日本キリスト教団 大塚平安教会  

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ナザレからベツレヘムへ

2019-01-05 17:32:01 | クリスマス
【サムエル記上16章14~23節】
【ルカによる福音書2章1節~21節】


 来年春に、娘が人生初めての海外、オーストラリアに2週間行くことになりました。学校が計画して、何人かの学生がホームステイ先に泊まり、語学や日本の外の世界を学んでくるという企画のようです。正直、費用の面は大変痛いのですが、でも良い機会だと思います。その為に、娘のパスポートを作らなければなりません。パスポートを作るには戸籍謄本を取り寄せなければなりません。我が家の戸籍登攀は岩手県の遠野市にあります。

 私の父が、幼い頃に住んでいた小さな家がありまして、今は完全に山の中に埋没しているはずですが、私も子どもの頃にしか行ったことがない。今どうなっているのかもわからない。それでも、そこにほんの少しの土地があって、私はあえてその土地の本籍をそのままにしております。
 本籍など普段の生活とは全く関わりもない、でもこんな時は戸籍謄本を取り寄せなければなりません。案外面倒で少し苦労しました。それでも今は電話もあり、メールもあり、通信、情報網もありますから、少し面倒なだけで手続きを済ませました。

 今日、今年のクリスマス、説教題を「ナザレからベツレヘムへ」といたしましたが、主イエスの父であるヨセフの本籍地はベツレヘムでありました。ヨセフは、この本籍地に行って住民登録をしなければなりません。そのようにするようにと勅令が皇帝アウグストゥスから出されたと。アウグストゥスの本来の名前は、オクタビアヌスと言います。

 ローマ皇帝最初の皇帝として知られています。この時代の頃の歴史は中学、高校の世界史の時間には必ず学ぶ内容でもありますし、大変、興味深い時代です。今日は、その歴史的経緯に深く触れるつもりはありませんが、一つ確かなことは、皇帝アウグストゥスの時代、しかもキリニウスという人がシリアの総督であった時に、御子イエスが誕生されたとルカは記しているわけです。それが一体何年なのか、研究者の間では数年から10年程の意見の差があるようですが、いずれにしてもその時代であった。つまり、昔話とか神話として、いつの頃かよく分からないけれどもということではなく、御子イエスは、人の世の、人の歴史のこの時代に誕生された。確かにマリアとヨセフの子として誕生された。それを歴史的事実としてルカは記したかったのだと思います。
 ユダヤの人々は、本籍を大切にしたと言われます。自分がどの家柄か、どの血筋かを大切にした。それは貴族とか、名門の家というよりも、ユダヤ、イスラエルは古来、基本的には12部族が集まり、連合国家のような形で国を形成していました。ですから自分がどの部族に属し、どのような家系なのか、これはユダヤ人にとっては、自分自身のアイディンティテーにも関わる大切な事であったと思われます。

 「ヨセフもダビデ家の家に属し、その血筋であった」とあります。ダビデは先ほど旧約聖書も読んで頂きましたが、イスラエルの二代目の王として活躍し、歴代の王の中でも、最も愛された王として知られます。ダビデはユダ族の出身でありました。初代の王であるサウル王はベニヤミン族出身です。旧約聖書を丁寧に読んでいきますと、案外ユダ族出身の人々が、大切な場面で活躍しているように私は感じます。恐らくユダ族出身の人々が旧約聖書の箇所の多くを記し、また編纂したのだろうと私は想像しているのですが、学者の賛同を得られるかどうかは分かりません。
 
 ヨセフは、なぜ住民登録をしなければならなかったのか、それは長く続いた争いの時代に終止符が打たれ、ついにローマが世界を支配した。アウグストゥスが初代の皇帝となった。それぞれの国や地域が、支配、被支配の関係であるとしても、世界史的に見れば暫くは大きな戦争もなく平和な時代が続くことになります。

 しかし、この平和な時代になると大切なことは、ローマに所属している国や人々がどの位いるのか。あるいは税金をどれだけ徴収出来るのか。そして、何よりもいざ、争いとなった時に、戦士、兵隊となる人数がどれほど見込まれるのか、その把握の為の住民登録であったと考えられます。
 
 娘のパスポートの時は何も必要無かったのですが、小遣いを稼ぐ目的もあり、最近アルバイトを始めました。その仕事先でマイナンバーを聞かれたというのです。私の番号は一体何番かと聞かれました。マイナンバーは人に番号を付ける制度ですが、欧米諸国ではかなり昔からこの制度があるようです。皆それぞれ自分のカードを持って、身分証明書として使っています。日本も基本的にはそのようにしたかったのだと思います。

 マイナンバーについて改めて調べてみましたら、その目的は社会福祉面において公平、公正に対応するために、また、税金の徴収の為に、あるいは災害時対策の為にとありました。デメリットとしては、一括管理ですから、もし情報が洩れたら、全てのことが公に晒されたり、犯罪に悪用されたりする恐れもあると記されていました。

 私はマイナンバーのことを思いますと、どうしても徴兵制度導入に向かって、あるいは軍隊のある国に向かっていこうとする、そしてそのような意図が現在でも色濃く、政治、政権の中にも出ているように思えてなりません。

 時の政治、また支配者の思い一つによって翻弄されるのはいつも庶民、住民です。ヨセフとマリアは、特にマリアは身重の体で、登録をするために、ナザレを出発してベツレヘムへ向かいました。凡そ、120キロの旅です。二人にとって、決して短い距離ではありません。馬を持っていたとは考えにくい、ですから徒歩であったのか、あるいはマリアはロバに乗っていたのか、いずれにしても厳しい旅ではなかったでしょうか。

 しかしまた、この旅を終えて、目的地のベツレヘムに到着して、それで良かったね、という訳にもいきません。「宿屋には彼らの泊まるところが無かった」とあります。ですから、二人は止む無く、馬小屋、家畜小屋の片隅に泊まり、そこでマリアは御子イエスを出産したわけでありました。ここに神の御子が誕生した。この世の最高の喜びの瞬間です。

 しかし、その時、御子イエスの泣き声だけは大きかったと思いますけれど、周囲はあまりにも静かであったかもしれません。喜びの中で慌ただしく動いていたのは、天の国であったと、ミルトンという小説家が記しました。

 その後、展開が変わり、8節以降では、羊飼いと天使の物語、羊飼いの所に天使が現れ、「今日、ダビデの町で、救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げて、その後、天使の大軍があらわれ、神を賛美したという後半の部分においては、実に華やかなクリスマスにふさわしい場面であろうと思います。

 神への賛美の歌声、私達も共に祝える喜びの表現です。本日のクリスマス礼拝にこそ読まれる聖書箇所であろうとも思います。

 しかしまた、羊飼いの話から戻るようにして話しますが、この12月に入りまして、今年度、これまで読んできておりましたエフェソの信徒への手紙から離れて、ルカによる福音書の1章から、祭司ザカリアの場面から出来るだけ丁寧に読んで参りました。祭司ザカリアの所に、天の使いが現れて、あなたの妻のエリサベトが子どもを宿すであろうと告げた場面がありました。ザカリアはその言葉に驚き、信じられずに「どうしてそんなことがありましょうか。私たちは既に年を取りすぎています。」と告げました。しかし、ザカリアの言葉と思いは覆され、エリサベトは子どもを宿しました。

 それから六か月後、天の使いは処女マリアの所に現れ、「おめでとう、めぐまれた方、主があなた共におられる」と告げました。マリアは驚き、戸惑います。天の使いは続けて、「あなたは身ごもって、男の子を産む、その名をイエスと名付けなさい」と告げるのです。
 マリアは、「私は男の人を知りませんのにと」幾らかの抵抗を示しますけれど、最後にマリアは「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように。」と告げたところ、天使は去っていったとあります。

 その後、マリアはザカリアの妻、エリサベトの所に向かい、神に祝福され、子どもを宿した二人は多いに喜んだ場面をも読むことも出来ました。そして主イエスの誕生に先立ち、ヨハネの誕生の場面を先週の礼拝で読みました。
 
 マリアの夫となるヨセフについては、これまで礼拝で触れませんでしたが、ルカによる福音書よりはマタイによる福音書に、ヨセフについて記してあります。そこには夫ヨセフは「正しい人であった」と記されています。ですから、マリアが身ごもっていると知った時、どんなに驚き、狼狽したであろうかと思います。そしてヨセフは色々と考えた末、このことを表ざたにすることを望まずマリアと密かに縁を切ろうと決心したともあります。

 表ざたにするのを好まずとは、二つのことが考えられます。一つは、マリアが姦淫の罪を犯したと思われる、それを公表せず、律法の罪に問わないということです。罪に問うとしたら最悪の場合、石打の形、死刑にされる恐れさえあります。そのことを望まなかった、そういう正しさであったかもしれません。
 二つ目は、マリアが既に身ごもっている、それなのに二人の婚約を破棄して、マリアは結婚前にして、やもめとして子を産まなければならない、世間はお腹の子どもはヨセフの子と考えるでしょうから、婚約を破棄するなんて、なんと薄情な、愛の無い男であるかと非難し、厳しい言葉が浴びせられるであろう。しかし、そのことをも覚悟して、全て自分が悪者になって、マリアを守ろうと対応しようとした、そうよう正しさであったかもしれません。

 いずれにしても、ヨセフは厳しい判断をしなければならならないと思ったと思います。しかし、ヨセフは正しい人であったので、少なくとも密かに分かれる決心をしたのです。

 けれど、天の使いが現れて「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む、その子をイエスと名付けなさい。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。そうヨセフに告げました。ヨセフはこの主の天使が告げる言葉を信じて、自分の計画を止めて、マリアを妻として受け入れました。

 そして、マリアが臨月となっている時に、二人はナザレからベツレヘムへと厳しい旅を強いられて、馬小屋で御子イエスが誕生する。それがクリスマスの出来事です。

 先週の水曜日に、幼稚園で、クリスマスの祝いの時を持ちました。最初に私が礼拝で話させて頂いて、その後、園児たちがこれまで一生懸命に練習を繰り返してきた、クリスマス・ページェント、御子イエスの生誕劇を行いました。マリアの役、ヨセフの役、羊飼い、博士、天使、羊、それぞれに配役されて、かわいい歌声と共に、素敵に演じてくれました。

 保護者の皆さんは、もう幼稚園のホールに入りきらない程に満杯で、手に、ビデオ、カメラを持ってファインダー越しに覗いています。個人的には、ファインダー越しじゃなくて、直接その目で見て欲しいと思いますが、でも親御さんの気持ちも良く分かる。いずれにしても大きな喜びに包まれた良い時間であったと思います。

 この年、幼稚園のクリスマスだけでなく、私は毎年の事ではありますが、クリスマスの礼拝を数えましたら全部で11回ありました。今日のこの礼拝は9回目となります。明日も明後日も予定されています。そして、その中でマリア、ヨセフ、羊飼い、博士、天使、そして御子イエスについて、今年も色々な話をさせていただき、また、それぞれに楽しいひと時と交わりの時間を計画して、この時期過ごしているわけで、本当に心暖まる時間だと思うのですが、それらの一連のクリスマスの礼拝、祝いの中で、まだ、まだまだ、伝えきれないと思う大切なことがあるのです。そして、そのことを伝えるためにこそ礼拝が行われているとも言える。そして、それはとても簡単なことでもあります。

 それは、「信じる」ということです。皆さん、このクリスマスを通して、神様は「信じなさい」と何度も何度も告げている。祭司ザカリアを通して、エリサベトを通して、ザカリアの親戚たちを通して、マリアを通して、ヨセフを通して、羊飼いを通して、博士たちを通して、神が私たちに見せてくれていることは、この時代にただ中で、馬小屋で誕生された御子イエスの誕生劇を見せてくれているのはありません。

 主なる神が、私たちに示して下さっているのは、たった一つの事です。天の使いが現れた、ザカリアは信じられなかった、そうだろうなと思います。マリアにも天の使いが現れた、マリアは当初、そのことを信じられませんでした。そうだろうなと思います。夫ヨセフはこの出来事を正しい人であったので、ひそかにマリアと縁を切ろうとした、そうだろうなと思うのです。

 更に、私たちはザカリアでもないし、マリアでもないし、ヨセフでもありません。だから御子イエスの誕生の物語を、時としてあたかも幼稚園の園児が演じる素敵な一連の劇のようにして聖書を読んでいるとしたら、それは決して、主なる神の意図するところではないと、私は思います。

 主なる神の思い、それは、私たちに、このことを通して「信じなさい」と告げているのだと思います。アウグストゥスの時代の出来事です。キリニウスがシリアの総督であった時の出来事ですと申し上げましたが、それは昔の出来事でしたという意味ではなく、その時代に主なる神を徹底的に信じて生きた人々を通して、御子イエスが誕生したと聖書は告げているのだと思います。身重のマリアを連れて、住民登録をしなければならなかたヨセフ、ナザレからベツレヘムへ、120キロの道程を厳しい状況で旅をしたでしょうと申し上げました。実際に大変辛い旅であったに違いありません。

 でも、二人は本当に辛かったのでしょうか。大変だなと思っていたのでしょうか。厳しい旅だと思っていたのでしょうか。恐らくそう思っていたと思います。でも、それだけではない。マリアもヨセフも、主なる神を「信じて」、マリアに「おめでとう」と告げた主を信じて、ヨセフに「インマヌエルの主、神我と共におられる」という意味であると告げた主を信じて、二人はこの旅の中にも、神の大いなる恵みがあると信じて、ベツレヘムで向かったに違いないと私は思います。

 更には宿屋には泊まるところがなかった、だから、御子イエスの出産は馬小屋であった、どの注解書も、どんな説教も、その場面は誠に小さい、また弱い、御子の誕生であったと記します。しかし、それが神の思いであったと記しています。確かにその通りだと思います。

 でも、もっと大切なことがあると思う。それはたとえ馬小屋の中であろうと、どこであろうと、二人は主なる神に対して、どこまでもこの方を信じ続けて、旅をしてこの場で御子イエスを出産し、そしてその全てを喜んだということです。

 皆さん、何よりも信じることです。私たちのところには中々、天の使いはやって来ないかもしれません。直接神の言葉を聞くことも無いかもしれません。でも、信じることです。教会の宣べ伝えは、聖書に記されている内容の説明ではなく、神を信じることです。決して学校では教えてくれないし、親だって滅多なことでは教えてくれません。私たちは信仰者の一人一人でありますけれど、この一年間、本当に信じて生きて来たのか、私も含めて振り返らなければなりません。

 昔も、今も、この世の政治、政権に翻弄される私たちです。今年の漢字は「災」という一文字で、この年、どんなに災害が多かった、今も苦しんでいる方々がどんなに多いことか、国際社会を見れば、心配なことも多いし、来年は消費税もあがるという、嫌な事ばかりだと思う強い力が、どうしても心の中に満たされるのです。しかし、そこで忘れていくことは「信じる」ことではないでしょうか。

 「信じること」そのことによって、本当にこの世は変わっていくはずです。そのために御子イエスが誕生されました。神の業を心から信じて、私たちはこの時、過ごして参りましょう。

 お祈りいたします。


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