日本キリスト教団 大塚平安教会 

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私の嘆きを数えてくださる神

2020-05-03 09:30:00 | 礼拝説教
2020年5月3日(日) 復活節第4主日 (弟子への委託)

黙 祷
 
招 詞 ヨハネによる福音書11章25~26節
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じるものはだれも、決して死ぬことはない。」
 
讃美歌 508番「救い主 イェスこそは」 菊池典子姉



※ 「サレナム」(Sarennam)は「避けどころ」、「避けどころに隠れる」という意味。

聖 書 詩編56編9節 ローマの信徒への手紙8章31~39節

「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」(詩編56編9節)

説 教 「わたしの嘆きを数えられる神」 菊池丈博牧師



詩編56編9節
ローマの信徒への手紙8章31~39節
 
 では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。
 「わたしたちは、あなたのために 一日中死にさらされ、 屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。
 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
(ローマの信徒への手紙8章31~39節)



 みなさん、おはようございます。今日、5月3日の朝が与えられました。4月7日に「緊急事態宣言」が発令されて、凡そ一か月になります。礼拝もこれまで三回お休みしました。今日で四回目の休みとなります。
新型コロナウィスルの拡大はピークを越えて来たと報道されていますが、予定の5月6日までの「緊急事態宣言」は、更に一か月程継続される見込みです。ここで、私たちがじれて、礼拝を開催しましょうとするのは得策ではないと思います。引続き5月10日、17日までは確実に、恐らく24日までの礼拝もお休みとしたいと考えています。

 出来れば、31日に礼拝は短縮された形でも開催出来るようにと願いますが、難しいもしれません。教会総会を5月中には開催したいと願っていましたが、それも適いそうにありません。けれど、もう一度申し上げますが、ここでじれないようにしましょう。今、私たちに求められているのは忍耐でしょう。

 ローマの信徒への手紙5章に記されているように「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。この御言葉を忘れないようにしましょう。それぞれに置かれているご家庭において、その場において、健康が支えられ、心が支えられ、神様の祝福に預かれますようにと願い、祈っております。

 今日は詩編56編の御言葉です。9節を読みました。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に それが載っているではありませんか。」とあります。

 詩編56編は、ダビデの詩とあります。表題に「ダビデがガドでペリシテ人に捕らえられたとき」とあります。
 この時の状況は、旧約聖書サムエル記上21章に記されています。

 ダビデはイスラエルの初代の王であるサウル王から狙われていました。
ダビデの人間的な能力の高さから、サウルが妬んだ、とも言えますが、何よりも主の霊がサウルから離れ、ダビデの上にありましたので、サウル王は妬み、というよりは、怒りを持ってダビデの命を狙っていました。サウルの追っ手から逃れ、逃れ、逃れて辿り着いたのは、ペリシテ人が支配するガドと呼ばれる町でありました。
 しかし、その時代、イスラエルとペリシテ人は互いに敵対し戦は止むことがありませんでした。あの少年ダビデが、六アンマ半、すなわち2m90㎝のゴリアトと一対一で勝負した場面はよく知られていますが、ゴリアトこそペリシテ人の兵士でありました。

 ダビデがサウル王から逃れて、辿り着いた先は敵軍であるペリシテの土地でありました。更に、ペリシテ軍に捕らえられてしった。その時の苦しみを神に祈る詩編として詩編56編は記されています。

1節から「神よ、わたしを憐れんでください」と始まり、「わたしは人に踏みにじられています。」と続きます。その通りです。ダビデは仲間であるはずのサウル王から追われ逃げた場所は、敵のペリシテ軍、前も敵、後ろも敵、まさに絶体絶命、八方ふさがり、万事休すの状態です。この時、ダビデの周りはダビデに戦いを挑む者ばかりだったようです。

 皆さん、ダビデの窮地は、今、私たちが置かれている状況によく似ているではありませんか。
 新型コロナウィスルの脅威から逃れるために、緊急事態宣言が発令され、一月経ちました。この一ヶ月間、自粛した効果は確かにあったと思います。しかし、誰もが思っていたより、願っていたより効果があった、わけではありませんでした。ですから政府はもう一か月、この状態でと、伝えようとしています。
 しかし、一方においては、日本の経済状況は、少なくとも戦後、経済成長を遂げて来た日本の社会、私たちの生活の安定が覆されようとしているとも言えるでしょう。これからのひと月、生活が持つのか、と真剣に悩んでいる方々、少なくないと思います。
 私たちの、前には伝染病が後ろには生活苦が、非常に切実で、しかも前には進めない、後ろにも戻れない、そのジレンマというより恐怖が私たちを苦しめているかのように感じるのは、私だけではないと思います。

 けれど皆さん、このような状況でダビデはどう願い、祈ったのか、大切な鍵は人を頼りにしたのではなく、神を頼りとしたということです。
 ダビデに、戦いを挑むのは人です。陥れようとするのも人です。そのような人と人との間にあって、ダビデも悩み私たちもまた悩むのです。
 しかし、ダビデは神を頼りとして祈り続けました。

 9節をもう一度読みます。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。」とあります。「あなたの記録にそれが載っているではありませんか」とあります。
「わたしの嘆き」とありますが、「嘆き」という言葉の元々の意味は「流離い」とか「放浪」という意味があります。ダビデは逃げまどい、流離っていました。
しかし、主なる神はそのようなダビデの嘆き、流離いを数え、その一つ一つを記録しておられる。主なる神は、決してダビデを忘れない方としておられる。そのことをダビデは知っていました。それ故に前にも敵、後ろにも敵、でもなお神に望みを置き、神よ、あなたはこの状況を知っておられるはずだ、記録しておられるはずだと祈り願いました。
 この時、ダビデの祈りは、この世界の、人間の支配からの解放と、主なる神こそが真の支配者であるとの絶大な信頼に置かれていたのだと思います。

人は、この世界は、人が支配していると思うと大きな不安に包まれます。けれど、この世の真の支配者は主なる神、あなたこそが私の神、あなたこそが私の主、その思いが私たちを不安から平安へと、安心へと導いていくのです。
 新約聖書ローマの信徒への手紙8章31節にこうあります。
「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」。少し飛んで、35節には「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」
 更に38節に飛びますが、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 皆さん、ローマ書は使徒パウロという人が記した手紙です。パウロが福音宣教の為に、どれほど苦労して、どれほど酷い目にあい、どれほど苦難したのか、ここでは申し上げませんが、聖書を読む者には良く知られるところです。
 
 パウロは、「死も命も」と記しました。自分が死ぬとしても生きるとしても、です。もうどちらでも神様、あなたがあなたの望むままに、この私を用いてください。私がなすべき道は既に与えられ、既にあなたによって支えられています。だから、何も恐れず、私は歩んでいける。それがパウロの姿でした。
 けれど、その背景は詩編のダビデと同じように、前にも敵、後ろにも敵という状況であったことも確かです。でも、心に揺るぎはありませんでした。
 
 私たちが、今なすべきことは人の命を守ることです。政府がそう言っているからでもなく、人の命令だからでもなく、むしろ愛を持ってそのように生きていきましょう。経済的なひっ迫が後ろから追いかけて来ます。けれど焦ってはなりません。医療崩壊は、感染者によってではなく、愛の足りない人々によってこそ起こることを忘れてはなりません。

 私たちは神の愛に包まれて、安心して、だからしっかりと用心しながら、この5月を過ごして行きましょう。神様は私たちの嘆きを、流離い、放浪をしっかりと記録しておられ、全てをご存知です。だからこの方から離れず、この一週間もしっかりと平安の内に過ごして参りましょう。 
 お祈りします。

讃美歌 512番「主よ、献げます」(ご自宅で賛美して頂ければ、幸いです。

主の祈り

黙  祷


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