日本キリスト教団 大塚平安教会 

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霊から生まれていこう

2022-06-26 14:23:49 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書3章1~15節】

 読んでいただきました、ヨハネによる福音書3章、ニコデモという人が登場します。ニコデモはファリサイ派に属する人でありました。ファリサイ派は、聖書に度々登場する名前ですが、ユダヤ教の律法を大切にする人々の集まりで、ユダヤ人の救いを願う熱心な信仰者であり、民衆からみれば信仰の模範となる人たちであったと言われます。

 更に、ニコデモはユダヤ人達の議員でした。ユダヤ教社会の国会議員です。サンヘドリン「70人議会」と呼ばれていました。当時のユダヤ教世界は政教一致ですから、大祭司が議長となり、他に70人が祭司、長老、学者と呼ばれる人々の中から選ばれて「70人議会」を構成していたようです。ニコデモはユダヤ世界の最高決定機関の議員でもありました。

 ですからニコデモはユダヤ社会にあっても良く知られている人であったと思われます。ある学者は、「ニコデモは、ユダ人の中では、最高峰のレベルであったと」説明しました。一説には神学校の校長先生であったとも言われます。神学校の校長は最低でも50歳以上だそうです。ですからニコデモは60歳になろうとするような年齢であったかもしれません。

 そのような立場であったニコデモが、主イエスのもとにやって来た。それが今日の聖書箇所となります。なぜやって来たのか、ニコデモは神の真実とは何か、神はこの世をどう考えておられるのか、と日々祈り、神に向かい、神に祈り、救いを求めメシアを求めつつ生きていたと思います。

 ヨハネ福音書の2章23節にこう記されています。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」しるしとは、癒しの業であるとか奇跡のしるしでしょう。神の国を思わせるような主イエスがなさる働きです。そのしるしによって多くの人々が主を信じたのです。
ニコデモも、そのしるしを見たのではないでしょうか。具体的にそれが何かはわかりません。けれど、主イエスのなされたしるし、救い主としてのしるし、人の業ではないと思われるしるし、をニコデモは見たのではないかと思うのです。
 
 それだけにニコデモはどうして主イエスに会いたいと願ったのではないでしょうか。そして、色々と尋ねてみたい、聞いてみたい、話し合ってみたいと思ったのです。
問いたいと思っていた一つは、「神の国」に入ることであったと思います。ニコデモはこれまで一生懸命に生きてきたと思います。一生懸命に生きなければそれなにの立場にはなれないでしょう。守らなければならない決まり事、イスラエルの律法、その全てを、しっかりと守っていた、守って来たと思っていたでしょうし、人々の模範として生きていたでしょう。けれど、なお、一つの不安があった。
それは、どんなに立派な行いをしても、祈りを献げても、神様の約束である、神の国、永遠の命に至る道を歩んでいるとは思えないという不安ではなかったかと思います。
その悩みを誰かに打ち明けたいと思っていた、相談したかった。そんな思いを巡らしている時に、主イエスがエルサレムにやってきて、多くのしるしを示されたのです。た。あるいは直接しるしを見なかったかもしれません。でも、見た人々の評判が耳に入ったのかもしれません。年齢的にも自分よりずっと年下であろうと思わる、しかも、この世的には地位も名誉も無い主イエスのもとに謙る思いをもってやってきたのではないでしょうか。

 2節に「ある夜」と記されていますが、なぜ、夜であったのか、ニコデモは人の目を気にしたのではないかと言われています。そうかもしれません。
けれど一日の働きを終え人々が安らぐ夜、自らの家で僅かなともし火の下に、神に向き直して一人祈る時、彼は議員ではなく、教師でもなく、富める者としてでもなく、神の大いなる知恵、全能なる力、その豊かさを知れば知るほどに、自らの力の無さを思い知らされる、そのような思いをもって、夜にニコデモは主イエスを訪ねたと言うことも出来るかもしれません。

 昼ではなく、夜に、一人の人間としてのニコデモが、イエス様に会いにやってきたのです。ニコデモは、イエス様にお会いして、話しかけました。
「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
「あなたこそ神様から遣わされた方です」「神様はあなたと共におられます」と、ニコデモはイエス様に話しかけました。これは「あなたこそ、私がもとめる真の光です」という信仰告白です。謙遜な思いをもって語りかけました。けれど、「あなたのなさるようなしるし」ともありますから、この時のニコデモは、主イエスをメシアとして主の癒しの業、奇跡の働きに大きく影響を受けていたということも確かでしょう。
主はこの「あなたのなさるしるしを、誰も行うことが出来ない」と言う言葉を敏感に感じ取ったかもしれません。しるしの信仰によってやってきたニコデモの思いを感じ取ったようにも思います。

 主イエスは、ニコデモに対してこう言われました。
 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
 
 ニコデモは生まれながらのファリサイ派であったかもしれません。あるいは長く続く議員の家系であったかもしれません。あるいは全く逆に、長い下積み生活の末に、つかみ取った社会的成功であったかもしれません。
聖書からは読み取れません。けれど、どちらにしても自らが輝く為に、必死に努力してこその立場であり、それ故に人々からの信頼も篤かったと思われます。しかし、時として、自らが輝いていると思っている時、人は時としてその道を誤るのかもしれません。

 ロシアがウクライナに戦争を仕掛けて、4か月となります。争いは終結せず、いつの間にか長期戦となり、そして多くの人々の命と生活が奪われ続けています。どちらにとっても悲しい戦いであることを多くの人々は知っています。けれど、ロシアの大統領は、なんとしても自分が輝きたいと思っているようです。輝き続けなければならない、その為にはどれほどの人の血が流されてもと思っているように思います。そして、戦争に限ることなく、多くの事件の中で、みな自分こそが輝いている、あるいは輝きたいと思っているような人が起こす事件が沢山あるのです。
人は、自分が輝いていると思う時、その輝きによって何にでもなれる、何でも出来ると、思ってしまう時程、とても危ういのだという事を知らなければならないのと思います。
ニコデモにはニコデモなりの輝きがありました。沢山の輝きがありました。ユダヤ人として生まれた、それだけでユダヤ人は神の子です。更にファリサイ派として生まれました。輝かしい立場です。議員として生まれました。どれほどの輝きであったでしょう。でも、その輝きを自分が輝いていると思う輝きこそ、危ういのかもしれません。
 
 更に、主イエスはこうも話されました。
「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」
 イエス様が話される「水と霊」について、多くの研究者が様々に説明しますが、そのエッセンスは洗礼と深い関係があるということです。
キリスト教は信仰者となる印として、洗礼式、バブテスマ式を持って自らの思いを表明致します。自らが主なる神と共に生きる決意を教会員の前で明らかにいたします。そこには確かに一つの決断が求められます。けれど、「生れる」という行為は、常に受け身の形で使われる言葉でもあります。

 誰も、自らの決断によって、この世に誕生した人はいません。親によって生まれるのです。私たちは命が与えられるのです。そして、私たちの真の人生は、主イエスによって、水と霊とによって、新しく主なる神を支えとした人生を歩む者としてもう一度「生れる」という自覚的な思いが、神様から求められていると言えるでありましょう。

 主イエスを求めてやってきたニコデモ、恐らくニコデモ程律法を良く知り、またよく学んでいた人はそう多くはなかったと思われます。けれど、それでも今日読みました聖書箇所においては、主イエスが言われた御言葉「新しく生まれる」「水と霊によって生まれる」という御言葉についてニコデモはなるほど、よく分かりましたとはならなかったようです。
 
 でも、ニコデモの謙遜は分からないから、だから、この人はダメだとか、もう止めたというところでは終わりませんでした。ニコデモが次に登場する箇所はヨハネによる福音書の7章です。そこでは主イエスに対してユダヤ人の多くの指導者が、怒りを持って話し合っている場面が記されています。その中でニコデモはただ一人、主イエスを守り、律法によれば、本人から事情を聴いて、確かめた上でなければ判決をくだしてはならないとなっているではないか」と擁護する場面が記されています。
更に19章では、主イエスの十字架刑の後、アリマタヤのヨセフと共に、ニコデモが没薬と沈香を持ってきて、遺体を受け取りユダヤ人の埋葬の習慣に従い、遺体を整えて、誰もまだ葬られたことのない新しい墓に遺体を埋葬した様子が記されています。
 この時、ニコデモは、「しるしをみたから」というよりも、ニコデモ自身が「新しく生まれた信仰」でもって行動したのではないでしょうか。夜ではなく、まだ明るい中、いわば犯罪人として扱われた主イエスの遺体に対して、弟子達が既に逃げた後に、今、ここで自分ことが出来る事をなそうと決心し、信仰者としての歩みを歩みだしたのだと思われます。
私たちも、聖書を読む、聖書を学ぶ、直ぐに良く分かったとはなりません。むしろ、何度読んでも、更に混迷を深める思いをしたりします。あるいは信仰を深めたいと思う、主に愛される人生を歩みたいと願います。しかし、中々そうならない自分がいることを自覚されるばかりです。けれど、求めなさい、かならず与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる、門を叩きなさい、そうすれば、開かれるという御言葉のように、私たちは求め、探し、門を叩き続けて参りましょう。
 そして、主の栄光により、新しく生まれる信仰を生きて参りましょう。

 お祈りします。

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