日本キリスト教団 大塚平安教会 

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収穫の主に願う

2017-08-15 10:26:47 | 礼拝説教
【エゼキエル書34章11~23節 マタイによる福音書9章9~13節  収穫の主に願う】

週報で既にお知らせしてありますように先週の木曜日、金曜日と、教会の「子どもの教会」は、YMCA東山荘に行ってまいりました。大人9名、子ども18名の総勢27名での集いとなりまして大所帯ではありませんが、でも、むしろ充実した良い人数であったと思います。
 
 今年は、山上の説教の特に、あなたがたは幸いである。と主イエスが教えられた箇所について学びながらの二日間でありました。私はKさんと一緒に小学校の3年生、4年生のグループと一緒に分級活動を行いまして、東山荘の深い緑の草花を採取して、押し花を作って、台紙に張って、その台紙に、「幸い」についての好きな御言葉を記すという作業を行いました。小学校3年生、4年生の子どもたちは、息子のM太郎を捕まえてはいつの間にか、M太郎は「パパ」と呼ばれ、Sさんは「おねえちゃん」と呼ばれていました。M太朗がパパなんだ、じゃ、先生にはなんと呼んでくれるの?と聞きましたら、暫く考えてから、「おじいちゃん」と言われてしまいました。「え~!!!」((笑)本当にかわいい子どもたちでした。
 
 台紙に押し花を張りながら、好きな聖句を選んでいる時に、一人の子どもが「自分は『憐み深い人々は幸いである』と書きたいと思う、何か自分の心に残る」と話してかけてくれまして、でも、一体憐み深いとはどういう意味を持つのかと尋ねられました。私も、その時改めて考えまして、でも、あまりうまく答えられない思いがしました。なぜ上手く答えられないのか、これまでそんな質問をされたことが無かったからかもしれませんが、むしろ、「憐み深い人々は幸いである」という御言葉を読む時に、それはあたかもその通りであって、素直にそうだなと思ってしまうところがある。特別にどうということもない思いで読んでいたのかもしれません。ですから、今回、改めて自分でも問い直す良い機会となったかなと感じております。

 憐み深いとはどういうことですかと問われたら、皆さんはどう答えられるでしょうか。

 憐み深い、仏教でも慈悲の心が大切と教えます。サマーキャンプの開会礼拝で私は子どもたちに、参加している皆さんに、皆さん、この二日間は平和に生きていきましょう。と話しました。喧嘩をしない、怒らない、平和に生きる二日間にしたいと話しました。 
 それでも、つい夜中まで寝ないで遊んでいる子どもには、興奮しているのはわかるけれど、それでもつい叱ったり、イライラしたりする時もあるのです。そんなにいつでも憐み深い態度ばかりしておられないものだとも思わされました。けど、また、夜寝付けないから、夜遅くまで遊んでいるというのも、自分だけ良ければ良いといった、決して憐み深い態度ではないでしょう。

 憐み深いとはなんだろうか?ある説教者はこの「憐み深い」の本当の意味を言うとすれば、あえて言うならと、大分慎重な姿勢のまま、「とても宗教的な事柄」ではないかと説明しておりました。憐みとは、聖書が教える「神を愛しなさい、隣人を自分と同じように愛しなさい」の愛という言葉の内側に入る言葉であろう、けれど、だからこそ問たい「神との関わりなしに、愛が成立する場所は、いったいどこにあるのか」ということなのです。と説明します。

 私の友人の牧師で野球観戦が好きな牧師がいます。年間を通じて、球場に足を運んで、野球観戦しています。確かヤクルトを応援していたと思う。あるいは映画を見るのが大好きだという牧師もいます。一人で山に登りに行く牧師もいます。私は、野球も映画も山登りも、わざわざ時間を割いて行こうとは思いません。内心、良く行くものだと思ったり、そんな暇な時間があるなんてと思ったり、時には批判的な思いを起こしたりするのですが、でも、それでは私が時間のある時は何をしているのか、どんな良いことをして過ごしているのかと考えてみますと、案外一日中テレビを見ていたりするのです。
ボーっと見ていたりする時があるのです。昼ごはんを食べて、昼の番組を見た後、そのままミヤネ屋まで見ることがある。自分の人生とは何の関係もない、芸能人が不倫したの、くっついたの、別れたのと言う番組です。ただボーっとして観ているのです。そして、見終わった後に、なんて無駄な時間を過ごしたのだろうと家内に語り掛けたりします。

 そして改めて思うのです。野球を観に行くのも、映画を観に行くのも、山に登るのも、テレビを観のも、恐らく人と出会わないためにしているのではないだろうか。
 何も牧師に限ったことではありません。私たちの生活は「人との出会い」によって生活が成り立っていると言えると思います。けれど私たちは人と出会うことが、必ずしも、幸いなこと、嬉しいこと、喜ばしいことばかりではないことを知っています。むしろ、若かろうと、年配になっても、人との出会いによって、傷つくこともあるし、傷つけることもある、怒ることもありますし、気に入らないと思うことはしょっちゅうなのです。

 だから、それなら出会わない方がまだましだと思ってしまっているところがあるのではないかと思います。特に近頃の若者は、結婚しないなどと言われますが、傷つくことが怖いかのように、あえて出会わないようにしているのかもしれない、そんなことも思わされます。

 なぜ、憐れむという言葉が極めて宗教的なのか、それは神と出会い、人と出会うことによってこそ、「憐れみ」という言葉の本当の意味が表されるからではないでしょうか。
 
 改めて本日、読んで頂いたマタイによる福音書の9章35節、36節を読んでみます。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」
 
 これらの御言葉は、主イエスの福音宣教の実際が示されている御言葉です。すなわち、主イエスの働きは、律法の書を読んで研究されたとか、学会で発表されたとか、学位を取られたということではなく、主の福音宣教は人と出会い、出会った人を愛することでありました。出会ったその場で相手と言葉を交わし、交わり、愛されて、憐れまれることでありました。しかも、この「深く憐れまれた」という御言葉は、聞かれたことがあると思いますけれど、「内臓がよじれるほどの痛みを感じられた」という言葉であると説明されます。

 毎年行われるサマーキャンプの大きなテーマは「東山荘で主イエスに出会おう」というタイトルでした。いつもは限られた30分の礼拝と、30分の分級という時間で出会っていた皆が、二日間に亘って、同じ場所で、生活を共にして、同じ食事を頂き、お風呂に一緒に入って、寝て、御言葉に触れて、そしてそこで深い出会いを経験することが出来る。参加された担当者の皆さんは、疲れを感じ、緊張が強いられ、自分だけの時間を殆ど取れない程であったと思いますけれど、けれどそれでもやっぱり大切な時間であり、大きな喜びであったかたと思います。

 しかしなぜ、主イエスが人々に憐みをこれほど感じられたのか改めて読みますと。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれて」いたからだとあります。当時のイスラエルの指導者と呼ばれた人々が、出会うことを蔑ろにしていたことを思わされます。出会う必要も無いと思っていたのかもしれません。

 先ほど、旧約聖書のエゼキエル書34章を読んで頂きました。11節から読んで頂きましたが、そこにはこうあります。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。 牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。」どうして主自らがこのような言葉をエゼキエルに語られたのか、イスラエルの指導者がその役割を果たしていなかったからです。
 エゼキエル書は、イスラエルが紀元前500年代に、バビロンという国との戦いに負けて国がすでに崩壊状態にありました。そのような崩壊状態の中で、イスラエルの牧者に対して、「あなたがたは果たすべきことを果たしていない」と語りなさいと主なる神がエゼキエルに告げるのです。エゼキエルも大変だったと思います。
 
 エゼキエルとイエス様の時代は、その与えられている状況が違うとはいえ、群衆が弱っていたということはどちらも同じであると言えるでしょう。そしてそのことは、例えば現代の私たちの状況についても同じような事が言えるのかもしれません。今、東アジアの国々の間で、とりわけ、北朝鮮と、韓国、日本、アメリカの間で主に軍事力でもって駆け引きが行われています。北朝鮮から今にもミサイルが飛んでくるような事態であることが報道されています。そのような緊張が長く続いています。もしかしたら私たちの国は、戦後70年以上の歴史の中で、今が一番危機的な時間を過ごしているのかもしれないと思います。
 どこかの国が下手な一手を打ってしまったら、そこから計り知れない争い事へと展開するであろう危機を過ごしていると言えるかもしれません。そして、そうならないようにと私たちは本当に祈らなければなりません。しかし、更にそのような危険な状況を助長するのは、「ファースト」という言葉ではないかと私は思います。トランプ大統領は「アメリカファースト」という言葉を使用して大統領に選ばれました。小池都知事も「東京 ファースト」という言葉で当選しました。日本ファーストの会という政党が出来たとも聞きました。更に、それぞれの国がそれぞれに、中国ファーストと叫び、北朝鮮ファーストと訴え、日本ファーストと主張し、アメリカファーストを宣言する中で、明らかに忘れ去られていくのは、出会うことの大切さではないですか。出会わない、出会おうとしないところに争いの危機があるのではないでしょうか。

 何も社会情勢だけでもありません。現代の教会もまた、「深い憐れみ」をこの世に発信し続けているのかが問われていると思います。
私たちの教会においても、何よりも教会において、その群れを牧する牧師が、「深い憐れみ」を持って良い導き手として働いているのかどうか、牧師を支える役員がその「憐れみをもって」神に、教会に仕えているのか、役員を選出した皆さんの一人ひとりが、それぞれの祈りの中で愛を持って一人ひとりと接しているのかどうかが問われているのだと思います。けれど、そう申し上げますと、そうだその通りだ、だから牧師はなっていないとか、あの人の信仰はダメだと裁きの場にならないように本当に気を付けなければなりません。 

 サマーキャンプで話したように、「平和に過ごす」ことが求められているのだと思います。私たちの一人ひとりが、互いにどれほどの深い憐みを持って接しているかどうかが問われているのだと思うのです。はらわたが捩るほどの愛情をもって人と人とが出会っているのかがいつも問われているのだと思うのです。

 自分は、自分の好きなことをしたいし、自分達は自分達の主張こそを通したいとばかり思うようなところでは「出会い」が起こりません。私たちは、出会う作業は決して楽しいことばかりではないことを良く知っています。時には苦痛であったり、大変であったり、誤解を受けたり、批判されたりするのです。だから、極めて宗教的という言葉が示されるのでしょう。出会うということが、究極的には人間だけでは出来ないのです。主イエスはそのことを私たちに知らせるためにも、こう言われたのではないでしょうか。「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」

 収穫とは羊の群れが出会うことです。収穫は多いと主イエスは言われます。もっと、もっと主イエスの下に人々は集められるであろう。すなわち出会いが備えられるであろうということでしょう。そこで、人は真の主を見出すであろう。私たちの主なる神を知るであろうと主イエスは話されるのです。
けれど、その出会いという収穫を得る為には「働き手」が必要です。もっと、もっと多くの働き手を主イエスは求めておられます。そして、その働き手を送って下さるようにと、収穫の主に願いなさい。」と教えられました。

 そのようにして祈りながら主イエスは十二人の弟子達を選ばれました。あなた方は「人と出会ってこい」と選ばれた十二人です。しかし又、この十二人だけが「収穫の為の働き手」ではないはずです。この弟子達に続いて、復活の主イエスがその姿を見せられた時以来、多くの「働き手」が登場し、キリスト教は、その働き手によって2000年間の間、衰えることをせず。今日にまで守られてまいりました。

 働き手とは必ずしも牧者であるということを意味しているわけではないでありましょう。又、志を立て、神学校に入ることだけを意味しているわけではないでしょう。むしろ、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている、この自分を見られ、深く憐れんで下さった主」によって、力づけられた、一人ひとりが、すなわち私たちの一人ひとりが、主によって「収穫の為の働き手」として立てられているのだと思います。

 主は弟子たちを招き、私たちを招いておられます。あなた方は主なる神との出会いによって喜びを受け、そしてまた、あなたも出会える、あなたも憐みを受けることが出来る。あなたも神の愛の中に留まることが出来ると伝えて参りたいと思うものであります。
                                                              お祈りします。


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