日本キリスト教団 大塚平安教会 

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2021年2月7日(日)ビデオ礼拝 説教題「「人の歴史の中で」

2021-02-07 09:30:00 | 礼拝説教
2021年2月7日(日)【降誕節第7主日 いやすキリスト】

黙 祷

招 詞 ヘブライ人への手紙1章2b~3節
 「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」

讃 美 452番「神は私を救い出された」 菊池典子姉

神は私を救い出された



聖 書 旧約聖書96編1~13節

1 新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。2 主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。3 国々に主の栄光を語り伝えよ 諸国の民にその驚くべき御業を。4 大いなる主、大いに賛美される主 神々を超えて、最も畏るべき方。5 諸国の民の神々はすべてむなしい。主は天を造られ6 御前には栄光と輝きがあり 聖所には力と光輝がある。

7 諸国の民よ、こぞって主に帰せよ 栄光と力を主に帰せよ。8 御名の栄光を主に帰せよ。供え物を携えて神の庭に入り9 聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。全地よ、御前におののけ。10 国々にふれて言え、主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。

11 天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ 海とそこに満ちるものよ、とどろけ12 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え13 主を迎えて。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き 真実をもって諸国の民を裁かれる。

新約聖書 マタイによる福音書18章18~20節

18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

説 教 「人の歴史の中で」



祈 祷

黙 祷

以下原稿になります。
「人の歴史の中で」

「人の歴史の中で」

 皆さん、おはようございます。新型コロナウィスルの感染予防の観点から、2月7日、今日までの緊急事態宣言でしたが、現状としては解除に至らないということで、更にもう一か月延長となりました。私たちの教会は緊急事態宣言の間は、礼拝を執り行わないで過ごしております。先日、役員会を開き再確認しましたが、もう暫く、ビデオ礼拝という形での礼拝が続くことになりました。
途中で解除された場合には、次の日曜日から会堂にて礼拝を執り行うことも確認しました。それまでの間は、もう暫く皆で耐えながら過ごして参りましょう。

 今日は詩編の96編を読みました。「新しい歌を主に向かって歌え」という御言葉で記される詩編です。最近の説教でお気づきの方がおられるかもしれませんが、最近の説教は礼拝について話をする機会が増えています。というのも、詩編の90編を過ぎたあたりから、詩編の内容が、礼拝で主なる神を賛美する、喜びと感謝を持って主を仰ぎ、主を讃える、そういった御言葉がぐんと増えています。
この96編も、礼拝において、人々が喜びをもって賛美し、御名を讃える、といった御言葉が綴られる詩編です。

 直接、聖書を見ておられる方は気が付かれたかもしれませんが、この詩編にはタイトルがついていません。けれど、後の時代にタイトルが付けられました。それは「捕囚の後、家が建てられた時」というタイトルです。

 捕囚と言うのは、バビロン捕囚のことを指します。当時イスラエルは、強国として世界に君臨していたバビロニアとの戦争に負け、首都エルサレムは陥落し、国は壊滅的な状況となります。しかも生き残った多くの人々は捕虜として連行され、バビロンと呼ばれる地域に移住させられる、だけでなく、強制労働、奴隷のような生活を強いられたと思われます。

 先日、何かのテレビを見ておりましたら、第二次世界大戦が終わった後に、シベリヤに抑留された方々のみならず、これまであまり知られてこなかったようですが、モンゴル抑留についての番組を見ました。戦後、モンゴルの首都ウランバートルに抑留された人々、凡そ一万六千人いたそうですが、連行された人々の手によって、ウランバートルの大きな建物が建設されたそうです。勿論、強制労働によってです。生きて日本に帰って来た方々の多くも既に高齢となっています。今、存命の方でも90歳を超える年齢、そのような方の貴重なインタビューなどを聞き、また、僅かに残る映像資料などが映し出されました。その言葉とその映像は、捕虜の生活がどれほど過酷で悲惨であったかを知らしめるインパクトのあるものでした。

 抑留されている時には、食料もなく、栄養失調と寒さと、過酷な労働によって次々に人が死んでいったそうです。「次に死ぬのは自分かなと思った」という言葉が印象的でした。

 バビロンに捕囚された人々も、そのような過酷さを生きなければならなかったでしょう。その期間は少なくとも50年は続きます。50年の歳月を経て後、バビロニアを破ったペルシャの王が、イスラエルの人々に、あなたがたは自分達の故郷に帰って良いという帰還命令を出します。苦役を生き延びた人々は喜んで帰還し、荒れ果てていたエルサレムに家を建て、新たな生活をはじめ、そして主なる神に対して礼拝を献げることが出来る。その幸い、喜び、心を込めて「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ」という御言葉でもって、喜びを歌いあげている様子がよく分かります。それが詩編96編の内容です。

 後半の11節、12節には「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ 海とそこに満ちるものよ、とどろけ 野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え」と天地創造の神を崇め、心が高ぶり、人々の心が一つとなってピークを迎える、そんな様子が連想できる美しいとさえ感じる御言葉で綴られています。

 戦争に負け、捕虜となり、奴隷の扱いを受ける、なぜ、自分達はこんなにも辛い経験をしなければならないのか、捕囚されていた時、彼らは何度も振り返って考えたことでしょう。振り返りつつ、自分達の歴史を思い起こしていたのではないでしょうか。
 信仰の父と呼ばれるアブラハム、その後に続く、イサク、ヤコブ。ヤコブの12人の子ども達、また、何といっても出エジプトの出来事を思ったことでしょう。自分達の先祖が奴隷としてエジプトで苦労した、そのことを改めて考えていたのではないでしょうか。しかし指導者モーセ、その後のヨシュアによってカナンの土地へと向かった出来事。更にはサウル王、ダビデ王、ソロモン王、これらの人々の名前は、信仰の先達として、イスラエルなら誰もが知る名前であったでしょう。名前を聞けば、説明無しで、その人の人生がわかり、歩みが分かる程に馴染んだ名前であったと思います。

 そのような人々を思い起こしつつ、人々が改めて思ったことは、主なる神を信じるとはどういうことなのか、ではないでしょうか。

 神の民であったはずなのに、バビロニアとの戦いに敗れ、捕囚の民となりました。勿論、国の大きさ、戦力の違いは明らかだったでしょう。けれど人々の思いはそこではなかったと思います。
ソロモン王の後、後継者争いから国が二つに分かれてしまいます。北イスラエルと南ユダという国となる、一つの国が二つになる、それだけで、国の力が二つ割れる、それは勿論ですが、人々の信仰のあり方についても、大きな変化があったと思います。国が分かれるという意味は、これまで主なる神を信じて生きてきたイスラエルが、主なる神以外の神を受け入れるようになったという意味ではないでしょうか。

 主なる神が排除されて、他の神に信仰が移っていった、と言うよりも、主なる神を信じる人々と、それ以外の様々な神を信じる人々になっていった、国が二つになった意味は、人が二つに分かれたというよりも、もっとバラバラになっていったということではないでしょうか。
 イスラエルの人々は、神が自分達を選んでくださり、自分達は神の民であるという思いがあったでしょう。けれどいつの間にか、人が神を選び、選んだ神を自分たちの都合の良いように仕立ててしまっていた。そのように、地理的に分かれる以上に、人の心がバラバラになった状態で、戦いが出来るはずがない、自分達はなんと愚かであったかと、悔やんでいたのではないかと思うのです。

 聖書が示す「罪」とは私たち人間の存在が罪である、というわけではなく、主なる神を否定するところにあります。そのことに改めて気づいた人々の心には、自分達はどれほど「罪」を犯してきたか、イスラエルから遠く離れた苦難の地で思い起こしていたのではないでしょうか。

 そして、そのような苦難の中で、改めて人々は主なる神に帰ろう、この方の元に帰ろう。50年の歳月をかけて、人々の心は主の元に集められていったのだと私は思います。
 
 皆さん、今、私たちの教会は会堂で礼拝を行っておりません。毎週お会いしていた皆さんと共に顔を合わせて、賛美し祈りを献げられない状況です。けれど、皆さん、今、ここで私たちに問われていることは、それぞれの場にあって、過ごしながらも、体はそれぞれにバラバラでも、心は主にあって一つであるという思いだと思います。

 主イエスは「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」と教えられました。心を一つにして求めるなら、です。
 
 大切なのは、場所的に一つとなる以上に、どの場所であろうとも、主なる神、主イエスを信じる私たちが心を一つにすることだと思います。
 
 イスラエルの民は、出エジプトの後、40年荒野を彷徨いました。バビロン捕囚は50年奴隷の生活を強いられました。しかし、その時の苦労さえ、主なる神は決して無駄にはされなかったと思います。思えば、キリスト教の信仰の歴史は、苦労の連続の、その先に祝福が与えられてきた歴史です。 

 だから、私たちは、このような状況を通しても、尚、その先により一層信仰が強められ、より一層、苦難に耐えられる忍耐力と、その先にある神の宝を見つめていけるようになるはずです。もう暫く辛抱しながら、体を大切にしながら、心を一つにして感謝してこの2月も過ごして参りましょう。

 お祈りします。









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