日本キリスト教団 大塚平安教会 

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私の心の岩

2020-09-07 09:05:32 | 礼拝説教
【詩編73編21~28節】
【マタイによる福音書16章13~20節】


 先週、ついに礼拝を開催することが出来ませんでした。教会の皆様にはお詫びしなければならないと思います。遡って水曜日の午前中から、体の調子がいつもと違うと感じておりました。体が熱ると言いますか、背中がゾクゾクする感じがありまして、しかも倦怠感が強くあり、嫌な感じを過ごしました。熱は殆ど出なかったのですが、これは、もしかしたらと最悪の事態を想定するわけで、次の日の木曜日、調べて「帰国者、接触者相談センター」に電話して相談しましたら、かかりつけの医者に診て貰って下さいと言われまして、金曜日に通っているクリニックに電話しました。
 そこで、海老名で検査をしている病因を紹介していただきまして、迷うことなく、直ぐに検査を受けました。ただ結果が週明けの月曜日になるかもしれませんと言われまして、なんとか土曜日にとお願いしたのですが、土曜日には結果の連絡は来ず、日曜日を挟んで月曜日となりました。
 
 そのために日曜日の礼拝は思い切って休みとしました。不安ですが、やりますという訳には行きませんし、検査を受けたことを黙っているわけにもいきません。体の調子もそれほど良くなった感じもありませんでした。
 
 月曜日の朝、9時過ぎに病院から電話がありまして、陰性であることが告げられて想定していた最悪の事態には至りませんでした。しかし、快復にするには更に二日、三日、調子がおかしくなってまるまる一週間必要となりました。
 原因はよく分かりません。医者が言うには夏風邪でしょうということでしたけれど、そうかもしれません。
 
 ただ、ハッキリわかることは、今、体の調子が少しでも悪くなると、大変な緊張状態となり、些細な症状の殆ど全てが、新型コロナウィルスと関係があるのではないかと考えてしまうということです。更に遡れば数週間前から目がかゆくなっていました。その痒さは時々体全体に及ぶこともありました。その際にも調べますと、新型コロナウィルスの初期には、結膜炎になる症例が乗っているわけです。あ、これかもしれないと思いますと、もう病気よりも先に心が病んでいきます。眼医者に行きましたら、目は綺麗ですよ、アレルギーですから点眼薬を出しますと言われても、医者が間違っているのではないかと勝手に思うのです。
 体が熱っていると思うと、それが夏の暑さからなのか、熱があるからなのか、体温を測っても37度には一度もなりませんでしたが、体温計が壊れているのではないかと思うのです。家にある3本の体温計の全部を調べても、36度台、でも3本とも壊れているのではないかと思うのです。
 私自身、小心者でありますけれども、神様に祈りを献げつつも、心が晴れ渡るわけではありません。先週は、高校生の娘には、前期の期末試験があると言われ、息子には職場に行けないと言われ、どんどん追い込まれそうになります。自分の体も、自分の心も、精神的にも負けそうになる一週間であったと思います。

 箴言16章9節に「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えて下さる」とあります。私たちは、私たち一人ひとりの人生設計があります。この学校に入りたい。この会社に入りたい。この人と結婚したい。このような家庭を築いていきたい。と、人はそれぞれに計画を立てます。その計画がどこまで具体的なものかはわかりません。けれど内心は、大体このような環境で、このようにして生きていきたいと思うものではないでしょうか。そんな思いに添って生きていけているならば、人はそれほどの悩みが無いかもしれません。
けれど、なんとなくでも立てている計画のうちに、全く当てはまらない状況が与えられるとするならば人はそこで、どれほど悩み、また苦しむであろうかと思います。

 三浦綾子さんという作家は、キリスト教の信仰を持った作家でありました。もともと小学校の先生をしておられた、けれど、第二次世界大戦、太平洋戦争が敗戦となり、自分が子ども達に教えていた教えが正しかったのかどうか、深く悩むようになります。結果的には学校の先生を辞めてしまうのですが、更に彼女は、その後重い病気となり、結核を患い長い闘病生活を送らなければなりませんでした。戦争に負けて、物事の考え方が変わる、また、病気にかかる、それらの出来事は、自分の頑張りとは違うところで、しかも、自分の人生に与えられた、自分の計画には無かった事柄でしょう。
自分が思い描いていた人生とは全く違い、しかも自力ではどうしようもありません。なんとも辛い歩みとしか思えません。けれど、その一つ一つを通して、三浦綾子さんは、神様と出会っていくことになります。神様と出会うとしても、それすらも三浦綾子さんが願い歩もうとしていた歩みではなかったでしょう。
 けれど、いつかの時点で、神様の道と三浦綾子さんの歩む道が交差して、その交差する所で、キリストの十字架を見いだしたのではないでしょうか。
 
 キリストの十字架を見上げた時に、そこにおられたのは、人の絶望のさらにその先にある希望を示し続けておられた主イエス・キリストの確かな光ではなかったでしょうか。
 
 先週の一週間、私は寝込むまではいきませんでしたが、家にいて、一つの小説を読みました。

 窪 美澄という方が記した小説です。タイトルが「やめるときも、すこやかなるときも」、タイトルだけで買ってみた小説です。少し厚い本でしたので丁度良いと思って読んでおりました。読むとキリスト教とは全く関係の無い、若い青年男女の出会いと別れと、結婚といういわば純愛小説と言っても良いかもしれません。時間がありませんので、内容は割愛しますけれど、この小説を記した作家は、人間は「貝のむき身」のようだと表現した下りがありました。

 人は社会生活を送る上では、無用に傷つかないように、普段は固い殻でもって、柔らかい中身を覆って生活をしている。けれど、愛する人の前では、殻だけではなく、貝のむき身のような自分をさらけ出さなければならない。しかし、そのむき身の部分は、少しの衝撃でも傷がつくし、無傷の人はだれもいないし、人はむき身の自分に、多くの傷を抱えながら、歩んでいると、と言った具合の箇所がありました。
 
 健やかなときには、現れてこない、けれど、病めるときにこそ、むき身の傷が現れてくるのかもしれません。病める時、それを病気の時だけと限定する必要はないでしょう。今日は詩編73編を読みました。73編26節にはこうあります。「わたしの肉もわたしの心も朽ちるであろうが、神はとこしえにわたしの心の岩」
 
 人の人生の中で病める時、時には戦争と言えるかもしれません。時には病気と言えるかもしれません。裏切られた、だまされたと思う時かもしれません。人はそれぞれに「病める時」を生きることがあるのだと思います。
けれど、そのような時にこそ、神は深い関わりを持って、自分と交差するようにして出会って下さるのかもしれません。
 
 神はとこしえに私の心の岩、心の岩という言葉は、口語訳聖書を見ますと心の力とありました。力とはエネルギーです。わたしたちの病める時、それは色々な意味でエネルギー不足となります。
エネルギー不足は、時として命の危機となり、精神的にも否定的、後ろむきになり、尽き果てそうになるのです。
 
 けれど、神は私の心の岩。あのペトロが主の十字架の裁判の時には、あなたもあの人の仲間であったと言われた時に、必死に逃げて、わたしはあんな人を知らないと言ったのに、けれど、そんなペトロが、主イエスの復活の業を体験したときに、神のエネルギーとしての聖霊を受けて、心が変えられ、命がけで主イエスの福音宣教に乗り出していったように、地上の主イエスが「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と告げた言葉通り、神から、主イエス・キリストから沢山のエネルギーを貰って、神の祝福を心一杯に受けとって、立ち上がってからのペトロに迷いがなかったように、私たちもそう生きていけるはずです。

 わたしたちの肉も心もいつかは朽ちていく、尽きていく時があるでしょう。けれど、主なる神は、どこしえに私の岩、力、わたしの尽きることの無いエネルギー、神の聖霊が私たちを包み込み、人がもうダメだ、もう終わりだと思うようなその中にあって、大丈夫、心配ないと言える。
 
 神様としっかり交差し、十字架の光を知る者として祝福を告げられる、安心と平安を生きることが出来る。そのような者として、私たちは生きてまいりましょう。

 お祈りします。


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