日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

わたしを知る方がいる

2022-01-02 12:41:02 | 礼拝説教
【詩編139編1~6節】
【ルカによる福音書2章22~38節】

 新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願します。新年最初の礼拝で読まれましたのは詩編139編です。

 「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」

 新しい年を迎えるにあたり、私たちの心に直接的に訴えかけるような相応しい御言葉だと思います。
 主なる神がわたしを究める程に、わたしを知っておられる。

 過ぎるクリスマス、御子イエスが誕生された聖書箇所を私は何度も読みましたが、マリアの夫となるヨセフのもとに現れた天使は、ヨセフに向かって語り掛けました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。
 インマヌエルとは天地創造された神が、私たちと共におられる、そのような出来事を目で見え、理解できるようにとクリスマスの出来事が与えられたとも言えます。
 
 昨年一年かけて、水曜日の祈祷会では、出エジプト記を読み続けました。
エジプトにおいて400年住み続けていたイスラエルでしたが、エジプトの王が変わり、政治政策が変わり、イスラエルの民は奴隷とされてしまいます。
イスラエルはその過酷な労働のゆえにうめき、叫んだとあります。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神の耳に届き、神は嘆きを聞いて、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。
主なる神は、アブラハムと共におられ、イサクと共に歩まれ、ヤコブと共にその道を進まれました。私はあなたと共にいるという約束を再び思い起こし、イスラエルとの約束を果たすために、モーセを指導者として、イスラエルをエジプトの奴隷から脱出させ、脱出させるだけでなく、自らが、昼は雲の柱、夜は火の柱となってイスラエルを導き、40年かけて、神が約束された「乳と密が流れる」と言われる程肥沃な土地であったカナンの土地を目指して進み行かれました。

 けれど、皆さん自分達が信じていると思っている主なる神が400年前に、確かに先祖のヤコブと共におられた神であることを知らされていたとは思いますが、400年という年月は短くありません。話としては聞いている、話としては知っている、けれど、それと自分達の生活とどういう関係があるのか、というより主なる神は私たちと実際に共におられるのかとイスラエルの人々は感じていたのではないでしょうか。

 その為、エジプトを出たのは良かったと思った、本当に喜びであったけれど、その状況が悪化すればすぐに信じるよりも、愚痴や不満が出るのです。エジプトを出たと思ったら、エジプト軍が追ってくる、自分達はここで死ぬためにエジプトを出たのかと不満を述べたら、海が二つに分かれて助けられる。
良かったと思ったら、今度は腹が減って来た、エジプトには何でもあったのに、ここには何もないと不満をぶつける。喉が渇けば、水を飲みたいと訴える。
イスラエルは何度も何度も不満をぶつけながら、でも、その都度、モーセは神に祈り、解決されていくのですが、三か月後にシナイ山に到着して、モーセは山に登り、主なる神から十戒を伝えられ、石に刻み、その板を持って下山するのですが、山にいた期間は40日です。

 イスラエルの民は40日まてませんでした。もはやモーセは当てにならんと金の子牛を作って、それを神様にして、その回りで飲めや歌えや、の大宴会です。その様子に流石の神様もわしゃもう知らんと怒り爆発して、もう私はあなたがたと共にいくことはしないと伝えるのですが、モーセの命がけの執り成しによって、神は思いを変えて、民と共にいくことをイスラエルに伝えるのです。
イスラエルの民は、このような神に背くような体験を何度も繰り返す中で、しかし、一つ一つの体験が重なり自分達の経験として培い、そして、この方は本当に自分達の主なる神であって、この方はどんな時も自分と共にいてくださる方なのだと知ってくるのです。頭だけの知識だけの神ではなく、まさに生ける神として、生ける神が共におられる、そのような信仰に至っていく訳です。

 詩編139編の作者が与えられた状況は、出エジプトの民のそれとは違った状況であろうと思います。けれど、確かなこと、それは主なる神は、インマヌエルの主は、この自分と確かに共におられる、そういう確信を得たということでありましょう。

「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。」知っているとは、別の言葉で言えば、「大切に思っている」もっと言えば「愛している」です。
 
 クリスマス礼拝に、教会員の松M君が久しぶりに礼拝に参加されました。奥様と子ども二人を連れて四人で参加されました。元気だったと挨拶しましたが、金曜日の聖夜礼拝にも四人で参加されて、良かったと思っていたら土曜日の子どもの教会のクリスマスにも参加してくださいました。色々と話が出来ましたけれど、家内から聞いたのですが、今度の3月に4歳になるY君という長男がおられる。彼は電車が大好きだそうで、今度新幹線を見に行くというのです。新幹線なんて一瞬じゃないのって聞いたら「止まっている駅の新幹線でしょ」と呆れられ、「海老名の『ロマンスカーミュージアム』はもう見に行ったって」と言われて、「え!そんなミュージアム、海老名にあったの」と聞き返したら、更に呆れられてしまいました。

 調べましたら去年の4月にオープンしているようですが、でもそれは私が調べて分かったことで、本当に分かっているのは4歳のYくんのほうが何倍も、何十倍も、良く知っている。

知っているとは愛している、大好きだという意味なのです。知識としてというよりも体験として、経験として、そのようにして主なる神が、自分をこんなにもよく知っておられたのか、愛してくださっておられたかという経験をされた方は実に幸いです。

 そのような感覚は、その人の生涯を支え、その人の信仰はゆるぎないものとされていくでありましょう。「親思う心に勝る親心」という言葉がありますが、どんなに子どもが親を思うとしても、その思いに勝って、親は子を愛しているものです。
 そのようにして主なる神がこの私を、他の人には申し訳ないと思うけれど、こんなにも愛して下さっている、そう感じておられる方ばかりがここにおられるわけですけれど、それは信仰を持つ者のみが持つ、幸い、特権と言うことも出来るでありましょう。
 
 更に「座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる」と続きます。
「座るのも立つのも」、「歩くのも伏すのも」つまりは、どんな時も主が共におられるということでしょう。

 私たちの悩みはどこにあるのかというと、遅いよりも早い方が良いよ、出来ないよりは出来た方が良いよ、貧乏よりも金持ちが良いよ、病気よりは健康が良いよ、と家庭においても、学校においても、社会においてもそう教わって来ましたし、自分でもそうだと思いながら、自分達の人生を生きているようなものです。悪いものは悪いし、良いもの良い、そういうものだよと教わって来ていますし、確かにその通りだと思います。 
 でもね、私たちはそこで悩むのです。なんで出来ないかな、なんで貧乏かな、何で病気かな、座っているより立った方が、伏しているより歩いた方が、つまり、そうやってあたかも世の中には二つの状況があって、悪い状況は悪い、だから良い状況にならなければと願うわけです。

 今年は、コロナ禍も少し落ち着いて、神社、お寺さんと初詣の方が昨年よりはずっと多くなっていると思いますが、手を合わせてお願いするわけです。どうか、家内安全、商売繁盛、無病息災、宜しくお願いします。私たちも全く同じ思いです。願わくは、この年、良い年となりますようにと祈り願います。でも、状況によって良いとか、状況によって悪いとかではなく、私たちの信仰の秘訣は「どんな時も」ですよ。

 結婚する二人が結婚の誓いに、「幸いな時も、災いに会う時も、豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病む時も、互いに愛し、敬い、仕えることを約束しますか」と問われた時に、必ずそのようにしますと誓いを立てるわけですが、つまり「どんな時も」ですよ。
 主なる神が、インマヌエルの主が私と共にいてくださる、しかも、どんな時もいつも共にいてくださる、だから大丈夫と、平安の心を持ち続けていくことです。その思いを生きる人こそが幸いを生きていけるのです。

 先ほど、ルカによる福音書から「シメオンとアンナ」の場面を読んでいただきました。清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるために、神殿に連れて行きました。そこにシメオンという人がいた、この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、メシアに会うまでは死なないと聖霊により告げられていた人でした。シメオンは御子イエスをその腕に抱き、どれほど喜んだことでしょう。主なる神を讃え、祝福に満たされたことでしょう。女預言者のアンナもまた、御子の到来、エルサレムの救いを人々に告げる幸いを与えられた人として記されています。

 この二人はどんなに幸いかと思います。けれど、この二人の何が素晴らしいかというと、どんな日も、繰り返される毎日を、通り過ぎていく日々の生活の中で、主なる神が自分と共におられ、そしてメシア、救い主に対する希望を、どんな時も持ち続けて生きて来た姿ではないでしょうか。その姿に私たちは感動するのではないですか。

 2022年という年、私たちにもインマヌエルの主が、共におられます。どんな時も、いつも共におられます。だから大丈夫、幸いを生きていきましょう。希望を持って生きていましょう。主なる神を讃え続けて生きていきましょう。

 お祈りします。

コメント   この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バビロンの流れのほとりにて | トップ | 全ては最善に »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事