日本キリスト教団 大塚平安教会 

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知恵の正体

2021-05-16 13:47:39 | 礼拝説教
【詩編111編1~10節】
【使徒言行録2章43~47節】

 十字架刑の三日後、復活された主イエスは40日間に亘って弟子たちと共におられました。パウロが記した文章によれば、主は「ケファに現れ、その後十二人に現れ、次いで五百人以上のもの兄弟たちに同時に現れました。次いで、ヤコブに現れ、その後全ての使徒に現れ、最後に月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」とあります。復活された主は、40日に亘り、弟子達を励まし、神を愛し、人を愛することを宣べ伝えたと思います。

 それから40日後に、弟子たちが見守る中で、主は天に昇られていきました。今、私達は礼拝で唱えることをしていませんが、使徒信条には「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり」とあります。主と共におられる方となられた。

 昇天された日は、2021年の今年の暦によれば、先週の13日の木曜日です。それから十日後の50日目がペンテコステ、神の聖霊が弟子たちの一人ひとりに降る出来事となります。弟子たちは聖霊によって神の力を受け、勇気を持って、主イエスの福音を全世界に語り始めた出来事です。ペンテコステ礼拝は来週の23日となりますので、共々に心を込めて感謝の礼拝を献げていきたいと願います。
 
 今日はペンテコステの前の週ですが、聖霊降臨の場面を通り越して、使徒言行録2章の箇所を読みました。「信者の生活」と記されている御言葉です。

 主の聖霊が降った後、弟子のペトロが力を得て、立ち上がり主イエスの十字架と復活について人々の心に訴えかける見事な説教、証しを語り告げます。その御言葉に感銘した人々3000人が仲間に加わりました。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心で、更に今日読みました箇所では、信者たちは皆一つになって、全ての物を共有にし、財産や持ち物を売り、それぞれ必要に応じて、皆がそれを分かち合った様子が記されています。最初期のキリスト教徒の生活の姿が記されています。その様子は民衆全体から好意を寄せられていた、ともありますから、彼らは真に幸いを過ごしていたでありましょう。

 けれどまた、2章43節には不思議な事に「すべての人に恐れが生じた」とあります。なぜ恐れたのか、「使徒たちによって多くの不思議な業と印が行われていた」ともありますから、不思議な業を見て、恐れを感じ、恐怖に感じたのかもしれません。

 けれど恐怖を感じる心で、人々が心を一つにして、すべての物を共有にして、喜びと真心をもって一緒に食事をするようなことが出来たであろうか。少なくとも、人々は恐れを感じて、恐れの奴隷となって止む無く財産を出したとか、嫌だったけれど共同生活をしたというわけではないでしょう。

 東京神学大学の学長をされていた近藤勝彦先生の著書の中にこの場面に触れてこう記されてありました。「大事なことは、あのペンテコステの教会、そして礼拝の後の信仰生活が「おそれの念」に満たされたという時、彼らは生きる力を奪われたのではなく、いよいよ生き生きと生きたということです。彼らは「心を一つにし」「よろこび」を持ちつつ、讃美の歌を歌いつつ、そしてさらに日々、仲間を増やしつつ、生きたのであります。」

 この説明は、恐れによっても、尚、生き生きと生きる生活があることを示しています。恐れに支配され委縮して生きるのではなく、神を畏れ敬い、更に、喜びと真心をもって生きる生き方があるのだということでしょう。

 私たちは、新型コロナウィルスの感染に恐れを感じつつ、今日常を過ごしています。大阪では、既に医療体制が追い付いていかない程の現実が言われていて、東京、首都圏である私達の地域も、もしかしたらそのような状況となる可能性十分にあると思います。人の命が脅かされる状況がまだまだ続いています。恐れの中で生活していると言えるでしょう。
恐れに駆られると、人は不安と不満が溜まり、怒りとなり、それが外側に出る人は攻撃的になります。毎日のように政府が非難、批判を浴びていますけれど、国民のことを本当に心配してくれているのかどうか、信用できないとさえ思う人々の怒りが爆発しているかのようです。

 また一方では、怒りや不安が内側にこもるタイプの人は、心身に影響が出て、やる気を失い、鬱状態となったり、外に出るのが怖いと感じたりしている人々も多いと言われます。経済的な行き詰まりを感じている方々、大学に入学したのは良いけれど、通学さえ出来ずに学生もまだまだ多いようです。

 更には、このような時代、社会の治安が良くない方向に向くのは確実で、犯罪の多発や環境の悪化、多くの心配、不安、恐れが私達を取り巻いていると言えるでしょう。そして、このような時代に、改めて問われてくるのは信仰を持つ者としての生き方、心の持ち方ではないでしょうか。

 今日は詩編111編を読みました。この詩編は、礼拝において、主なる神に対して感謝をささげ、神の御業の大きさを讃え、神の恵みを受ける喜びが綴られている、ストレートに感謝と喜びが告げられている詩編です。
神様がイスラエルの歴史に共におられた、自分達と共におられた、そして自分と共におられた、その喜びをストレートに表している簡潔な詩編です。

 特徴的なのは「畏れ」という言葉が三度使用されています。5節、9節、10節、特に10節の「主を畏れることは知恵の初め」とあります。この御言葉は箴言の1章7節にも記されていて、良く知られている聖書の御言葉の一つです。けれど、主を畏れるとはどういうことでしょうか。
 
 先ほどの近藤先生は、「神をまことに神として知り、まことの神が共におられる臨場感に生きることだ」と伝えています。「神我らと共におられる」これが私達の信仰の一つの表し方でしょう。どんな時にも主なる神が共におられる、けれど、この言葉は平和であればあるほど、その意味が薄れ、また日常生活を続ける中で、忘れ去られていくのではないでしょうか。神が自分と共におられるという臨場感が薄れていくのです。

 神を畏れる知恵の初め、それは神が我と共に、我が神と共に、そのような臨場感を忘れない信仰に生きることだと伝えているのだと思います。
 
 今の時代、コロナ禍の中で、わたしたちは本当に大変です。けれど、その中でより明らかになってきたことがあって、一つは人の知恵には限界があるということです。いざという時には、頼りになると思っていた政治家がそうでもないと分かって来る。私は日本の医学こそ世界最高峰だろうと思って来ましたけれど、なぜか国産ワクチンがどのような段階なのか、話題にも出ませんから、完成はまだまだなのでしょう。医者は本当に頑張っていると思いますけれど、より明らかになっているのは、人としての限界があるということです。

 今改めて思わされているのは、人の命は思ったよりもずっと儚く、脆いものだと思う。コロナの脅威によって、政治も、医学も、経済も、教育も、人の命も、私達が思っていたよりずっと弱く、脆いものでありました。

 だから、儚く、脆い命を自分達がどう生きていけば良いのか、今、この時代に真剣に問われているのではないでしょうか。この混沌とした社会を、混迷を極めている世界を、より良く生きたいと多くの人々が切に願っているはずです。
聖書を読むにしても、平和な時代は、教養とか文化の一つとしてとか、まさに人の知識として、といったふうに読まれてきた、そういう一面があったと思います。
 
 けれど、今は違うと思う。この困難の時代において、私達が命を生きていくために、生き抜いていくための本物を人々は求めていると思います。
 自分の命をどう生き抜いていくのか、その答えは神の知恵としての御言葉にこそあると私は信じます。

 主を畏れること。この時代、この空間に生かされている命を与えてくださった、命の主である方に感謝し、神を賛美し、祝福を受けて、今日を精一杯生きていくことではないでしょうか。

 恐れ戦きながら、人の限界に失望するのではなく、人の限界を遥かに超えて進まれる方に希望をつなぎ、この方こそ、私達を良い人生だったと思える生涯へと導いてくださる方として受け入れ、どんな時も神を畏れ、それ故に神と人とを愛して生きて参りましょう。

 お祈りします。

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