日本キリスト教団 大塚平安教会  

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「わたしの口に新しい歌を」

2020-01-06 14:36:40 | http://www.ohtsukaheian.jp/
【詩編40編1~5節】
【エフェソの信徒への手紙5章15~20節】
 
 新年明けましておめでとうございます。大塚平安教会2020年、最初の礼拝を迎えました。今日は「わたしの口に新しい歌を」というタイトルを付けさせていただきました。詩編40編4節に「わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった。」という箇所からつけたタイトルです。
 新しい年となり、心新たな思いを持って、私たちは新しい歌を歌っていきたい、そのような思いで付けました。昨年12月、少し慌ただしい思いを持って過ごしたクリスマスを過ぎ、先週の一週間、年末年始と改めて詩編40編を丁寧に読み返しておりましたら、一つ気がついたことがありました。
 それは、「新しい歌」と記されるその言葉は、単数形で記されていることです。多くの新しい歌とか、新しい歌の数々ではなく、一つの新しい歌とありました。

 そのことが分かりまして、私が直ぐに思わされたのは、この新しい歌という言葉の更に奥に、歌、あるいは賛美という言葉を通して、この詩編を記した作者は、主なる神はわたしに新しい歌、「新しい信仰」を授けてくださったという思いが込められていたのではないかということです。
 私たちもこの新しい年に、また、新たな信仰が養われるようにと願うわけですが、その為に必要なことは何か。今日は詩編40編を読みましたが、三つのことを申し上げます。一つは2節から「主にのみ」3節から「岩の上」そして4節から「新しい歌」となります。

 一つ目、2節に記された御言葉、「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」ここで大切なことは「主にのみ」です。この方だけが、耳を傾け、大きく体を傾けて、私の叫びを聞いて下さろうとされた、とあります。
 マルコによる福音書の10章46節以降に記されているのは、主が盲人バルティマイを癒したという出来事です。主イエスがエリコの町から出ようとされたとき、盲人であり、物乞いであるバルティマイが町の門の道端に座っていました。その時、主イエスだと聞くと、バルティマイは思い切って精一杯の声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びます。その叫び声を聞いて、多くの人が叱りつけ黙らせようとしますが、それでも叫び続け、ついに主イエスの耳に、その叫び声が入り、主は立ち止まって「あの男を呼んで来なさい」と言われました。
 人々は主が招いておられる、「安心しなさい。立ちなさい」と声をかけました。この安心しなさいは、勇気を出しなさいという意味です。
バルティマイはいよいよ勇気を出して、主イエスのもとに近寄り、「何をして欲しいのか」という問いに対して「先生、目が見えるようになりたいのです」と告げます。 
見えるようになるという言葉は英語では、「リゲイン」とありました。再び元気になるという意味です。ここでは再び見えるようになるという意味です。
バルティマイは、もとは見えていたのでしょう。けれど、目の病とか、怪我とかで失明したのではないでしょうか。
現代のような医者も無く、薬もない時代ですから、目が見えない、それはイコール、夢も希望もないと、人生を断念せざるを得ない人々が多かったと思います。けれど、バルティマイは断念しませんでした。
勇気を持って、あの目の見える人生を取り戻すべき、声を張り上げて、主イエスに願い求め、その願い求めました。

 バルティマイは主イエスに対して叫び続けました。彼にはそれしかありませんでした。それだけがバルティマイの生きる希望であり、主にのみ、望みを置く人の姿であったと思います。
 私たちが生きている現代は、もし目が見えなくなるとしたら、まず、何よりも眼医者に行って見てもらうことができます。適切な治療、手術によって、視力が回復することも多いでしょう。あるいは、もし本当に見えなくなるとしても、社会保証や保険が適応され、それなりの保証を受けるかもしれません。私たちは大変良い時代を生きていると思います。けれど、だから私たちの人生は、いつも夢も希望もあると言えるでしょうか。
 
先日、私の友人の牧師が、年末から年始の時期に、大変な腹痛を起こして、どうもノロウィルスに感染したようで、ずっと寝込んでいたというメールがありました。ただ、それだけでもなく、寝込みながら色々と将来について考えたというのです。自分も既に57歳となってどこまで生きられるか分からない、どこまで現役を過ごせるのかわからない、だから、これからは大切な残された時間を慎重に生きていきたいというのです。私は、なんだか、いつもの彼らしくないな、腹痛から少し気持ちが落ちているのかなと思いまして、私は今年で59歳だけど、後40年どうやって生きようか、楽しみです。と書きました。
すると、少しも楽しみではなく、国の経済破綻から、私たちの年代の年金とか介護保険といった保障は絶望的であるかのような文章が届きました。わたしは、「よし来た!」と返しましたら、少し元気が出たようでした。

 私たちは、いつの間にか自分の頼りを、目に見える保証や保険や年金、社会制度に置いていたりしていないでしょうか。勿論、それらのものは大変大切だと思います。
確かに、そこから安心、安全は与えられるのかしれません。でも、もっと躍動的な、もっと大きなものに向かう力、イザヤ書40章に「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」そのような、何歳になろうと、年齢に関係なく持ち得る自らの夢と希望と将来を生きるためには、主にのみ望みを置くことです。主に対して、叫び続け、求め続け、そして祈り続けることではないでしょうか。主は真剣になって、耳を傾け、体を倒すようにして、私たちの心の奥の声を聞いて下さる。そして、あなたは「何をして欲しいのか」と尋ねて下さっていて、私たちの夢も希望も大いに祝福して下さろうとしている。私たちは、この方にのみ希望を置いて、2020年という新しい年、新たな信仰を持って歩んで参りたいと思います。

 二つ目、3節の「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませてくださる」大切な言葉は「わたしの足を岩の上に立たせて下さる」です。「岩の上」という言葉ですぐに思い浮かぶのは、マタイによる福音書の主イエスの山上の説教でしょう。山上の説教と呼ばれるその締めくくりの7章の24節からの御言葉「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」と主は話されました。

 昨年一年を振り返りまして、誰もが感じているのは、災害の多い年であったということではないでしょうか。10月には台風19号が首都圏、関東を直撃しまして、私たちの教会では直接的な被害はありませんでしたが、本来であれば鈴木崇巨先生をお招きしての礼拝説教、午後からの「学びと交わりの集い」を行えたでありましょう。残念ながら中止とさせて頂きました。
けれど、翌日には台風の被害が明らかになって来まして、私たちの予想を超えた、大きな被害となり、亡くなられた方も多くおられました。現在もなお、その被害の中で、苦しんでおられる方々、少なくないと思います。私たちは、そのためにも、心を込めて祈り、私たちに託される働きがあるならば、喜んで引き受けていきたいと思います。
自然災害だけでもありません。私たちの人生、時には健康を損なうこともあります。家族、親や子ども、仕事、これは試練だなと思うことを幾度となく、経験する方もおられるでしょう。

 私も、どうも昨年最後の礼拝で急に声の調子がおかしくなりまして、以来、一週間たってもどうもあまり回復しません。あまり動かないで正月を過ごしました。年末に買い求めた、キリスト教カウンセリングセンター理事長を務められていた賀来周一の先生の著書をずっと読んでおりました。その中に、少し難しい言葉ですが、外発性の信仰と内発性の信仰という言葉がありました。
 
 外発性の信仰とは、信仰対象を自己目的のために信じることであり、この場合、自分にとって不都合でしかない経験に対しては意味を失い、いざという時には役に立たないとありました。
 内発性の信仰とは、信仰対象を主体として、その対象に生起した事態の全てをゆだねることを意味するとありました。難しい説明ですが、信仰のあり方を、自分を主体とするか神を主体とするか、ということだと思います。自分を岩とするか、神を岩とするかの違いです。

 自分自身を岩とすると、いざという時には役に立たないのです。詩編40編3節をもう一度読みますと、「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませてくださる」とあります。滅びの穴とは「地獄の井戸」と訳されている聖書がありました。地獄、泥沼、どこまでも落ちていく様子が連想されます。まさに人生の試練、困難を思わされます。既に自分ではどうにもできない状態です。
だから主なる神が主体となって、「わたしを引き上げてくださり、わたしの足を岩の上に立たせて下さり、わたしの足を歩ませてくださる」のです。
 
 昨年12月、クリスマスを祝う礼拝において、私は何度も「主が共におられる」という御言葉を申し上げました。マリアにも、ヨセフにも、羊飼いにも、東からやって来た博士達にも、御子イエスの誕生に関して登場する一人一人の、その全ての人々に主が共におられました。そのようにして、いつでもどんな時でも、主が主体となられて、ともにおられるのです。
 
 だから大丈夫、どんな試練を通しても、主は私たちを主の岩に立たせて下さり、尚歩ませて下さいます。そういう方が共におられて、岩のような確かな土台として、私たちの人生に主イエス・キリストが深く関わりを持って下さっている。

 だから三つめ「わたしの口に新しい歌を わたしたちの神への賛美を授けてくださった。」鍵となる御言葉は「新しい歌」です。先ほどの賀来周一先生は、霊的なという言葉を意味するスピリチュアリティーを説明する中でこう記しています。「スピリチュアリティーとは、健全で成熟した宗教に共通する本質的な要素であることは確かなことです。「健全で」ということは、まず過去の歴史に責任を持つ宗教であることを意味します。」とありました。更に続けて「いかなる宗教も、この世の歴史の中では過ちを犯して来ました。キリスト教もその例外ではありません」と記します。確かにキリスト教の歴史を学べば学ぶほどに思わされるのは、宗教の歴史でありながら、なぜこんなに生々しいというか、争いだらけの歴史なのだろうかと思わされるところがあります。
 
 でも、それが人間の業だと開き直るのでもなく、人は欠けが多いから、罪深いからと言い訳するのでもなく、大切なのはその過去に責任を持つことだと言うのです。
 責任とは、その一つ一つの出来事が、古い事として忘れてしまうのでもなく、無かったことにして新しい歌を歌うというのでもなく、過去のあの事、この事をしっかりと踏まえて、悔い改め、より謙遜に生き、その上で過去のあの事があったから、今がある、あの出来事を通して自分の成長がある。どの出来事も無駄ではなく、この試練を通して主なる神はまた、わたしに新しい歌、新しい信仰へと導こうとされていると受け止め、そして受け止めるだけでなく、そのようにして新しい歌、新しい信仰を生きていけと私たちに教えておられるのだと思います。
 
 主なる神が主体とならなければ、教会の成長はありえません。私自身、大塚平安教会に招かれて今、10年目を過ごしています。この10年の間で、私自身、様々な喜ばしい事、幸いな事が多く与えられました。しかし、また、時には様々な試練も与えられました。それらの出来事の全てを忘れてはならないと思います。けれど、それでも頭を上げて、主が私を「地獄の井戸」から「泥沼から」しっかりと引き上げて下さり、わたしの口に新しい歌を授けてくださることを思います。そして、わたしだけではなく、私たちの神への賛美を授けてくださったことを思います。

 私たちはそれぞれに多様な生き方をいきております。それでも一つの信仰共同体として、新しい年を、新しい信仰をもって歩んで参りましょう。

お祈りします。

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