日本キリスト教団 大塚平安教会  

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まっすぐに、あなたの道を

2019-05-13 15:28:02 | 礼拝説教
【詩編5編2~13節】
【テサロニケの信徒への手紙一 5章12~15節】


 旧約聖書の詩編は150の詩編から成り立ちます。その中には様々な種類の詩編が記されています。主なる神に対して賛美する詩、神を信頼し喜びをもってうたいあげている詩も多くみられます。しかし、同時に「嘆きの詩」とも呼ばれる詩編もあります。
 今日の詩編5編もまた、嘆きの詩の中に分類されるようです。先週の礼拝で読まれましたのは5編の前半でした。「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。わたしの王、わたしの神よ 助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。」つぶやきとは呻きとも訳されますと申し上げましたが、非常に切実な祈りを捧げている姿が連想されます。

 「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、」と「私の王、私の神」とありますから、この詩は個人的な問題を抱えている者の詩かもしれません。苦悩の中にある祈りの詩であろうと考えられます。しかし、個人的なものとしても、信仰を持つ者の祈りは、同時に信仰共同体の祈りでもあるはずです。 

 「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむと」聖書にありますように、この詩を記した者の苦しみは、私たちの苦しみでもあると言えるでしょう。
 
 では、どのような苦しみについて祈ったのでしょうか。詩編の著者は9節でこう記しました。「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください。」この「まっすぐに、あなたの道を」この御言葉を今日の説教題としました。著者の苦しみとは一体何であるのか?

 10節にこう記されます。「彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵」

 この詩編の著者であり、主なる神に祈り、求めている者を取り囲むようにして、神に逆らって歩む多くの人が多くいて、あなたはそのようにして神と繋がり、祈っているようだけど、祈ったところで上手くいく訳でもない、礼拝に出て、何か良いことが起こるわけでもない、この世の中で、祈って、熱心に礼拝に出ている人が、人生に成功するわけでもない、そのようにして告げ、しかも「滑らかな舌」上手い話しでね、「喉は開いた墓」つまり、うそを連ねて、「腹は滅びの淵」なんとかして、そんな信仰から離れた方がいいよ、と話す、誘う。そんな人々が大勢いたのであろうと考えられます。

 人は、その人が触れる者に似てくると、いつも申し上げていますが、少年院の子どもたちと話をしていました時に、この子は一体どんな悪さをしたのかと思えるほどに、皆、良い子のように感じます。でも、彼らの心配は少年院から出た後の事です。ここから出たら、昔一緒に悪さをしていた友と、また会うだろう、そうするとまた付き合わされるのではないかと心配するのです。でも、一方では、元々仲の良い友達ですからね。会いたい気持ちもあり、会ってはならないという思いもあり、そこで悩むというのです。会ってしまうと、またつい誘われて、つい悪さをしてしまうのではないかと、自分でも分かっているのです。彼らは、これまでの人生ではなく、新たに更生して「まっすぐな道を歩んで行こう」そう思い、決心しているのです。

 でも、舌が滑らかな、つまり、上手い言葉につい乗ってしまいそうになる自分がいる、そこで子どもたちは悩んでいることがよく分かります。

 この詩編を記した著者は、何か悪いことをしたわけではないと思います。むしろ、なんとかして主の道を真っすぐに歩んで行きたい。そう熱心に願っているのです。でも、その周りが、神に祈って何か良いことがあるのか、世の中は、もっと知恵を働かせて、知識を生かして、能力をつけて、それがずっと大事、良い学歴、高い収入、少しぐらいのずるがしこさを持って生きる。これが人生の幸いというものだよ、と言って誘っているように感じます。

 となると、詩編の著者の悩みは、現代に生きる私たちにとっても突き付けられている悩みであろうと思うのです。

 先週の水曜日は婦人会の聖書を読む集いを行いました。今、旧約聖書のヨエル書という箇所を呼んでいますが、その前に読んでいた箇所はホセア書という箇所でした。預言者ホセアが主なる神によって立てられた理由の一つは、イスラエルの人々が主なる神から離れていっていたからです。なぜ、離れていくのか、イスラエルの国が豊かになって来ていたからです。イスラエルが、歴史的に最も豊かな時代であったと言われるのは、ダビデ王、そして、その息子のソロモン王の時代です。紀元前900年代です。
 その後に国に後継者問題が起こり、イスラエルは二つの国に分かれて、それが200年続くことになります。けれど、その200年の中で、天候に恵まれ、作物が良く取れて、豊作の年が続き、また、戦争が起こらず、イスラエルの民が豊かになっていった時代がありました。ソロモンの時代に匹敵するほどであったと言われます。
 
 けれど、不思議なことに豊かになればなるほど、イスラエルの民は、豊作をもたらすと言われた農耕の神、バアルの神に信頼を置くようになり、バアルの祭りが行われ、作物が献げられ、ぶどう酒が飲まれ、楽しく、喜びに溢れて過ごしていたのです。
 しかし、天地創造の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルを導き、出エジプトを果たし、荒野を導いた主なる神からは、どんどん離れていくのです。人は、自分を豊かにしてくれる人、豊かにしてくれる物に、どんなにか心が奪われていくものかと思います。

 けれど、その豊かさの結果、どうなったのか、隣国のアッシリアという大きな国が、イスラエルの豊かな土地が欲しくてしょうがない、そこで戦争が起こり、イスラエルの多くの民は命を失い、多くの土地は奪われることになります。

 そうならないようにと、ホセアは一生懸命に主の御言葉を取り継ぐのですが、しかし、自分は豊かだと思っている人々の心には、その言葉は虚しい言葉となっていたのではないでしょうか。

 今、私たちの国は豊かな国なのかどうか、どの視点から見るのか、また、考えるのか、にもよると思います。一概に豊かな国とは言えないかもしれません。 

 3月に娘が学校の企画の中で、2週間オーストラリアに行って来ました。それなりに楽しい経験をして来たようですけれど、シドニーの都会で過ごしたようですが、町を歩いている時に、そこで生まれて初めて物乞いをしている人を見たというのです。町の歩道の片隅に座って、お金を恵んで下さいと頼んでいる人の姿、その姿を見て本当に驚いたと話してくれました。私自身の少ない経験であっても、欧米の大きな都市の中でも、物乞いをしている人がいるのを幾度も見かけて、私自身驚きを感じたことを思い起こしまし、娘と色々と話が出来ました。けれどそのようなことを思うと、実際に今日食べる物が無くて困っている、明日には食料が尽きてしまう、それが日本の日常だとは言えないことは確かだと思います。私たちの国は、決して貧しい国ではないと思います。

 となると、勿論、貧しい方が良いとは思いませんけれど「主よ、まっすぐにあなたの道を歩ませてください」と願う詩編の御言葉を私たちはどう受け止めるのでしょうか。
 
 今日は、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙の5章を読んで頂きました。この手紙の著者は、使徒パウロです。パウロは皆さんがご存知のように、当初、ユダヤ教の指導者として、キリスト者を迫害し、クリスチャンを捕らえては牢獄に入れることこそ神の御心と信じ、熱心にその働きをなしていた人でありました。しかし、その働きの中で、死から復活された主イエスと出会う体験を致します。ダマスコという町に向かっている途中に、突然天からの光がパウロを包み、主イエスの声が聞こえたのです。その声によってパウロは回心し、主イエス・キリストこそ私たちの真の神であり、救い主であると確信したパウロは、その後の生涯をまさに「まっすぐに 主の道」を歩み続け、諸教会に手紙を記し、世界伝道の為に、歩み続けました。このパウロの伝道活動こそが、それ以降のキリスト教の発展を支えたと言っても過言ではないと思います。
 
 パウロは様々な手紙を記していますが、しかし、どの手紙においても一貫して、記しているのは十字架と復活の主イエス・キリストです。この方こそ神の子として、父なる神の思いを受け止め、私たちの為に、私たちの罪の為に、すなわち、私たちが豊かになるとしても、貧しくなるとしても、いつのまにか主なる神から離れてしまい、人の思いを優先させ、勝った、負けたと、この世の価値観で判断してしまう私たちの弱さ、その罪、それらの全てを負い、負うだけでなく、私たちを赦し、十字架で死に、しかし、復活され、この月足らずで生まれたような自分にさえ復活の主は姿を示して下さった。この方こそ、真の神であると告げ伝える生涯を送りました。

 この方の為に、その生涯において「まっすぐに 主の道を」歩んだパウロでありました。今日読まれましたテサロニケの5章の箇所にはこうあります。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者を励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」こう記しました。

皆さん、この御言葉こそ、私たちが「主の道を、まっすぐに」歩むために必要な心構えであると言っているように私は思うのです。

 「怠けている者たちを戒める。」怠けているというギリシャ語の意味は、「道から外れてしまっている」という意味だと言われます。例えば兵隊がまっすぐに行進して進んでいる、その道筋から外れてしまうことのようです。
自分がね、こんな人生を生きていこう、この学校に入って頑張ろう、この仕事をしていこう、特にこの今の時期、4月、新しい歩みを始める方々も沢山おられます、でも、いつのまにか気が付いてみるとまっすぐに歩んでいるつもりが右にそれ、左にそれていくことがあるものです。

 その時にね、「戒めなさい」とあります。戒めるというのは何か叱るとかね、何やっているんだ、もっとしっかりしろ、といった、そんな意味もあるでしょうけれど、今どこにいるのか分かっているのかい、迷子になっているよ。こっちが正しい道だよと、困っている人に安心を与え、元に戻して、また生き生きとして下さるという意味のようです。それが戒めるという言葉です。何度も何度も、やり直すことが出来る。辛いことがあり道を外してしまう。しかし、主から戒めをいただいて、元気を出してまっすぐな道に戻り、祝福をしっかり歩んで生きていけるということです。

 更に「気落ちしている者を励ましなさい」とあります。これが、主の道をまっすぐに歩む道なのです。気落ちしているとは、気持ちが小さくなっているという意味です。私たちの人生には色々なことが起こります。

 あんなに元気で健康だったのにとか、あんなに上手くいっていた仕事だったのに、いつのまにか借金だらけとなっていたなんて、とかね、絶対に合格だと言われていたのに、上手く行かなった。結婚出来ると思っていたのにとかね、人生の中にあって、心配ない、大丈夫だと思っていたことが一瞬にして取り除かれるようなことがあるのです。そうするとすっかり気落ちして、小さくなるのです。小さくなるというか、それまで着飾り、羽織っていたものが取られて、裸にされてしまったようなものです。

 そうすると何が残るかというと裸の自分、自分そのものしか残らない。そんな時に、なんと心細いと思うことでしょう。中々私たちは裸で生まれたのだから、裸で帰ろう、とは思えないものです。しかもしれが、他人ではなく、自分のこととなると、どんなに心細く感じることでしょう。

 しかし、そんな時にこそ、励まして下さる方がおられる。励ますとは、傍らにいつも伴って下さるという意味です。自分の人生の傍らに、妻がいたはずなのに、夫がいたはずなのに、家族が、仲間が、仕事が、お金があったはずなのに、でも、いつも、どんな時も共にいて下さるのは主なる神、この方こそが人生の、初めから、そしてその地上の終わりに至るまで、この方が伴ってくださり、励まして下さるというのです。

 そのことを知ると、また、更に主の道をしっかりと迷わず生きていくことが出来る。そうだな、神様が伴って下さるから安心だと、また聖霊の力を頂いて、一歩一歩歩みだすことが出来るのです。

 皆さん、教会は、神様と出会うところです。神様と出会うとどうなるのか、あの人、いつの間にか変わった。昔はちょっとのことで、怒ったり、愚痴を言っていたりしたのに、今は言わなくなった。それどころか否定的な生き方が、なんだか前向きになったねぇ。それはいつも、神様がその人に伴って下さり、神様が伴って下さっていると信じている人々に囲まれているからなのです。

 詩編の著者は、神を信じていない人々に囲まれて、神なんかいない、そんなの信じても良いことない、そう言われていたようです。だから、「主よ、あなたの道をまっすぐに」と一生懸命に祈ったのです。

 でも、主イエス・キリストを信じる私たちは、むしろ、神様を信じてない人々に対して、いや~、神様を信じているあなたを見ると、本当に力付けられるな、励まされるな~、そう周りの人の方が影響を受けるようにして、私たちは生きていきたいものだと思います。

 この新しい年度も、主の道をまっすぐに、私たちは生きて参りましょう。

 お祈りします。
 
 
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きいてきいて
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