日本キリスト教団 大塚平安教会 

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心に敵う者

2017-02-22 15:36:59 | 礼拝説教
 一月に入りまして、あっという間に正月も過ぎていきました。皆さん良いお正月を過ごされたであろうと思います。

 昨日のことですが、牧師室で仕事をして、あちこちとメールでやり取りをしていました時に突然一つのメールがやって来ました。

 私が出た神学校からで、新年度のいつの時にか学生に対して牧師が「学ぶこと」の大切さについて話をして欲しいというのです。そんな授業、なんで私なのかな?と思いましたが、お役に立てるのでしたらと答えておきました。それでも、思い出した事がありまして、私が神学校を卒業するにあたり、卒業論文の先生が私に話された言葉がありました。菊池君、勉強ばかりではだめだよ、と話されたのです。確かにあの頃は勉強ばかりしていたなぁ、そんなことを思い出しました。
 けれど、それもすっかり昔になりまして、最近いかに勉強していないか、でも、改めてこの年、一生懸命学んでいこう、そんな思いで心を新たにすることが出来ました。

 研究者や学者は一所懸命に勉強して研究することが仕事です。その結果、成果が出れば自信にもなりますし、評価もされます。医者は何より患者の病気を治すことが優先でしょう。例えば難しい手術を成功する、難しい病気が癒されるとき、医者としての充実感に満たされるでしょう。ビジネスマンであれば高額の取引とか、商売が上手くいく、いい仕事したなと満足を得るでしょう。目的があって結果が出るというのは成功すればやったと思いますし、人としての確かな自信にもつながることでしょう。大切なことだと思います。

 牧師はどうか、勿論目的はあります。神の国の福音を宣べ伝えること。その為に、教会があり、礼拝を守り、集会を行い、祈祷会を行い、祈りを献げ、御言葉を語り続けます。勿論神様が働かれているわけですから、自分の頑張りではないとも思いますが、牧師の喜びと言えば、洗礼志願者が与えられる、そのような喜びを皆さんと一緒に喜び合える、これ以上の喜びはないと思えるほどです。そのためにもこの年もまた、心を新たな思いでもって是非、神の恵みを受け入れて、洗礼式へと進まれる方が与えられるように祈り、励んで参りたいと思います。

 今日は、洗礼者ヨハネの所に主イエスがやって来られた場面です。主イエスがやって来られた時、ヨハネはこう言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」けれど、主イエスは応えられました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこでヨハネはイエスの言われたとおりにした。
 この洗礼者ヨハネの働きの中で、最高の働き、充実したひと時ではなかったでしょうか。更に、主イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。
 イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえた。
 今日の説教題を心に適う者としましたけれど、主イエスが洗礼を受けて、水からあがられた時、天から聞こえて来た言葉です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は勿論、主イエスに対して告げられている言葉ですが、しかし、今を生きる私たちにも主なる神は告げておられるのだとも思います。
 
 つまり、主イエスに与えられる祝福の言葉を、主イエスを信じる私たちこそが相続出来るはずです。私たちの価値は、この言葉のように「わたしの心に適うもの」として人生が与えられ、命が与えられ生かされているということであろうと思います。
 
 神さまは私たちを愛されている。世の中にある、あたかもゴムのように時代時代で伸び縮みする価値観の中で評価されるのではなく、どんな時も、いつの世も変わらないあなたは「わたしの心に適う」と言われるのです。
 「心に適う」とはそのままのあなたがどんなに素晴らしいかということでしょう。

 私たちは逆に、このままの私がどんなに素晴らしくないかと思うところ多いのです。若者を見ているとよくわかる、鏡を見ながら、目がどうの、鼻がどうの、髪の毛がどうの、もう少し身長があったらなぁ、もう少し痩せていたらなぁ、勉強が出来たらなぁ、とにかく今の自分が気に入らない。でも、若者だけでもないでしょう。年を取ればとったで、この病気さえなかったら、この経済状態だから、もう少し足腰がしっかりしていればと、やっぱり、このままの自分ではダメだと思うのです。

 私たちは、今いる状況を受け入れようとしません。でも、私たちを作られた方、私たちのよりどころである方は「わたしの心に適う者」と話しておられるのです。申命記26章には「既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう。」とありますが私たちは神の目からみれば宝の民だということでしょう。
 でもね、自分が宝物なんてなぁと思う。なんで私の人生にはこんなに嫌なことばかりなのかと話される方もおられますし、そんな話をしばしば伺います。自分は少しも宝ではないと思ってしまうのです。
 

 皆さんがご存知のように、私の家に母親が一緒に住んでいます。今年の3月で80歳になります。教会の中で80歳なんて、やっと一人前になったかと言われる年かもしれませんが、ご存じのように認知症になりまして私たちの家族と過ごしているわけです。
 母親の口癖は、「今が一番幸せです。」という言葉ですが、認知症というのは、基本的には最近のことが分かりません。でも昔のことはよくわかる。昔、自分が子どもの頃に、段ボールに入れられた子猫が川を流れてやって来て、ニャーニャーと鳴くので、たまらなく愛おしくなって、それを拾って来て育てた話を、二日に一回は聞いています。でも、今、自分の孫が何歳なのか、何年生なのか、今がクリスマスなのか、お正月なのか、それはよく分かりません。

 今がどういう状況なのかも実際のところ、よくわからないのかもしれません。でもね、それでも「今が一番幸せだ」というのです。どうしてだと思いますか。母親の小さい時に、父親も死に、母親も死に、5歳年上のお兄さんと二人きりになって戦後をなんとか生きてきた母ですが、結婚した相手が私の父親ですけれど、ろくに仕事もしない、やる気も無いような夫であって、母親が一人で内職しながら私たち子供たち4人を育ててくれました。

 でもね、だから、そんな辛かった生活と比べたら毎日、何をしなくとも朝ごはんを食べられるし、昼ごはんも食べられるし、夕ご飯も頂けるし、デイサービスにも行けるし、幸せだなぁと言っているわけではないのです。
 
 認知症は今のことは忘れて、昔のことしかわからないのです。だから、母親は子供の時も、少女の時も、両親がいなくて兄と二人で成長した時も、ろくでもない夫と結婚したときも、苦労して4人の息子たちを育て上げているときも、ずっと「わたしは今が幸せだ」と言って来ていたので、今も「わたしは幸せだ」と言えるのだと思うのです。

 皆さん、私たちは「わたしの心に適う者」ですよ、私たちは神の宝の民ですよ。何も人と比べなくて良いのです。私の存在を、神様がどんなに愛されて、一人子なる御子を私たちに賜るほどに私たちを愛されて、誰とも変えられない神の宝として下さっていることを忘れてはならないと思います。

 ならば、神の心に適う者として、私たちはどう生きていけば良いのか、一つ目「幸せに生きていこう」と決心することです。
 
 お正月になりますと、我が家では一つの恒例行事があります。それは、1月2日、家内の実家、所沢のおじいちゃん、おばあちゃんの所に行って、家族が皆で集まってお祝いするということです。今年は、おじいちゃんが88歳ということで特別にとにかくみんな集まれということで、子どもたちは一日から泊まり込みで、私たちも母親も連れて家族で向かいました。全部で14名が集まって、おじいちゃんと、おばあちゃんとのお祝いしたわけですけれど、おじいちゃん、おばあちゃんがもうニコニコして、子どもたちや孫たちをかわいがるわけですよ。

 食事をしながら、すっかり機嫌が良くなったおじいちゃんがスピーチを初めまして、最初は、成長した自分の息子、娘を褒めるわけです。でも、それはすぐに終わりまして、何よりも、二人の息子の所に嫁いできたお嫁さんを褒め始めました。何しろ営業畑60年のおじいちゃんですから、褒める言葉が次から次と出て来るのです。さすがだな、でも、聞きながら気が付きました。娘の旦那も少しは褒めたらどうか?なんて(笑)
 しっかり褒めて頂いて、それから今度は孫の一人ひとりを褒めるのです。もう、褒めまくって、お前たちがわしの孫で本当に良かった、出来ても、出来なくても孫で本当に良かった。そして最後にお年玉を一人ひとりに手渡すのです。
 もうそうなると、孫たち全員がおじいちゃん大好き~。来年も元気でいてねとやっぱりそうなるわけですよ。幸せの瞬間です。

 皆さん、なんで、自分は幸せに生きていけないのかな、簡単です。こんなおじいちゃんがいないからですよ。でもね、おじいちゃんでもなく、おばあちゃんでもなく、両親でもなく、あなたを作られた方であり、導き手であり、神様の言葉によって幸せに生きるのです。「あなたは私の心に適うもの」この世の、誰が、わたしの心に適わないと言うとしても、この主なる神の御言葉こそ、私たちのアイデンティティとなるのではないでしょうか。

 この祝福の言葉をしっかりと自分の心に収めることです。神の心に適う者として、一つは幸せに生きる、二つ目は、「主なる神と出会う」ことです。主イエスが洗礼を受けられた、主イエスは罪なき方として乙女マリアから誕生されて、罪なき方として、成長されたはずなのに、洗礼者ヨハネから洗礼を受けにやってきたのです。私の方が洗礼を受けるべきなのにと語るヨハネを前にして、「今は、止めないでほしい、正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」だと語られて洗礼を受けられた。なぜ、罪なき方が洗礼を受けられたのか、罪ある私たちと出会うための決心だったと思うのです。

 神が人となって誕生された、それは神の人の救いの為の決心であって、罪なき方がその宣教にあたって洗礼を受けられた、それは更に謙遜になって罪ある私たちと出会うためであったと思うのです。だから「今はとめないでほしい、正しいことをすべて行うの、我々にふさわしいことです。」と言いました。我々とは、主イエスとヨハネのことでしょうけれど、主イエスと私たちとも言えるでしょう。

 この姿は徹底的に謙遜になった神、それは、私たちと出会う為なのです。神と出会える時、それは自分が謙遜になれる時だということではないですか。

 私たちは、まあ謙遜になれません。私の尊敬する牧師が昔教えて下さいました。「菊池君、牧師は色んなことを勉強するけれど、牧師はバカにならなきゃならないよ。」よく覚えています。でも、その時にはよく分かりませんでしたというより、ちょっとムッとして聞いていました。

 牧師はバカじゃ務まらないだろうって思っていました。だって勉強ばっかりしていましたから。でもね、ここ数年、改めて思わされます。バカという言葉は差別用語かもしれませんから、適切な言葉で言えば、幼子のようにとか、素直にと言う言葉に置き換えて申しますけれど、主イエスが洗礼を受けて水から上がると、天が開いて神の霊が鳩のように下ってきました。聖霊が主イエス包み込んだ瞬間です。この聖霊こそ、私は謙遜とか、素直とか、幼子のようにという意味ではないかと思うのです。
 
 信仰とは勉強して頭でわかる、それも大事ですよね。でもね、「一所懸命勉強する。」でも「知識は人を高ぶらせるが、愛は作り上げる」とコリント書にありますように、どうも私は知っている、わたしは分かっていると思うほどに神様と離れてしまっているのかもしれません。

 そんな私たちと出会う為に、主は洗礼を受けられました。罪あるこの世の、私たちの本音に出会う為です。私たちの知識に出会うのでもなく、私たちの建前に出会うのでもなく、私たちのあるがままの、わがままの、いやらしさ一杯の私たちに出会う為ですよ。出会ってなんと言われるのか、そのままのあなたで良いのだよ。
 そのままで良いだけでなく、これからももっと良くなるよ、これまでも良かっただけでなく、これからもっともっと良くなるよと語りかけて下さるだけでなく、誰がなにをどう言おうとも、あなたはわたしの宝の民と言って下さっているのです。

 あなたの幸せは、あなたの足元にあり、あなたの只中にあるのです。その足元にある宝をなかなか拾えないのです。なぜか、小さくならないと拾えないからです。小さくなりたくない、それが私たちの本音ですよ。でもそれでも良いのです。だから主イエスが洗礼を受けられて、主イエスが小さくなられて、わたしの、あなたの足元にある幸せを拾って下さいました。
 この恵みを私たちはしっかりと受け取って、この2017年を共に歩んで参りましょう。願わくは謙遜に、そして、しっかりと幸せに生きて参りましょう。
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