日本キリスト教団 大塚平安教会 

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大切なあなた

2021-07-05 14:37:26 | 礼拝説教
【詩編117編1~2節】
【ヨハネによる福音書3章16~2節】

 今から26年前の1994年12月、クリスマスが過ぎた暮れの頃でしたが、私はパリにいました。テゼ共同体と呼ばれる修道会のヨーロッパ大会に参加するためでした。

 テゼの始まりは、第二次世界大戦時に遡ります。1939年9月1日、ドイツ軍がポーランド侵攻を開始し、その後ロシアがポーランド侵攻、更にイギリス、フランスがドイツに宣戦布告して、ヨーロッパ全土が戦場と化しました。
人と人とが分断される中で、カルヴァン派の教会の牧師の息子として育ったフラザー・ロジェという人が、せめてクリスチャン同志だけでも和解と平和を実現させたいと願いながら、小さな希望の印として、フランスのブルゴーニュ地方にあるテゼという小さな村に男子修道会を開いたのがテゼの始まりです。

 戦争の最中には、ユダヤ人を命がけで守り、戦争が終わると逆にドイツ人を守り、それはいつも強い者たちにとって憎まれる役になるわけですが、その後、テゼ修道会の働きは、神を信じる者は勿論、神を信じない人々にとっても、静かに、しかし、魅力的に映り人々が関心を持つようになっていきます。
次第にテゼの村に多くの若者が集うようなり、一週間ほど過ごして帰るというスタイルが定着していきます。夏になると世界中から何万人もの若者が集うようになりました。若者たちは朝、昼、晩の礼拝、礼拝と礼拝の間に行われる分かち合いを通して、心が通い合い、お互いを認め、お互いを信じる大切さを経験として体験していきます。分断ではなく和解、主義、主張ではなく、理解、寛容を体験します。

 日本で最初期にテゼを紹介したのは、評論家、作家として知られている犬養道子さんで、テゼ共同体は「20世紀の奇跡」だと表現したと言われています。 
なぜ奇跡かというと、その修道会はプロテスタント教会だとか、カトリック教会だとか、正教会とか、考えてみると教会でさえも世俗的な様々な立場や主義、主張を繰り広げるものですが、そういった壁や、障害を乗り越えようとする働きだったからと思います。

 プロテスタントであろうと、カトリックであろうと、国籍、人種、性別、その人の信条がどうであるとしても、全ての人々が神の御前に招かれ、神の祝福を受けている。そういう感覚は、特に若世代の人々の心を惹きつけたのでしょう。

 1978年から、テゼは年に一度、国の持ち回りのようにして、ヨーロッパ大会を開催するようになり、私は1994年の暮れに行われた、パリの大会に参加したわけでした。
到着した最初の夜は、パリ郊外にある小さな町の小学校の体育館に寝袋で宿泊しました。すぐ隣には東欧のどの国であったか忘れましたけれど、高校生二人がいて、一緒に話し、一緒に食事をし、一緒に寝ました。食事はフランスが軍隊を出して、炊き出ししてくれていました。小さなリンゴと、スープとパン。それだけで十分でした。

 パリの町に全世界から何万人もの人々が集まり、共に祈り、共に過ごし、共に歌う。私の信仰生活にとっては貴重な体験でした。世界の色々な人々と友達になりました。挨拶の印として抱きしめられるのは、日本人にとっては緊張そのものでしたが、楽しくもありました。ヨーロッパの多くの国々言語はHの発音をしません。ですから日本人が「ハヒフヘホ」と言うだけで、みんなが驚いてくれました。

 ベルリンの壁が崩壊したのは、1989年ですが、それから5年、かつては表立って教会に行くことさえ難しかった地域の人々が大勢来ていました。一緒に集まれる喜びに顔が輝いていました。私自身、このことを通して、集った一人一人が、皆仲間であり、それぞれが集まって信仰共同体であるという感覚が養われたと思っています。
 
 昨日の朝、テレビのニュースを見ていましたら、隣の中国が7月1日に「共産党100周年記念式典」を行ったと報道されていました。習近平国家主席が演説をして、アメリカを意識した発言や、国内にあると言われる人権問題に対して、あるいは台湾との関係について、断固とした態度で臨む姿勢について解説されていました。一方においては、アメリカのバイデン大統領も、対中国に対しては厳しい態度を取り続けていますし、トランプ大統領の時代よりも、厳しいのではないかと思う時さえあります。

 私たちの国と言えば、いつの間にか、最も近くの国である韓国とも上手くいっていませんし、北朝鮮との関係は、常によくありません。日本は、言って見れば隣の、どの国とも上手くっていないと言っても良いかもしれません。その原因や、政治的な要因について、これ以上は良く話せませんけれど、信仰的な視点から考えるとすれば、そういった分断や軋轢の中で明らかに見えてくるのは、人としての「闇」ではないかと私は思います。

 福島の教会で働いている先輩の牧師からお便りが届きまして、喜んで読んでいましたらその文章の中にこんな言葉がありました。
 「闇とは、自分が正しいと信じることに徹底的に忠実であろうとすることによってもたらされる破滅」
 
 岩手県大船渡市に住んでおられる山浦玄嗣(はるつぐ)さんという医者で、「ケセン語訳聖書」を刊行した先生の言葉だそうです。私はこの言葉はインパクトがあると思います。
 闇とは、自分が正しいと思い、それを信じ、徹底的に忠実であろうとすると、その先には破滅があるというのです。

 この言葉は、現代社会が直面している状況を、鋭く言い当てていると思います。 人は皆自分こそが、自分達こそが正しいと思うところがあります。でも、正しいと思うそのことに忠実であろうとする時、他者に対して抑圧し、排除し、無視をし、更には抹殺しようとする強い力があるのでないですか。

 しかも、自らは少しもそのことに罪悪感が無いのです。なぜなら、自分は正しいからです。そしてその人の思うところの正しさは、聖書を知る者にとって、神を抹殺しようとすることさえ正しいと感じる程の思いであることも理解できるでしょう。

 そのよう人の闇、人の罪、人が思うところの正しさに対して、今日読みました詩編117編の御言葉は人の正しさではなく、神をこそ、賛美することの大切さを示しています。

 「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを越えて力強い。ハレルヤ。」

 詩編の中で最も短い、僅か5行で終わるこの詩編117編、「すべての国」「すべての民」という言葉は、どの地平を持って伝えられているのでしょうか。この詩編は、歴史的には、イスラエルの過越しの祭の際に唱えられた詩編と言われます。それならば、すべての民とはイスラエルの民を示していたのでしょうか。けれど、クリスチャンがこの御言葉を読むとき、「すべての国」あるいは「すべての民」とは、主イエス・キリストの福音を信じる、世界の人口の30%以上を占めるクリスチャンについて言っていると考えられるかもしれません。

 けれど、私はテゼ共同体がその最初から目指した地平である、信じる者も信じない者でさえも、社会主義とか、民主主義と言った政治的信条をも超えて、国、人種、民族、思想、信条を越えて、「すべての国よ、主を讃美せよ」「すべての民よ、主をほめたたえよ」と告げているのだと思うのです。
なぜ、この方を賛美するのか、この方こそが、「その独り子をおあたえになった程に、世を愛され、独り子を信じる者が一人も滅びないようにと考えられ、御子によって救いがもたらされるから」だと聖書は告げるのです。

 人には闇があります。闇は破滅をもたらす力があります。私たちはそのことを、人の歴史を通して何度も何度も教えられているではありませんか。
今の時代、コロナウィルス感染という「闇」があります。ウィルスそのものも闇だと言えるでしょうが、パンデミックな世界さえ利用して、自分の主義主張でもって、分断を煽る、そのような闇に陥らないようにと切に願います。私たちは、私たちの考えからではなく、わたしたちの主張ではなく、わたしたちの神をこそ讃美し、わたしたちの主こそ褒めたたえることが出来るようにと願い祈ることにいたしましょう。

 そして、どのような状況にあってなお、神が私達を愛しておられることを忘れないように生きていきましょう。神を愛し、隣人を愛して生きてまいりましょう。

 お祈りします。

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