日本キリスト教団 大塚平安教会  

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あなたの罪は赦される

2018-03-01 15:16:53 | 礼拝説教
【マルコによる福音書2章1~12節】

「あなたの罪は赦される」 

 先週の礼拝に、初めて礼拝に来られた方がおられました。男性の方でしたが、礼拝の後に丁寧に挨拶して下さいまして「教会に来て良かったです」と言って下さいました。その方は実は、更に十日程前に教会を訪ねて下さり、玄関先でしたけれど、これから月に一度位ですが、大塚平安教会の礼拝にと考えていますという話を伺っていました。
 それで実際に礼拝に出られ、また玄関先でしたが話をしました時に、週報を見ると牧師がどうも忙しくしていると感じたようで、あの時お会い出来て、本当に良かったですと話して下さいました。

 その日は金曜日でして、金曜日、土曜日は週の中でも確かに、割合に多くの時間を牧師室で仕事をしています。でも、そんな話を伺いますと、牧師が教会にいる時間が大切だと改めて思いました。

 3年前に新会堂を建てる際に、牧師室に注文を付けたのは、仕事する予定の作り付けの机の前に、四角い窓を作って欲しいという願いでした。教会にやって来られる方が、その窓から私の姿が見えたら良いかもしれないと思ったからです。

 岩手の花巻におりました時に、花巻にカトリック教会がありまして、そこにスイスからやって来て40年間、神父として遣われた先生がおられました。私にとってみれば大先輩でもあり、いつお訪ねしてもニコニコと笑っておられた。そのカトリック教会の先生がおられる執務室に小さい四角い窓がありまして、その窓から聖書を読んだり、書き物をしたりしている姿を見つけると、私は嬉しくなってチャイムを押したものです。

 何をしているとか、していないとかではなく、その人がその場にいる。いるべきところにいる。それは、案外大切で、大事なのではないかと思います。
ですから、先週の金曜日も意識して一日教会におりましたが、その時は誰も来られませんでした。(笑)こういうことは狙っていてはダメなんですね。

 それはともかく、今日はマルコによる福音書の2章1節~12節の箇所から読んで頂きましたが、「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので」とあります。

 カファルナウムの家とは、どんな家なのか、まさか主イエスの持ち家とは考えにくいです。恐らく弟子のシモン、後のペトロの家ではなかったかと推測されています。主イエスは、カファルナウムではペトロの家を拠点として働いておられたのでしょう。

 この時、既に主イエスのお働き、名声はカファルナウムにとどまらず地域一体に広まっていました。ですから、主がこの町におられる、いて欲しい人がいる、そのことを知った町の人々は大いに喜んで、大勢の人々が集まって参りました。戸口のあたりまですきまもないほどになったというのです。

 主がおられると聞いて、人々はなぜ、喜んで集まって来たのか、理由は明らかです。マルコによる福音書は、主イエスの名声は、このカファルナウムから始まっているように記されています。主イエスが福音伝道を開始されて、弟子たちを招かれ、それからある安息日の日に、弟子たちを連れてカファルナウムの会堂に入られました。そして、会堂で教えられました。そこに汚れた霊に取りつかれていた人がいて、その霊を言葉でもって、「この人から出て行け」と叱られると、悪霊が出ていったというのです。この出来事は人々を非常に驚かせました。評判となりガリラヤの隅々にまで広まったと記されています。

 主は、同じ日の昼に、シモンの家に行きましたらシモンの姑が熱をだして寝ていたので、主が脇に座り、手を取って起こされると、熱が下がって、彼女は喜んで一同をもてなした。とあります。更に、夕方になって日が沈むと、つまり、安息日が終ったのでという意味ですが、安息日が終ったので、人々は待ちかねたようにして、大勢の人々が集まって来まして、病人や悪霊に取りつかれている人を連れて来ては、「イエス様、わしの家の家族を、妻を、夫を、子どもを、爺ちゃんを、婆ちゃんを癒して下さい」と願うのです。主はその一人ひとりを癒されたでありましょう。

 そのようなお働きによって、更にその評判が広まり、また、主イエス自らが、各地域にまで出かけられて宣教し、悪霊を追い出される働きをされます。1章40節からの箇所では「重い皮膚病」を患っている人を癒されたという話がありますが、癒された人に「誰にも何も話さないように」と厳しく話したのですけれど、しかし、彼は大いにこのことを人々に告げたものですから、更に評判が広がります。もしかしたら、主イエスはその場所にもいられない程になってしまったかもしれません。数日後、再びカファルナウムに戻ってきたわけです。

 けれど、同じことでカファルナウムの人々も、主がおられると聞き、人々は喜んでやって来ました。イエス様、なんとかこの苦しみから、この辛さから、この苦労から救って頂きたい、人々の切なる思いが主イエスに集中しているかのようです。

 あまりにも人々が集まっていたところで、ここで事件が起こります。四人の男性が一人の中風の人を連れてきました。家族であるのか、友達であるのか、この人の病を癒して頂きたい。しかし、人が集まりすぎて、主イエスのところに近づくことが出来そうもない。仕方ない、思い切って屋根から病人をつり降ろそう、そう相談して決めます。

 この中風の人は幸せだと思います。もし、一人が一人を連れてきていたら屋根からなどとは思いも寄らなかったでしょう。二人だったら考えたかもしれませんが、諦めたと思います。三人だったら、可能性はあったと思いますけれど、大分躊躇したかもしれません。一人の為に四人いたからこそ、屋根をはがして、上から降ろすことが出来たのです。四人、それは一つのエクレシア、信仰共同体と言っても良いでしょう。

 ですから、主イエスは「その人たちの信仰を見て」とあります。中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」という宣言をされました。しかし、この言葉を聞いて、そこにいた律法学者は驚き、また心の中であれこれと考えました。「この人は、神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を許すことがでえきるだろうか」そう思いました。その思いを見抜いて主は「あなたの罪は赦される」と言うのと「起きて、床を担いで歩け」と言うのとどちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。

 みなさん、みなさんはどう読まれるでしょうか。「子よ、あなたの罪は赦される」と「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言うのとどちらが易しいのでしょう。どちらが易しいのか、どちらが難しいのか、勿論、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と私たちは、そのような言葉を言っても、そうはならないでしょうから、私たちにとっては易しいわけではありません。

 けれど、そういう物理的な側面を排除するわけにはいかないと思いますが、今、私がこの礼拝で申し上げたいと思っていることは、「子よ、あなたの罪は赦される」と語る主イエスの言葉を、現代の教会は語り続けているだろうかということなのです。

 この二月は、一年で一番寒い時期でありながら、大学、高校、中学と受験シーズンです。我が家も、今年は長男、と長女がそれぞれ受験します。なんとか、希望の通りにと親も子も願っていますけれども、一方で受験の話も少し関係しますが、娘が通っている中学に進学したくないと考えている子供や親御さんが大勢いるという話をよく耳にします。なぜか、どうも、その学校が荒れているというのです。あまり具体的なことは良く分かりません。でも、例えば授業を妨害する子どもがいる。いじめや乱暴な出来事がよく起こる、あるいは学校の内外で、素行が良くない子どもが大勢いる、そんな評判が立っているというのです。

 昨年の春に、私自身学校から連絡がありまして、なんとかPTA会長にとお願いされましたが、断りました、と話した記憶がありますが、家内からも、娘からもやめた方が良いと言われ、会長なんて、もうそれこそ仕事どころではなくなるかもしれないというのです。今日奏楽して下さっている、F.Tさんは、息子さんの小学校のPTA会長を6年間されたと聞いています。だからTさんは本当に偉いと思います。でも、何もPTA会長にこだわる必要もなく、私は教会ならではの、あるいは牧師ならではの働きがあるのだろうとも思うのです。

 例えば、牧師ならではの働き、それは、「あなたの罪は赦される」という宣言にも似たこの言葉ではないかと思います。

 何も一つの中学校に限ることでもなく、私は皆さんご存知のように、月に一度、少年院を訪問しまして、子供たちと面接をして、話を聞いています。本当に心から思いますけれど、少年院にいると言っても、本当に良い子どもです。不思議なことに、自分の罪を悔いて、悲しみに打ちひしがれているというよりは、一時間、一時間半の時間の殆どを良く話しますし、良く話を聞いてくれます。なんでも話してくれますし、また、殆ど全ての子どもたちが将来の不安を抱えています。一般的な若者でさえ、現代、多くの悩みを抱えながら生きているわけですが、彼らの悩みは一層深く、重いとも思いますが、そうはいっても絶望しているわけでもない、むしろ、閉鎖的な場所だけに、自分の内面を良く見つめることが出来て、逆に健全に悩んでいるとも言えるかもしれません。

 健全でないと思うのは、むしろ学校だけに限らず、一般的な大人の社会の方がずっと多くあると言うと言いすぎと叱られるかもしれませんが、今の時代、捕まるようなことではないとしても、人生の一度の失敗が、もう一生の問題のようにして、その人の人生を苦しめることがあります。
 
 私たちの社会はいつの間にか、やり直しや、繰り返しや、「もう一回」が許されない社会になって来ているように感じるのは私だけではないと思います。
 あの子は、悪い奴だとレッテルを貼られると、それをはがすことはとても容易ではありませんし、大人の世界も、週刊誌などには、あの人も、この人も、不倫をしているとか、あんなことをしていると書き立てて、政治も、芸能も、相撲の社会も、徹底的に人を叩いて、叩いて、これでもかという程に追い込んでいって、そして追い込む方の人は、まるで裁判官にでもなったようにして、自分こそ正義のようにして裁いて見せる。しかも、実際は無責任な裁き方ですし、実際のところ、自分の人生とは殆ど関係の無い出来事であればある程、簡単に裁くのです。

 けれど、自分と深く関係するところでも、人は裁かないかというと、決してそうではないのです。自分の夫に対して、自分の妻に対して、子どもに対して、親に対して、地域、社会に対して、私たちはいつの間にか、あの人は赦せないと、あの人のあの言葉はないよねと思いながら、いつの間にか、不満と悪口ばかりが、口から出ているとしたら、どんなに怖く、またストレスの溜まる状態を生きているのではないでしょうか。そして、そこで決定的に欠けているものが一つあるのです。

 それは自分も罪人であって、その罪から自分も許されたのだという思いです。

 主イエスは「外から人の体に入るもので人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」と教えられました。今、インフルエンザ等が流行っていて、入って来るものも体に影響が出ますが、しかし、薬と、睡眠、栄養によって良くなっていくわけですが、口からでて、人を汚すものは、それより質が悪いということでしょう。
 つまり、私たちの世は、どんどんと「赦す」という言葉が消えて行っている時代、そして、それは人が自ら豊かに生きるようにと養って来た宗教観を失ってきている時代を私たちは生きているのではないのかとも思います。

 良く日本基督教団の教会は、全体的に教勢が減ってきていると言われます。なぜ減ってきているのか、多くの理由が述べられます。高齢化社会だから、景気の問題だから、日本人の宗教心の問題だから、専門化の人々は色々と分析までされています。
 
 けれど、私は思います。教会はこれまで「あなたの罪は、赦される」と宣言し続けて来たのだろうか。特に日本基督教団の教会はそうして来たのだろうか。二月末には神奈川教区総会が開かれますが、いつも感じることですが、議場では厳しい意見が飛び交い、時には誹謗、中傷とも思える言葉が飛び交います。時には信仰を持つ者の言葉なのだろうかと思う時さえあります。そんな言葉を用いる牧師が、教会に帰って「神は愛です」と説教するのだろうかといつも思わされます。

 そのような中で忘れられていく神のみ言葉が「あなたの罪は、許される」という御言葉ではないでしょうか。

教会は主イエスのように、人の病気を物理的に癒す、そのような業を中々示すことは出来ないかもしれません。けれど、「あなたの罪は赦される」という御言葉は、その人の存在を、その人がたとえ、病気であろうと、泥棒であろうと、なんであろうと、徹底的な許しの中で、神の愛で包み込んでしまう神の御業を示し続けることは出来るのではないでしょうか。

 あなたも私も、神の前では、本当に罪人でした。けれど、その罪が許された一人として、私たちは、謙遜にならなければならないと思います。そしてあなたも、私も、神に愛されている者としてこの二月も、希望を持って歩んで参りましょう。

お祈りいたしましょう。
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