことはありません、違います、という答えが返ってきます。それは、完全主義的に生きようとしても、決して完全ではないし、いつでも不完全な自分を生きていることが良く分かるので、自分は完全主義者ではないと思うのです。

 完全に生きようとすると、とても疲れますし、決してそのようには生きられません。

 ですから、~でなければならないとか、~であってはならないといった「思い込み」から解放されるととても楽に生きられますよというお話をさせて頂いたわけです。

 18世紀、1700年代に活躍したジョン・ウェスレーという人がいます。イギリス国教会の司祭として奉仕しておりましたが、いつの頃か、自分自身の中に葛藤が始まります。ウェスレー自身、もともと戒律・規律を重んじながら生きていたようですが、しかし、どんなにその戒律や規律を重んじて、厳格に生きたとしても、心が晴れ晴れとしない、逆に自分の信仰に自信を無くすような思いで生きていたそうです。そんな時期に、ロンドンで行われた一つの集会に出かけるのです。気が進まなかったけれど出かけたというのです。

 その集会ではローマの信徒への手紙が読まれていたそうですが、聞いていくうちに、御言葉によってウェスレーはどんどん力強められ、自分が神様から恵みを頂き、祝福を頂いていることを強く感じて、救いの確信とは、戒律や善行の末に辿り着くものではなく、自らの不完全さと罪深さを知らされて、しかし、でも既にキリストによる自己犠牲の愛によって救われているのだと改めて知って、そこで新たに回心するのです。自分は完全でなければならない、と言う思い込みに生きていた、しかしそこから救い出された時、どんなに大きな喜びであったでしょう。ウェスレーはその後、イギリスで信仰覚醒運動を展開して、後には私たちの教会の歴史とも深い関わりを持つ、メソジスト教会の創立者として歴史に名前を残すことになるわけです。

 一体、ウェスレーがローマ書のどの箇所によって信仰の確信を得たのか、調べてみましたが手元の資料が足らないのか、調べ方が悪いのか、よくわかりませんでした。けれど、例えば幾つかのウェスレーが説教した原稿を読むことが出来るのですが、ある原稿にローマの信徒への手紙の14章17節の御言葉が出て参りました。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」という御言葉です。

 神の国は飲み食いではない。この御言葉の背景には当時、使徒パウロが宣教して生み出してきた教会、あるいはローマの教会でも起こっていたことなのかもしれませんが、礼拝の聖餐式、そして愛餐会の時に起こった問題について記している箇所になります。私たちの教会でも礼拝の後に、毎週、愛餐会を行いますが、愛餐会という言葉は極めて教会的な用語です。昼食会とは言いません。愛餐とは、ギリシャ語で言えば、アガペーです。愛そのものです。愛の会なのです。

 ですから、古代教会では、ユダヤ教とは違う、キリスト教独自の礼拝として聖餐式を執り行っていたわけですが、同時に、どうも愛の食事の会、すなわち愛餐会を行っていたようです。どのような形であったのかその詳細はわかりません。しかしその愛餐の会で、元々ユダヤ教徒で、そしてクリスチャンに回心した人々の中に、やっぱり食べ物には、清い食べ物と、汚れた食べものがあって、清い食べ物は食べてもよいけれど、汚れた食べものは食べてはいけないと考えて、そう教えていた人々が大分いたようですし、更にはやっぱりクリスチャンになるためには、まず最初にユダヤ教徒になって、割礼を受けなければならないという教えを人に押し付けていた人々が大勢いた者と思われます。

 そのような教えに対して、パウロは、「そうではない」主イエス・キリストの福音は律法に縛られることはないし、戒律や規則によって福音が出来ているわけではない、神の国は、律法、戒律、規則によって成立しているわけではない、だから「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのだ」と記すのです。
 このような御言葉がウェスレーの、こうでなければならない、こうしなければならないという思いに、その思い込みに、深く響いたのではないでしょうか。

 先ほど、司式者には、マルコによる福音書1章12節から読んで頂きました。今日は受難節の最初の主日でもありますけれど、この主日礼拝において、主イエス・キリストがこの世に対してまるで宣言するようにして言われた御言葉「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」この御言葉はマルコによる福音書全体を表しているとも言われるほど大切な御言葉です。そこで神の国は近づいたと言われました。その神の国、主イエスが人々に宣べ伝えようとした神の国は、律法の下に完成させられるのではなく、戒律の中で成し遂げられるものでもなく、むしろ全く別であり、律法からの解放、戒律からの自由、そのような神の国が近づいた、と主イエスが告げているのだと思います。

 近づいたというのは、もうすぐやって来るということではありません。英語で言えば、現在完了の形ですと説明しますが、主イエスが公の人として世に出られた。その時既に、神の国もやって来たのだという意味です。もうすぐやって来るのではなく、既に、ここは神の国だという意味なのです。規則と戒律から解放されて、あなたは神の国にいる。そこは福音で満たされている場所であると告げているのです。

 福音に満たされている所、そこはどんな所であるのか、ウェスレーはこう告げています。『まず、「悔い改め」ることだ。すなわち、あなたがた自身を知りなさい。これが信仰に先立つ最初の悔い改めである。罪の意識を、あるいは、自己を知ることである。それゆえに、眠れる者よ、目を覚ましなさい。あなた自身が罪人であること、そしてどんな種類の罪人であるかを知りなさい。』

 私たちに、不平や不満が起こる所には、自分達のある種の「思い込み」があります。私たちが幼い時から、親からそのように教わった、学校で先生から教えられた、また社会環境の中で培ったそのような思い込みがあるのです。

 先日娘と一緒に車に乗っていたら、今話題の一冊となっている「不死身の特攻兵」という本がラジオで紹介されていました。鴻上尚久という作家が記した一冊のようですが、9回特攻命令を出され、9回とも生還した兵士のドキュメント小説となっているようです。飛行機に燃料を行きの分しか積まないで、飛行機ごと敵の艦隊につっこんでいくというとんでもない方法、町田の教会におりました時に、お兄さんが特攻隊で死んだという方がおられて話を聞いたことがあります。
 小説の中の不死身の特攻兵は、上官の命令に聞き従わず生きて帰ってくのです。そして、何も死ななくても良いのではないか、生きて何度、何度も攻撃に出るほうがずっと良いのではいかと、いつの間にか考えるようになる。その当時の「思い込みは」生きて帰ることは恥とか、無様とか、死ぬことこそ正しいとされていたのではないですか。そのように「思い込まされて」生きていたのではないですか。

 私たちは、勿論良い「思い込み」は人を伸ばし、その人の成長を助けますけれど、良くない「思い込み」もとても多く心の中に入っているのです。自分の能力はこれぐらいのものだとか、自分としてはこれが限界だとか、皆思い込んで、その縛りの中で生活しているとしたらとても残念なことなのです。

 神の国は律法を守ることによってやって来る。規律、戒律を守れば、罪無しと考えていた時代に、そう思い込んでいた時代に、主イエスは、それは間違っている、そこに神の国はやって来ないと人々に告げたのです。

 むしろ、神の国は、主イエス・キリストご自身の中に、その御言葉の中に、福音の中にこそ示されます。だから、私たちが持つ、自分自身を縛ってしまっている規則や戒律から解放されて、私たちは神の国は既にここにきているよ、とこの私たちの教会をこそ、いける神の宮として、またそこの住民として生きていきましょう。ここに福音がある、ここに主の希望がある。そう宣言しながらこの一週間を歩んでまいりましょう。

                                                              お祈りします。
ジャンル:
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