日本キリスト教団 大塚平安教会  

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根気よく祈り続けていく

2019-04-01 10:40:41 | 礼拝説教
【歴代誌下6章17~21節】
【エフェソの信徒への手紙6章17~20節】


 今日から、教会の試みの一つとして、午前7時から礼拝を行います。礼拝は10時30分からの礼拝とあまり代わりが無いように、と考えましたが、それでも、いくつか違うところがあります。例えば大きな違いは、7時の礼拝に奏楽者を求めることは、現在の所、困難ということもあり、ヒムプレーヤーで行うことにしました。

 礼拝も、司式者を立てないで、私が行うこととしました。ですから当然、礼拝の祈祷は私が献げることになります。ということは、小さな違いと言えると思いますが、いつもの礼拝では説教前に私は小さな祈りを献げます。この祈祷は、前任の鈴木先生が、そうされていたのかどうかはよく分かりません。もし、献げていなかったとしたら、当初、皆さん少し戸惑いを感じた方もおられたかもしれません。

 御言葉を取り次ぐ役割をさせて頂く前に牧師が祈祷を献げる。献げなければならないと教えられたことはありませんが、司式者と説教者がそれぞれに立てられる礼拝の形式では、牧師が説教前に小さな祈りを献げる姿を私はこれまで多く見て参りました。不思議なことに、特に私が尊敬する先生方の皆さんがそうされている。

 ですから、人は触れる物に似ると申しますけれど、説教前に祈りを献げてからと決めて、これまでそう行って参りました。祈りを献げると心が落ち着き、改まった気持ちを持って説教に入ることが出来ますし、皆さんの多くの方々も、私が説教の為に、この場に立ちあがりますと、既に祈りの姿勢を整えておられる方も見られます。

 同じキリスト教、またプロテスタント教会と一口に言っても、教会によって礼拝順が違います。時には大きく違う礼拝順であったりして戸惑いを覚える時もあります。でも、その教会では毎週、その礼拝スタイルが、普通ですから違和感はないと思います。礼拝とはこういうものだと思っている。つまり体に馴染んでいるわけです。

 体に馴染んでいるとは、自分の物になっている、心が安定している状態です。キリスト教の礼拝は日曜日の午前に行う。そのうちに7時から行う、ということも馴染んでくるかもしれません。
 つまり、繰り返し、繰り返しの中で、それが身についてくるということでしょう。そういう意味でも、私たちの日常生活において、深く馴染んで行きたいと願うことの一つに「祈り」があると思います。

 2018年度の礼拝は、エフェソの信徒への手紙を中心に据えて、礼拝、説教を守って参りました。今年度の私たちの教会の年間聖句は「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」エフェソ書5章1節の御言葉を据えて、一年間過ごして参りました。

 神に倣う者として生き方があると思います。その一つは、やはり「祈り」だと思います。主イエスが地上で宣教活動されるにあたって、多くの群衆に囲まれ、休む暇もないほどであったと記される一方において、主は「群衆を解散させてから、祈るためにひとり、山にお登りになった。」(マタイ14:23)とか、「ペトロ、ヨハネ、ヤコブの弟子を連れて、祈るために山に登られた。」(ルカ9:28)とか、あるいはあの五つのパンと二匹の魚でもって大勢の群衆の空腹を満たすために行われた奇跡においても、何よりも祈りを献げて行われています。 

 あるいは主の晩餐やゲッセマネの祈り、主イエスはいつも祈りを大切にされてこられた。誰もがその通りだと思われるでしょう。

 しかし、それは主イエスだけがそうであったという訳でもなく、信仰を持つ者が与えられた恵みの一つとして、主なる神に対して私たちは祈ることができる。それは大きな喜びでもあると思います。

 しかし、私たちは祈ることにどれほど馴染んでいるのか、という思いもあります。

 馴染むとは「安定している状態」と申しましたが、いわばキリスト教国ではない私たちの国で、例えば教会や家の中で、食前の祈りを献げるとしても、レストランや食堂で祈りを献げてから食事をするのは正直、勇気がいります。

 20年以上も前になりますが、私たち夫婦が結婚して新婚旅行にアメリカに行きました。当時アメリカに家内の伯父が牧師をされていた。そこを訪問して、伯父のご家族と共に外のレストランに行って、何を食べたのかはもう覚えていませんけれど、大勢の客がいる中で、大声で食前の祈りを献げ初めてもうビックリしたことがありました。 

 でもアメリカですから、一応プロテスタントの国ですから、そのような様子に、周囲は全く気にする様子もありませんでしたが、気を使って静かにもしてくれませんでした。でも、それが日常生活なんだなと思わされました。つまり、馴染んでいるのです。自分のものとなり日常のこととして行われているのです。

 私たちの国では、そこまで日常生活の中で、特に教会や家の他で「祈り」が馴染むには、まだまだ年月が必要であるかもしれません。

 しかし、またここで「祈り」が馴染むこと、自分のものになること、本来そうなるのが良いと思いますけれど、すっかり馴染み、自分のものになるとどうなるか、というとそこに本当に心を込めて行うことが出来るのか、という問いが出てきます。

 礼拝で捧げられる「主の祈り」があります。多くの方は文章を見なくとも、暗記しておられますから、滞りなくスラスラと祈ることが出来ます。すっかり馴染んでいるとも言えるでしょう。けれど、宗教改革者のルターは「主の祈りこそ、最大の殉教者だ」と言ったといわれます。祈るには祈るが、暗記したものを祈っているのだけであって、そこにどれだけの意味を感じて、思いを込めて祈っているかと、問われているということでしょう。ルターは500年以上も前の人ですけれど、既に、その頃、そう言われたわけですから、馴染むことが必ずしも全て良いこととも言えないとも思います。

 先ほど、主イエスが「ペトロ、ヨハネ、ヤコブの弟子を連れて、祈るために山に登られた」と申しましたが、山に登られた時に、主の体が白く光り輝き、そこに旧約聖書の預言者であるエリヤと、主エジプトの指導者モーセが現れ、主イエスと話をする場面が記されています。弟子たちは驚き、主の前にひれ伏しこの方は、まことに私たちの救い主であると確信したであろう場面だったと思います。

 しかし、その時、山の下では、一つの出来事があり、ある父親が、悪霊に取りつかれた息子を癒してもらいたいと、山に登らず残っていた弟子たちのところへやって来ておりました。弟子たちはその願いを聞き、それこそ必死の祈りでもって、子どもが癒されるように祈ったでしょう。けれど、その子供は癒されませんでした。そこに主イエスが山から降りて来られて、状況を把握して、弟子たちに対して「なんと、信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と叱られたわけでありました。

 主イエスは弟子たちの何に対して叱られたのかというと、あなた方は一体これまで祈りについて何を学んできたのか、なんとも我慢ならん程だと言うのです。あたかも母親が子供に対して、「何度言ったら分かるの。何回言ってもやらないんだから」と怒っているようなものだという解説がありました。

 なるほどそうかもしれないと思います。それから主は、その子を自分の所に来させて、「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。」というと悪霊は叫び声をあげて、ひどくひきつけさせて出て行き、子どもを癒されました。
 弟子たちはその様子に驚き、主に訪ねます。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」主は「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」とお答えになりました。
 「祈りによらなければ」この言葉を皆さんはどう考え、どう思われるでしょうか。
 
 この子の父親は、子どもが癒される前に主イエスと会話をしています。主イエスに「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と願った。その言葉に主は「出来れば」と言うか。信じるものには何でも出来る。と話された。その言葉を聞いて、即座に父親は「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」と懇願したのです。

 私は、この会話が大切だと思います。ここに祈りの大切な鍵があると思う。

 それは、徹底的に神に対する信頼です。流暢な言葉を用いて、聞く者が感動するほどに祈れる方もいます。ボツボツと、あるいはとぎれとぎれにやっとの思いで祈られる方もいます。でも、大切な鍵は、祈りが上手いとか下手というところではなく、すっかり体に馴染んでいるのか、というだけでもない、ただ必死に、「主よ、私たちの主よ、私たちの救い主よ」と、この父親の様にただ「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」というこれだけの短い祈り、でも、もしかしたらこの父親が生まれてこれまでの間、何度も繰り返し、子どもの頃より祈り続けて来た、どんな祈りにも勝った、必死の思いが表された祈りであったかと思うのです。

 エフェソの信徒への手紙の6章18節を読みます。「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」とパウロは告げました。エフェソの教会に対して宛てられた手紙の締めくくりとして相応しい御言葉だと思います。

 これまで読んで参りましたように、エフェソの信徒への手紙は、パウロがなんとかして、この教会が一つになるように、しかも、その一つとは、ユダヤ人と異邦人、妻と夫、親と子、奴隷と主人というように、本来、決して一つではなく、支配する側と、支配される側とが、聖なる者と野蛮と見なされていた者とが、主にあって一つとなって、これまでのこの世の常識とか、これまですっかり生活の中に馴染んでしまって、それが当たり前になっていたこの世の思い、考え方を変えて、あなたがた信仰者は主なる神の民として、神の家族として一つとなって欲しい、そんな思いを持って記した手紙です。

 しかも、この時パウロは恐らくローマにいて囚人として囚われての身でありましたから、恐らく二度と会うこともないだろうと思いつつ、記したと考えますと、なお、互いが、心を込めて主に祈るように、「絶えず目を覚まして」つまり、しっかりと意識して、更に「根気よく」祈るように勧めているのです。

 祈る時もあり、祈らない時もありではなく、祈りに必要なことは、絶えず、根気よく、体を鍛えるために、毎日のトレーニングが必要なように、楽器が上手になるためにも毎日の練習が必要なように、絶えず、根気よく、祈り続けることです。
 世の中は、不思議なことに、人が一生懸命に、なんとかしなければと思いながら行おうとすることに対して、批判したり、反対したりします。エフェソの教会は、ユダヤ人と異邦人が一緒になって礼拝しているそうだ、夫と妻が一緒になって、同じ場所で礼拝しているそうだ、親と子が横に座って礼拝しているそうだ。主人と奴隷が一緒に祈っているそうだ。そんな批判、非難が聞こえて来ていたのではないでしょうか。
 
 あるいは、そんなことするものじゃない、いつもが良いんだよ、楽なのが良いのだよという声も出て来ていたかもしれません。でも、大切なことは、心を込めて、絶えず、根気良くです。どんなことがあるとしても、主は我と共にいます。インマヌエルの信仰を持って、私たちは、祈り、願い、主に祝福を求めて歩んで参りましょう。

 お祈りします。
ジャンル:
きいてきいて
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