日本キリスト教団 大塚平安教会 

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助けはどこから来るのか

2021-08-09 10:21:57 | 礼拝説教
2021年8月8日(日)
大塚平安教会主日礼拝

聖書箇所 詩編121編1~8節 ヨハネによる福音書15章16~17節

助けはどこから来るのか 菊池丈博牧師



以下原稿です。
詩編121編1~8節
ヨハネによる福音書15章16~17節
「助けはどこから来るのか」

 先週詩編120編を読み、今週は121編となりました。120編に続きまして、121編もタイトルが「都に上る歌」とあります。イスラエルの何か特別な祭の折であったかもしれません。エルサレムの神の神殿を目指して、人々が巡礼の旅をする、そういう習慣があったものと思われます。
 神の神殿を目指して旅をスタートする、一人でというより、恐らく数人での旅であったと思います。数人で行きますと、困った時に互いに助け合い、支え合うことが出来ますから、心強い思いがするでしょう。共にこれから進む道を見つめつつ、目を上にあげると、遥か向こうに大きな山々が聳え立っている。
 
 あの山の向こうには目指す所のエルサレムがあるなと思いながら、どうぞ神様、この巡礼の旅をお守りください、あなたこそがわたしの助け、遥かに広い空も、あの高い山も造られたのは主なる神、あなたこそが私の助けと祈るのが1節、2節。3節からは、恐らく一緒の仲間に対して、神様、どうぞ仲間の一人ひとりを見守って下さい、支えてください、と祈り願っている、というスタイルで記されています。祈りの中で、心を整えて巡礼の旅をスタートしたと思われます。

 我が家で一緒に住んでいる長男が大学生の時に、スペインのサンチャゴ巡礼の旅をしました。大学2年の終わりの春、3年の終わりの春と2年かけて、数百キロを歩きました。良い体験をしたと思いますが、写真家としても知られる桃井和馬先生が責任者として、学生と一緒に歩き続けられました。フランス側からスペインに向かってスタートするわけですが、国境沿いにピレネー山脈があります。
 山登りではありませんので出来るだけ低いところを通るようですが、大分大変だった、寒くて死にそうになったとも聞きました。スタートしてすぐが、凄く大変だったとも聞きました。
 でも、もっと大変だったことがあって、仲間との関係だったそうです。

 巡礼の旅と聞きますと、どこかロマンがあると思ったりもしますが、実際はひたすら歩くだけですし、毎日の目的地は、30キロ先、時には40キロ先の町の宿で、一日かけてそこまでたどり着かなければなりません。ラグビーをやって屈強の強さを持っていた友が泣き言を言ったり、次々と風邪を引いたり、体調を崩したりしたそうです。更に朝は一緒にスタートしますけれど、長い道のりを一緒に歩くわけでもありません。自分のペースを守りながら、自分の速さで進んでいく訳ですから、スタートは一緒でも、結局は一人ひとりの距離が遠く離れてしまうそうです。
 そうなると、最初は互いに助け合おう、支え合おうと思いながら始まったとしても、皆が、自分のことで精一杯となって、楽しいおつきあいどころではなくなり、どんどん互いの仲が悪くなるのだそうです。
 
 それが一番辛いことであったと聞きました。桃井先生も心配して、宿に着いた後に、グループを半分半分にして、二グループに分けて、夕食作りコンテストをしたそうです。二つのグループが相談して、料理を作って、出来た食事を一緒に宿泊している他の巡礼のグループに試食してもらい、どっちが美味しいかを決めて、楽しんだりしたそうです。一緒に食事を作るには協力しあわなければなりませんし、会話もしなければなりません。そうやって仲間意識を高め合う、でも、苦肉の策であったとも聞きました。

 一緒に旅をする。言葉だけ聞くと何かロマンがあるなと思いますけれど、車や電車に乗るわけでもなく、ガイドさんがいるわけでもなく、駅弁があるわけでもなく、毎日自分の重い荷物をしょって、歩くだけですから、現実は大分辛かったろうと思います。ましてや、聖書の時代、巡礼の旅に出る、その旅の先々で、何が起こるか予想もつかない、具合が悪くなっても薬があるわけでもなく、時には野宿であったかもしれません。毎日が危険と隣り合わせという感覚ではなかったでしょうか。
そのような状況にあって、目を上げて、山々を仰ぎ、神様、天と地を造られた創造主なる主なる神よ、どうぞ、この私を助けてくださいと祈る祈りは、どんなにか真剣であり、必死であったかと思うのです。

 この詩編121編において、特徴的なのは、「見守る」という言葉が6回記されています。昼も夜も見守って下さい。災いを遠ざけ、魂を支えてくださいと祈っています。5節に「主はあなたを見守る方」とあります。英語で読みますと「Keeper」とありました。今日で、オリンピックも最終日ですが、私はサッカーのゴールキーパーを思いました。ボールが入らないように、最後の砦としてのキーパー、チーム全体としても要であり、守りの中心です。そのようにして私の人生を支え、守ってくださいと願っているのだと思います。

 巡礼の旅は、私達の人生の歩みに似ているとも言われます。私達が子どもの頃のキーパーは、何といっても自分の両親です。父親がいて、母親がいて、二人がいて、どんな時も自分を守り、支えていている。それはあまりのも当たり前のことであって、子どもは親に対する疑いを持つことさえありません。親に対する100%の信頼を持って、子どもは成長する、それこそ健やかな成長へと導かれる大切なところでしょう。
けれど、確かな成長をしつつ、いよいよ社会に出ることになる、社会、この世は、自分の人生を見守ってくれるわけではありません。むしろ、社会は人生の荒波であり、時には壁であり、時には敵でもあります。昔のことわざに「男は敷居を跨げば七人の敵あり」とあります。「女三界に家無し」という言葉もあるようですが、どちらにしても、人の世は、安心して過ごせる場所は無いという意味のようです。
ですから、男も女も互いに安心して過ごせる場所として、互いが互いを求め、互いが助け合う存在としての一人がいないかと求めるのでしょう。出会いがあり、互いが互いのkeeperとなれるような家庭を築いていこうとするのではないでしょうか。

 結婚、家庭、ここにこそ最も自分が安心できる場所がある、はずだと思って結婚するわけですが、家庭はいつの間にか、この世よりも大変な修羅場となる場合もあると(笑)幼稚園の「聖書に親しむ会」に集まって下さる方々の話を聞いていると思う時もあります。(笑)

 勿論、修羅場ではない家庭のほうがずっと多いと思いわけですけれど、それでもいつの間にか自分も年を重ね、連れ合いも同じように年を重ね、健康面においても、生活においても、互いが互いのkeeperとなりきれない状況になることもありますし、思いがけない状況はいつでもやってくるのです。
 
今、私たちはコロナ禍の中にあって、自分達が思う通りに動かないとは、まさにこのような状況だと誰もが思っています。総理大臣を始め、政府の責任ある立場のある方々はどんなにかそう思っていることでしょう。何をやっても、責められ批判されてしまう、こんなはずではなかったと思っていることでしょう。けれど何があるとしても、最終的には、また、究極的には 誰であろうと、人は人を守り切れることは無いのだと思います。誰もが守ってあげたい、愛してあげたいと思うとしても、守り切れるものではない。人としての限界があると思わされます。

 わたしの助けはどこから来るのか、人生という巡礼の旅に生きる私達の本当の助け主は、天地を造られた主なる神、主イエス・キリストにこそある。それこそが聖書が一貫して伝えようとしている神の福音の正体であろうと思います。
主イエスは、神の子でありながら、人となられ、人となられただけでなく、弟子達に対して、そして、わたしたちに対して「わたしがあなたがたを選んだ」と告げてくださいました。わたしたちの人生の子どもの時も、社会に出た後も、結婚しても、病気の時も、苦悩の時も、絶望しそうになっても、尚、私があなたを選んだ、だから、いつも見守って下さる方としてこの方がおられるのです。

 この方こそが私たちの助け主です。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」と主イエスは話してくださいました。この方にこそつながって生きていきましょう。この方につながって、隣人と共に生きていきましょう。この方につながって、そして互いに励まし合って、力付け合って過ごして参りましょう。この8月、緊急事態宣言の中にあっても、尚、希望をもって過ごして参りましょう。
お祈りします。




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