日本キリスト教団 大塚平安教会 

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行動の人

2017-11-14 10:47:58 | 礼拝説教
【創世記15章1~6節】 【ヤコブの手紙2章14~26節】

 「行動の人」

 大分前のように感じてしまいますけれど、10月の最初の週に私たちの教会は「学びと交わりの集い」を行いました。2017年は、宗教改革の年から丁度500年ということもあり、ルターの宗教改革について、信仰について、また私たちの信仰について共々に学びました。その時にも申し上げましたし、これまで何度も申し上げ、またこれからも申し上げていくことでしょうけれど、宗教改革の一つの信仰的中心は、信仰義認、信じることによって義とされる神の恵み、神の福音を信じることが大事で、私たちが何かを行って、神様が認めて下さるわけではない、最初から神様の方が、私たちを一方的に認めて下さる、それを信じて生きていく、それが私たちの信仰の形として、特にプロテスタント教会の歴史においては大切に守られてきた教えでもあります。

 ですから、ルターは、行動することに重きを置いているように感じるヤコブの手紙を好まなかったと言われています。と言っても、考えてみればルターが悩みに悩んで、しかしその後に与えられた信仰義認という信仰によって、時のカトリック教会に対して、命がけで神に対する信仰のあり方を示し続けたように、そのような行動が無ければプロテスタント教会は成立しなかったわけですから行うことも大切。ただ、ですから、信仰によって私たちが何をどう考えて行っていくのかは、いつも私たちが考えさせられるテーマではないでしょうか。

 今日読んで頂きましたヤコブの手紙は信仰の父と呼ばれるアブラハムという人を用いながら、行う人としてアブラハムの信仰を紹介しています。
2章21節に「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。」とあります。「アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」とあります。

 旧約聖書、創世記15章という箇所も読んで頂きましたが、そこでは「アブラハムよ」と、主が幻の中で話しかけて下さった会話が記されています。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの楯である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」「わが神、主。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。」けれど、主は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」と言われました。そして「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」その言葉をアブラハムは信じた。主はそれを義と認められた。とあります。

 その後、アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時に、独り子イサクが誕生することとなり、二人はどんなにか喜んだことでしょう。けれど、ある時に、主なる神がアブラハムに告げるのです。創世記の22章の場面です。「アブラハムよ、あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げものとして献げなさい。」と言うのです。その言葉を聞いて、アブラハムは本当にそうしたというのですから、私などはその後、イサクが助けられると分かっていても、ハラハラ・ドキドキする思いがする。なぜか、もし自分がアブラハムだったら、あなたの息子を献げなさいと言われたとしたら、とてもそんなの無理、それは死んでも出来ません、息子を献げるくらいなら、私がと、どうしても神様に口答えして、拒むだろうと思うからです。

 けれど、ヤコブの手紙は、それが信仰によって行動することだとも記しているのです、ですからヤコブの手紙は、とても無理と思えるようなことを私たちに幾つも要求しているかのようなそんな思いにさえなる手紙だとも思います。けれど、ヤコブの手紙がそのようにして何よりも行動だと言っているのでしょうか。あるいは、アブラハムには出来て、私たちは出来ないと思ってしまう。それは何が?あるいはどこが?どう違っているでしょうか。

 私たちはどのようにして信仰を自分の心に納めていくのか、それもそれぞれでだと思います。でも例えば主イエスはこう言われました、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」、「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい。」それは、信仰とはよく見ることだとも言えるでしょう。どんなに聞くにしても、百回聞くよりは、一回見てみる方が良く分かるということもあります。
 先週、この礼拝で召天者記念礼拝を守りましたが、初めて来られた方がおられて、この礼拝に出席されて、「あ~、こういう時間がとても大切なんだな」と感想を言われた方がいたと伺いました。一度来て、そして見てみると、そこで心が捕らえられる、そういうことが実際にあるのではないでしょうか。

 あるいは主イエスは「聞く」ことを大切に教えられました。「耳のある者は聞きなさい」、「よく聞きなさい」と福音書の中で主イエスは数えましたら11回も人々に、聞きなさい、よく聞きなさいと話されています。信仰は聞くことだとも言えるでしょうし、人間関係を考えましても、まず聞くことですよ。話したい方は沢山おられるのです。だから、聞くことです。よ~く耳を澄まして聞くことです。そこから聞くことから多くの養いを得ることが出来るのだとも思います。

 あるいはまた、触れることです。あの疑い深いトマスが、「あの方の手に釘の後を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない。」と話した場面は有名ですが、実際に触れる、触れ合うことによってそこで信仰がまた新たにされることがあります。私たちの教会にも礼拝の最後に相互挨拶という箇所がありまして、相互に「あなたに平安がありますように」と挨拶するわけですが、海外の教会では挨拶、握手だけでもなく、互いにしっかりと抱き合ったり、頬にキスしたりもするのです。習慣の違いだと言えばそれまでですが、体に触れながら、挨拶すると私たちは、当初は驚きと気恥ずかしさで上手くいかないものですが、慣れると本当に感動することもあります。信仰は触れることによっても、育てられるとも言えるでしょう。
 
 それだけでもありません。カトリック教会を考えますと、礼拝と香がどんなに大切であるかと思われますし、先週の聖餐式を思いますと、パンと杯を頂くことによって、私自身「信仰をもって味わいなさい」と申し上げますが、あのパンと杯を頂き、自分の体が主なる神から頂いた体であり、神に繋がる枝であり、手足であり、神の体として、それ故に神の子としての自覚を思い起こすのではないでしょうか。そのようにして、私たちは見ることによって、聞くことによって、触れることによって、香によって、味によって、更には、賛美する、祈る、黙祷、沈黙、を行いながら、すなわち私たちの感覚、五感をフルに用いて、信仰とは何かを自分の体、自分の心に納めていくのだと思います。

 でも、そのようにして、養われて行く信仰の更にその先にあるものがある。先週行われました墓前礼拝で聖書箇所に選びましたのは、ヘブライ人への手紙の11章1~3節でした。読みますとこうあります。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」
 
 ここに「見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かる」とあります。目に見えない世界によって、この世は出来ているということでしょう。つまり、信仰とは、見えない世界、聞こえない世界、触れられない世界、香とか味ではない世界、すなわち、人の感覚を越えていく世界があって、そして、その世界こそが、永遠の命に繋がっているということではないでしょうか。

 先週、厚木霊園の墓前礼拝で私は、「かけがえのない人生」という話をいたしました。東北大学で教えておられた信仰の先達でもある宮田光雄という先生がその著書の中に記しておられた言葉を紹介させて頂きました。私たちはかけがえのない人生という言葉を使います。かけがえのないと言う意味は二つあって、一つは、誰とも代えられないという意味だと教えられます。隣の人がカッコいいなとか、若々しいなぁとか、健康だなぁと思いながら、代われるものなら代わりたいと思うこともあるけれど、決して代わることは出来ません。だから私たちの人生はかけがえのない人生なのであって、そして二つ目は、絶対に繰り返すことが出来ない人生だと、教えて下さいました。

 もし、人生が二度あるとしたら、一度目は試しにこっちの道を歩んでみて、ダメなら、二度目には別の道をと考えることも出来るけれど、それは絶対に適わず、人生一度きりの、しかも、戻ることも出来ない人生を私たちは歩んでいる、だからこそ、かけがえのない人生なのですと教えておられます。

 私も本当にそう思いました。私たちの人生はかけがえのない人生だと思います。誰とも代えられないし、繰り返すことも出来ません。更に、その行く先が本当の所はどうなっているのかわからないまま人生を歩んでいるようなものでしょう。だからこそ、大切なのは、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない世界を確認すること」

 そこまで考えてみて私は、アブラハムが、なぜ、あの愛する独り子イサクを主の命令によって献げることが出来たのかが少し分かって来たように思えました。アブラハムは、仮にイサクを神に献げたとしても、そこですべてが終わってしまうのではなく、アブラハムは、既に神の永遠の命を信じ、目に見えないけれど、確かにある世界を信じて、既に望んでいる事柄を確信して、見えない事実を確認することによって、必ず神様のご計画の中に、大きな祝福があるのだと信じて、信じきってその信仰をもって、イサクを捧げようとしたのではないのか、そして、主なる神は、アブラハムのその信仰をご覧になって、アブラハムが願っていた以上の祝福をもたらして下さったのではないのかと思えて来たのです。

 私達は信仰によって何を行うのか、何を行わないのか、そこでいつも悩むのです。これを行ったら人からなんと言われるであろか、これを行わなかったらどんな事を言われるであろうかと思いながら、いつの間にか、主なる神の眼差しではなく、人の目、人の思い、この世の考えに多いに影響を受け、時には支配され、そして身動きが取れなくなっているとしたらそれはとても残念なことではないでしょうか。

 アブラハムは二度旅立ったとも言われます。元々、アブラハムはカルデアのウルと呼ばれる土地に家族と共に住んでおりました。ウルと呼ばれる土地は、チグリス川、ユーフラテス川が海へと注ぐ、河口近くの豊かな土地、メソポタミア文明が栄え、発展していたとても豊かな場所でもありました。しかし、そこを家族で出て、川の上流に向かい、ハランと呼ばれる土地に引っ越しました。これが一度目の旅立ちです。なぜ、そこに移ったのかその理由は分かりません。

 けれど、その場所で、主なる神の声をアブラハムは聞きました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地にいきなさい。わたしはあなたをおおいなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。」その声を聞いて、その神の声を聞いて、まだ見ぬ土地に妻のサラと甥のロトと共に旅立ちました。しかし、アブラハムの人生は多くの困難と試練が待っていたことを皆さんもご存じでありましょう。
 けれど、アブラハムは最後まで、まだ見ぬその先をいつも信じて、神様の祝福を信じて行動しました。すなわちそのようにして生きて来たということでありましょう。

 私たちもまた、私たちがどう生きるのか、どう行動するのか、それはなによりも信仰によって、そして、私たちに与えられている多くの賜物によってそれぞれが全く違う生き方、違う行いをされると思います。けれど、既に祝福は主イエスの十字架と復活によって、神の愛と赦しによって約束されています。そのことを信じて、進んで参りましょう。歩んで参りましょう。全てが相働きて益となる信仰を持ちつつ、確かな人生を生きて参りましょう。

                                                            お祈りいたします。

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