日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

揺らぐことなく

2021-09-19 16:04:01 | クリスマス
2021年9月19日 (日)聖霊降臨節第18主日 新しい戒め

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所 詩編125編1~5節
     ヤコブの手紙1章2~8節

説教題 「揺らぐことなく」

説 教 菊池丈博牧師


揺らぐことなく


以下 原稿になります。

 本日の礼拝説教を「揺らぐことなく」としました。先ほど読みました詩編125編1節にこうあります。「主に依り頼む人は、シオンの山 揺らぐことなく、とこしえに座る」
私たちの人生において、時に「揺らぎ」を覚える時があります。「揺らぎ」とはたとえるならば不安です。私達の国ばかりでもなく、新型コロナウィスル感染の猛威が世界を覆っていますが、先日、政府の新型コロナ対策分科会の尾身会長が今後の見通しを聞かれて、この状態が落ち着くまでは、「2~3年プラス」と答えていました。

 日本の現在の状況は感染者数が減って来てきますが、既に年末頃を想定した第6派の対策を考えなければならないと専門家と呼ばれる方々が話しています。まだ暫くの間は、コロナ感染による私達の社会の揺らぎは終息しそうにありません。

 あるいは、今、国の総理大臣が変わろうとしています。これまでの菅総理は、退陣を表明しましたので必ず変わります。国と国民に対して責任を持つ者が変わる、政治、経済だけではなく、変わることによる影響は大きいと思います。あるいは衆議院選挙もすぐに控えているわけで、私達の国がどのように変わっていくのか、これは期待と不安と両方とも言えますけれど、毎日の生活の中で揺らぎを感じないわけにはいきません。

 あるいは、昨日まで、台風が日本に来ていました。土曜日の朝方から断続的な雨が続きまして、朝になりましたら大和市の川が氾濫しそうだなどと報道されて緊張しました。台風に限ることなく特に近年、私たちは毎年のように自然災害による、大きな不安、揺らぎを感じ続けているとも言えるでしょう。

 あるいは社会というよりも、自分自身に対する「揺らぎ」を感じる時があります。

 何週間か前の土曜日のことでしたが、礼拝の準備をしておりましたら、詳しい話はともかく、いきなりだったのですが、前触れもなく泌尿器のあたりが腫れて来たことを感じて慌てました。理由も分からないまま、暫く様子を見ていましたけれど、土曜日ですから、病院は午前中しか診察していないと思い直して、急いでネットで病院を探して海老名の泌尿器科に自分で運転して行きました。
 
 微熱も少しあるかなと思いながら、診察を受けたら、38度5分もありました。
 
 私も医者も驚いて、とりあえずすぐ点滴しましょうとなって、大分大袈裟なことになりまして、点滴を受けて、薬を貰って帰宅したのですが、次の日曜日には熱も下がって安心したのですけれど、前立腺炎ではないかと言われました。でも、一週間してもう一度行きましたら、完治しましたと言われましたので安心していますが、人間の体温は大体36度から高くても37度です。普通は極めて安定しています。そこに揺らぎはありません。だから安心なのに、それが38度5分などと聞かされると、途端に病人になったりするのです。心が揺らぐものです。

 何よりも自分自身の健康の不安、揺らぎ、経験したことが無いという方はおられないと思います。

 人は依存している対象によって動かされるとも言われます。お金に依存している人はお金に影響されるのです。社会的地位に依存している人は、その地位の変化によって影響を受け、人に依存している人は、依存している人に影響を受けるのです。

 先月、8月の末に、キリスト教保育連盟金川支部会の講習会がありました。今は、大勢が集まることが出来ませんので、ZOOMというかネットでの講習会となりました。 
 
 私は、講習会に先だって、開会礼拝の役割をさせていただきましたが、その際、キリスト教保育とは、具体的には一体どういうことであるのか考えました。

 準備する中で話しましたのは、人に依存するのではく、神にこそ依り頼むことが大切なのではないかと話しました。私たちの人生で揺らぎを感じる、それは政治、経済によって、自然災害によって、あるいは自分の健康によって、揺らぎを感じるのですが、でも、何よりも心が揺らぐのは人と人との関係ですよ。
 例えば、幼稚園に限るわけでもありませんが、頼りにしていた先輩から厳しい一言を言われたとか、今日の園長は機嫌が悪かったとか、主任がイライラしていたとかだけでも、心が揺れ動くものですし、全く逆に、園長だからと言って、職場の先生方や保護者の皆さんの顔色一つで、心の中はヒヤヒヤ、ドキドキしているものだと思います。といった話を致しました。
 だから、大切なことは、人に依存するのでなく、主なる神に依り頼むことがどんなに大切かと思います、それがキリスト教保育の根幹になるのでないか、と申しました。

 主に依り頼むとは、揺らぐことなく、つまり、疑わないということです。

 主イエスは、信仰にあって、疑わないことの大切さを何度も教えておられます。

 弟子達がガリラヤ湖で船に乗っているところに、主イエスが湖の上を歩いて来られた。その姿を見たペトロは、私も水の上を歩いてそちらにいくことが出来るでしょうか、と尋ねると、主は「来なさい」と言われたので、ペトロは船から降りて、水の上を歩いて進んだけれど、風が吹いてつい怖くなり、沈みかけて「主よ、助けてください」と叫びました。主は手を差し伸べて、「ペトロよ、信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と話された場面があります。(マタイ14章)
 
 マルコによる福音書11章23節では、「はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい「立ち上がって、海に飛び込め」と言い、少しも疑わず、自分の言うところになると信じるならば、そのとおりになる」と教えておられます。
 十字架の死の、三日の後に、弟子達に復活の主が現れた時に、弟子たちは恐れおののきました。しかし、主は「なぜ、うろたえているのか、どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足をみなさい。まさしくわたしだ。」と話されました。

 これらの聖書箇所は皆、少しも疑わず、主なる神にこそ信頼し、依り頼むことの大切さが記されています。社会でもなく、経済でもなく、お金でもなく、地位でもなく、人と人との関係でもなく、今日には信頼できると思う、けれど、次の日には揺れ動き、疑いを持つような事柄、ヤコブの手紙では「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」とありますように、私たちは主なる神にこそ信頼し、依り頼んでいきましょう。
 
 なぜ、主なる神なのか、主なる神こそが、天地創造の始めから今に至るまで、少しも揺らぐことなく私達と共におられるからです。
私たちの人生は、何かの拍子で物事がとてもうまく進むことがあります。そうすると人は調子にのって高ぶりを覚えます。けれど、また逆に困難や試練の嵐に生きる時もあり、ひどく落ち込み、気が沈むこともあるのです。
 
 教会の宣教活動にあっても同じだと私は思います。5年前に会堂建設を行った。その後暫くは、毎週の礼拝に多くの方々が集まって下さいました。クリスマス、聖夜礼拝となれば80人、時には100人を超える礼拝出席者がおられました。
 しかし、その後コロナ感染拡大となり、昨年の三分の一の礼拝は休むことになりました。今も、緊急事態宣言の下、ギリギリの状況での礼拝です、時には20人代、30人代の方々で礼拝を守っています。
 
 でも、順調であるときも、困難に遭遇するとしても、揺らぐことのない主なる神に信頼し、あなたがたは岩の上に建てた教会だ、岩の上に建てた人生だ、だから、私にしっかりと繋がって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する心を私たちは育んでいきましょう。主われらと共におられる、主に信頼し、祝福を受けて、今週も進んで参りましょう。お祈りします。
コメント   この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 敵意の炎 驕り高ぶる大水 | トップ | 喜びの歌と共に刈り入れる »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

クリスマス」カテゴリの最新記事