日本キリスト教団 大塚平安教会 

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わたしを灯す光

2021-07-27 07:53:31 | 礼拝説教
【詩編119編105編】
【ヨハネによる福音書8章12~16節】

 既に2年以上前になりますが、まだ世界の誰もコロナウィルス感染など考えていなかった2019年の4月29日、湘北地区の仲間の教会が集まって「CS生徒大会」を大塚平安教会とドレーパー記念幼稚園の園庭でもって行いました。

 タイトルは「仮庵フェスティバル」。当時の記録を見ますと地区内の60人程の子ども達と「子どもの教会」の担当者とが集まりまして、四つのグループに分けて、午前には、それぞれが仮小屋を建て、祭りの絶頂期はお昼、大人がそれぞれにホットドック、豚汁、焼きそば等、を作りました。

 私と幼稚園の園長は二人で、色々なインスタントラーメンの袋を買って来て、それを全部混ぜた、「まぜまぜラーメン」を作りました。子ども達には大好評でしたが、親御さん方にはそうでもなかったかもしれません。(笑)
楽しい一時でした、この時以来、昨年も、今年も子ども達にとって何の行事も出来ない状況が続います。来年こそはなんと出来るようになって欲しいと願っております。

 なぜ、この話をしたのかというと、今日読みましたのはヨハネによる福音書の8章12節からの箇所を読みましたが、読まれた場面はエルサレムにおいて、仮庵の祭が行われていた場面だと思われるからです。

 イスラエルの三大祭り、過越しの祭、刈り入れの祭、仮庵の祭とありますが、仮庵の祭の時期は春でもなく、暑い夏でもなく、収穫の秋頃に行われます。仮庵という言葉は分かりにくいですが、仮小屋の祭と言っても良いでしょう。

 今、毎週水曜日の昼の祈祷会で、主エジプト記を共に読んでいます。イスラエルがエジプトの地に住むことになりその後400年、イスラエルはヘブライ人とも言いますが、ヘブライ人が増えすぎて、エジプトにとって恐れとなり、ついにエジプトの王、ファラオは、ヘブライ人を奴隷とし、奴隷とされた人々は日々の重労働に耐え切れず、主なる神に助けを求める叫び声をあげるのです。

 その声を聞いた主なる神は、モーセを指導者として立て、ファラオとの度重なる交渉と、エジプトに対する神の力を示しながら、ついに奴隷解放、エジプト脱出が叶います。けれどエジプトを出た人々は、具体的には荒野の中を40年かけて、自分達の故郷であるイスラエル、カナンの土地を目指して旅をしなければなりませんでした。

 旅を続けている間は、自分達の家を建てるわけにはいきません。いつでもテント暮らし、幕屋暮らし、つまり仮庵暮らし、仮小屋暮らしを続けた40年でもありました。

 しかも、荒野を進むわけですから、水も無く、食べものも無く、緑もなく、進むべき道もありません。そのような中、神が水を与え、食事を供え、そして、昼には神様が備えてくださった雲の柱が、夜には火の柱がイスラエルを先導し、導きました。その主なる神の働きを忘れないためにも、何百年と休むことなく「仮庵の祭」は続けられていました。仮庵の祭にとって、大切な印が二つあって、一つは水です。荒野の生活にとって、何よりも水の確保が大切であったでしょう。その水を主なる神がいつも備えてくださいました。ヨハネによる福音書の7章37節の箇所にはこうあります。
「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るよういなる。」
 人々が祭の最も盛大に祝っているその時、水の大切さを思う祭りにおいて、主イエス自らが、自分は人の命の根源であり、命の水であることを宣言した御言葉です。この宣言に、驚きとまどいを感じたのは周りで聞いて人々でありました。

 仮庵の祭の大切な二つ目の印、それは光でありました。

 仮庵の祭の日の夕方、つまり一日が終わり、暗くなってくる時に、エルサレムの神殿に大きな松明と言いますか、大きな燭台が備えられていまして、その燭台に夕方になると梯子がかけられて、若い祭司が梯子を登り、そこに灯が灯されたそうです。
その灯は、神殿のかなり高いところで灯されたようで、エルサレム全体から、灯が良く見えたと言われています。
 
 金曜日の夜に、東京オリンピックの開会式がありまして、テニスの大坂なおみさんが聖火台に灯を点火しました。オリンピックの間中、その灯は燃やされ続けるものと思いますが、ちょうどそのようにして仮庵の祭で灯される灯は、昼は雲の柱、夜は火の柱として、主なる神がイスラエルを導いたことを忘れないためにも、灯された輝きであったと思います。

 恐らくその灯の見つめながら、あるいはその灯の下において、主イエスは宣言されたのではないでしょうか。先ほど読みましたヨハネによる福音書8章12節「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ』
 この場面においても、主イエス自らが「わたしは世の光である」と告げたのです。

 ここで主が「わたしは世の光である」と告げられた意味は大きいと思います。日本人の多くが宗教という言葉を聞いて連想するのは何か、と言えば、恐らく死後の世界ではないでしょうか。この世には辛い事多く、思うように生きられない事多く、涙する事多く、どこに光があるのか、どこに向いて歩けばよいのかさえ分からない。けれど、このことを信じると死後の世界は平安が与えられ、天国に行くことが出来る、だから信じなさい、などと言われたりする。あるいは死んだじいちゃんが、死んだご先祖様が守ってくれていると教わったりする。私も子供の頃にそんな風に教わりました。宗教というと、何か、生きているこの世よりも、死後の世界観が強いように感じているかもしれません。

 けれど、主イエスは、この世は辛いこと多く、でも死後の世界は、私が光となるよとか、天国の光の中を歩けるようになるととおっしゃったわけではありません。

 「わたしは世の光である」。わたしはこの世の光だと話されたのです。聖書が伝えるこの世とは、神の世と反対の世界ですよ、と話すことがありますが、でも、そのような世の中にあっても、主イエスは「わたしは世の光である」と話され、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かない」と告げられるのです。

 今の世は、100年に一度あるかないか、数百年に一度あるかないか、と思わる程にコロナウィルス感染のために、随分暗い世の中になってしまったと言えるかもしれません。東京オリンピックも無観客の試合となりました。盛り上がりに欠けるとも言われます。最近、割とネットで経済欄を読むようにしていますが、日本の全体として経済が回っていない状況であることは間違いありません。特に、飲食業、観光業といった業種は壊滅的だと言われますし、子ども達も夏休みになったからと言って、家族で旅行という気持ちにも中々なれないものです。何よりも今の政府が、日本の不安の原因だという言葉もありました。不安は不満となり、不満は怒りとなり、争いとなります。でも、このような時代だから、このよう時だから、とこの世に対して不満や怒りをぶつけるとしても解決に導かれるとも思えません。

 先ほど、宗教という言葉を用いましたけれど、主イエスは、聖書にあっても、世の宗教家が話しそうなことを話しているわけでもありません。人には嘘をつかないとか、泥棒してはならないとか、そんなことするとバチがあたるといった道徳的な教えを話しているわけでもありません。
 
 主イエスは「私は世の光である」と話しておられるのです。先ほど詩編119編105節だけを読みました。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」神の御言葉は道の光です。主イエスは、一方においては、イスラエルの民を導いた「火の柱」のように高く掲げられる光として。けれど、また一方においては、道の光、この道の光は、自分の足元を灯し続ける光だと言われますけれど、一方では高く掲げられ、一方では足もとを照らして、私達が暗闇の中を歩まないように、神の光を見失わないようにと私達の人生と共に歩んで下さっているのです。

 私たちは、この世の闇を見つめ、闇に飲み込まれるのでなく、闇の中にあっても、光として輝き続けておられる方を見つめて生きていきましょう。この方は、「言葉が肉となって、わたしたちの間に宿られた方」であります。肉とは概念ではなく、この世を共に生きてくださっているという意味です。

 この世にあって、この方を見失うことなく、神の光を見つめ続け、共々に歩んで参りましょう。

 お祈りします。

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