日本キリスト教団 大塚平安教会 

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人間とは何ものなのか

2022-02-13 13:29:26 | 礼拝説教
【詩編144編1~4節】
【ヘブライ人への手紙2章5~9節】

 今日の説教題を「人間とは何ものなのか」としました。詩編144編3節を読みますとこうあります。「主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの 彼の日々は消え去る影」この箇所からつけた説教題です。
 
 この詩編の御言葉と、ほぼ同じ内容の御言葉が詩編8編4節以降にも記されています。そこにはこうあります。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間とは何ものなのでしょう。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。」
 
 さらにもう一個所、詩編89編48~49節(928頁)を読んでみましょう。
「心に留めてください わたしがどれだけ続くものであるかを あなたが人の子らをすべて いかにむなしいものとして創造されたかを。命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか。陰府の手から魂を救い出せるものが ひとりでもあるでしょうか。」

 このような詩編の御言葉を読んでいきますと、神によって創造された人間は、いかに弱い存在なのかが良くわかります。人間は儚く、脆い存在であり、時には悩み、時には患い、時には争い、時には諦め、そのような人の弱さが記されている。それは詩編全体を通しても、貫かれているテーマの一つと言えるでしょう。

 先日、ネットであるキリスト教に関係する動画を見ていましたら、こんな質問がありました。「聖書を一人で読んで、一人で学んで、一人で信じて過ごすのは良くないのですか。」
 コロナ禍だからということでもないと思いますが、私はなるほど、そう考えることも出来るかなと思いました。けれど、その問いに答えられた牧師ははっきりと「それは良くない」と即座に答えられました。
 
 聖書を一人で読む、一人で学ぶ、それもかなり厳しいでしょうが出来なくはない、けれど一人で信じるとはどういうことか。イエス様は律法の中で一番大切な教えは何かと問われた時に、「一つは神を愛すること、もう一つは隣人を自分と同じように愛する事。この教えにまさる掟はほかにない」と話されました。一人で神を信じる、それは出来るかもしれないが、一人でどうやって隣人を愛するのか。実践が伴わない信仰は正しい信仰なのか。あるいは、人は一人で信じられるほどに強くないはずだ。そのような答えだったと記憶しています。

 今日は礼拝後に婦人会の皆さんが、コロナ禍の中で、教会から足が遠のいておられる方々が多くおられる、そのような皆さんに週報の発送をされると伺い嬉しく思いました。私も色々と考えて、私なりに封筒に入れてもらえる文章を記して準備しました。文章を記した他に、もし良かったら私たちにもお便りをくださいとお願いする、「つながり葉書」というものを用意してみました。

 人が生きていく中にあって、自分は弱いなと思う出来事を幾度も経験します。私たちは2年以上に亘るコロナ感染拡大の状況を過ごしていますが、このような甚大な災害と言える状況、医療現場の方々はまさに命がけで働く日々を送っておられますし、行政や、保健所で働かれる方々には本当に頭がさがる思いがします。
 だから、皆さんよ、不要不急の外出はしないように、出来るだけ外に出ないように、これもまた大切です。しかしまた、一方においては経済活動の停滞は、日々の私たちの生活、命にも直結するわけで、不安と近況の日々を過ごさなければなりません。
 自由に出るにも出られず、集まるのに集まれない。孤独を感じ、弱さを感じておられる方々も多いと思う。そのような方々と葉書一枚でも、つながり合えるなら互いに励まし合えるなら、私たちは更に力を得て、主にある兄弟姉妹として大きな喜びを分かり合えるでありましょう。私たちは弱く、一人で信じていける程の力を持ち合わせてはいない、人間とはそういうものだと詩編は伝えているのではないでしょうか。

 人は弱い存在である。二つ目は、「主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは。」とあるように、私たち人間に対し、主なる神が親しんでくださり、思いやってくださる、御心に留めてくださるに値する、人間はそういう存在だと詩編は告げています。
 
 どのようにして御心に留めてくださっているのか、その答えの一つとして、先ほどヘブライ人への手紙の2章を読んでいただきました。
 ヘブライ人への手紙は、毎週、水曜日午前の祈祷会で共に読み進めていますが、読めば読むほどに難解で難しいなと感じるような手紙でもあります。
 
 先日我が家の夕食の時に、唐突に家族に聞いてみました。「固い煎餅と柔らかい煎餅とどっちが好き」、「鳥の軟骨ともも肉とどっちが好き」と聞いてみました。誰がどう答えたかはともかく、固い煎餅が好きと答えた人は、鳥の軟骨も好きと答えました。誰がとは申しませんが「噛めば噛むほどに味わい深く感じるから」と言っていました。
 固い煎餅、軟骨が好きな方は、是非ヘブライ書を読まれると良いと思います。でも、中々一人では読み切れませんから、祈祷会に是非おいで下さればとも思います。

 なぜ、難しいと感じるのか、その理由を説明する暇はありませんけれど、聖書が手もとにある方は新約聖書の405頁を開いていただければと思いますが、2章6節を読みますとこうあります。「ある箇所で、次のようにはっきり証しされています。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下にしたがわせられました。」とあります。
 
 この御言葉は先ほどの詩編144編の箇所、また同様の詩編8編の箇所から引用された聖書箇所です。
 
 けれど確かに引用なのですが、読み間違えないようにして読まないと分からない箇所があって、それはヘブライ書が告げる「人間」、また「人の子」は、私たちのことではなく、主イエス・キリストのことなのです。旧約聖書で「人の子」という言葉がある時は、大体私たち人間を指しますが、新約聖書の「人の子」は多くの場合主イエス・キリストです。こういったことも難しさを感じるのかもしれません。

 ですから、あなたが心に留められる人間とは、主イエス・キリストで、あなたが顧みられる人の子も主イエス・キリストです。7節に「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、」と続きますけれど、神の子である主イエスが天使たちよりもわずかの間、低くなったというのは、人の姿をとって、受肉されて、この世に誕生されたという意味です。

 更に続いて、栄光と栄誉の冠を授けとは、主イエスの十字架と復活の出来事を示し、「すべてのものを、その足の下に従わせられました」とは昇天され、神の右に座した主イエスの姿を示しています。
 
 主なる神が、私たちに親しんでくださり、思いやってくださり、御心に留めてくださっている証しとして、神の独り子である御子イエスを、この世に誕生させ、主イエスは私たちの罪を許すために十字架にかけられ死なれた。そこで全てが終わってしまったと思ったのに、三日の後に復活され、復活の主は天に上り、主なる神の右の座に座られた。

 この事により、主の弟子たち、使徒たちはユダヤ人に限らず、異邦人も含めてすべての人々に福音の宣教を開始し、この方こそが私たちが探し、求めていたメシア、救い主であることを広く宣べ伝えたのだと告げているのです。
 
 ヨハネによる福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、その御言葉の通りだと、このヘブライ書でも告げているわけです。
 
 なぜ、神がそうされたのか、繰り返しになりますが、御自分が命を与えた人間を愛していたからです。

 旧約聖書の創世記にアブラハムが独り子イサクを献げる場面があります。主なる神がアブラハムに語りかける。アブラハムよ、モリヤの地に向かい、あなたの愛する息子イサクを献げなさい。アブラハムにとっては信じられない命令でした。たった一人の願いに願って与えられた息子であるイサク、そのイサクを犠牲の献げものとして捧げなければならない。アブラハムはどう思ったことでしょう。けれど、アブラハムはその神の命令に背くことをせず、イサクと共にモリヤの地に向かい、イサクを祭壇に乗せ、刃物を取り、息子を屠ろうとしました。
 その時、「アブラハムよ、その子に手をくだしてはならない」との声がして、アブラハムは、後ろの木の茂みにいた雄羊を代わりにささげたという場面がありました。
 なぜ、神はアブラハムにこのような惨い命令をされたのだろうか、と私たちは読んで思うところがありますが、この出来事を新約聖書に照らして読むとすれば、アブラハムは主なる神、イサクは御子イエス・キリストを象徴します。神は、御子イエスを愛していたでしょう。けれど、その独り子を与える程に、私たち人間を愛して下さった。私たち人間に心を留めてくださったということではありませんか。
 そして、私たちを人としての罪から完全に赦し、主イエス・キリストは私たちの救い主、メシアでありながら、尚、私たちを兄弟と呼び、友よと呼びかけてくださるのです。
 弱くて、脆い、私たちのために、いつの時も共にいて下さるために、いつも一緒にいてくださろうとして今、天において神の右に座しておられる。
 だから、ヘブライ語を話す、ヘブライ人の皆さんよ、このことを忘れてはなりません。私たちはこの方から離れてはなりません。この方をこそ見上げながら、なんと幸いな私たちであろうかと感謝しながら、過ごして行きましょうと聖書は告げているのです。

 私たちはヘブライ人ではなく、日本人として生きていますが、しかし、主なる神に愛された一人一人です。確かに弱く、儚い一人一人です。でも、その私たちを愛してくださるかた、心に留めてくださる方を頼りに、この一週間も過ごしてまいりましょう。

 お祈りします。
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