日本キリスト教団 大塚平安教会 

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岩を水に変える方

2021-06-13 12:14:55 | 礼拝説教
【詩編114編1~8節】
【ヨハネによる福音書4章7~15節】

 今日読みました詩編114編は、先週読みました詩編113編と共に、出エジプト記に記されるイスラエルの民の出エジプトの出来事が記されている詩編です。113編は主の過ごしの出来事に触れ、114編は出エジプト直後の民の様子について記されています。
 
 イスラエルの民は、430年に亘り言葉の違うエジプト人と共に住み、しかし、ついには奴隷とされてしまいます。その労働の故に助け求める彼らの叫びを聞いた神がモーセを指導者として立て、出エジプトの出来事は起こりました。モーセはエジプトのファラオのもとへ行き、自分達を解放するように何度も掛け合います。けれど、なんとしてもエジプトを出て行くのは許さないファラオでしたが、主の過越しの出来事によってファラオに勝利し、イスラエルの民、男性だけで60万人といわれる人々がエジプトを出て行くことになります。この出来事はイスラエル民族にとって、決して忘れられない特別な出来事であり、神我らと共におられると感じられる、喜びの出来事でありました。

 先週の水曜日に行われる祈祷会では出エジプト記の13章を読みました。そこにはこう記されていました。「昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することが出来た。」イスラエルは神の印として示された雲の柱、火の柱によって荒れ野を進みました。
 
 雲の柱、火の柱は人々を力付け、喜びに満たし、安心を与えたことには間違いありません。けれど、安心が与えられた所で、イスラエルの民は荒れ野の旅に不満がありました。

 雲の柱、火の柱は安全に、あるいは、近道をして約束の地、カナンに向かったわけではありません。柱が向かった先は荒れ野でありました。

 その為、どうなったのか、イスラエルの脱出を許したファラオは、直ぐに心が変わり、後悔し、彼らを連れ戻すために軍勢を率いてイスラエルを追いかけます。「エジプトの戦車の全てを動員し」とありますから、エジプト全軍でもって追いかけたのでしょう。彼らはイスラエルの民の姿を捉えました。

 驚いたのはイスラエルの人々です。荒れ野に導かれ、行き詰まり、前には葦の海、後ろにはエジプト軍、もはや絶体絶命です。人々はモーセに訴えかけます。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓が無いからですか。荒れ野で死なせるためですか、一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」「我々は荒れ野で死ぬよりはエジプトに仕える方がましです」とまで言い出す始末です。

 モーセは人々を落ち着かせ、海に向かって自分の手にある杖を上にあげると、海が二つに分かれて、人々は別れた道を進むことが出来ました。彼らとエジプト軍との間には雲の柱が立ち、イスラエルを守った様子も記されています。
エジプト軍との危機を逃れた彼らは、今度こそ安心して進みだしたのかというと、荒れ野の中を進む彼らは、今度は「お腹が空いた」と訴えました。「エジプトには肉もあったし、パンもあった。今、我々は飢えで死にそうだ」と不平不満を訴えます。

 その訴えに、モーセは人々に対して、神は夕方には「うずら」の肉を、朝にはマナと呼ばれる白いウェハースのような食べ物を用意して下さると告げ、そのようになり、人々はお腹を満たします。けれどすぐに、イスラエルは「喉が渇いた」と訴えるのです。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺す為なのか」とモーセを打ち殺しそうな勢いで迫るのです。モーセは慌てて主に祈り、求めたところ、主なる神は、ホレブの岩を杖で打てば、水がほとばしるであろう、と告げられ、言われた通りにすると岩から水が出て、人々は喉を潤すことが出来、難の逃れることが出来ました。

 この様子について、ある牧師は、この姿は私達の信仰生活のようであり、私達の人生のようでもあると説明しました。

 私たちは、人生のある時点で信仰を得て、神我と共におられると信じて洗礼を受けます。洗礼を受けた時は本当に嬉しいものです。自分が受ける時には緊張してよく覚えていないという方もおられますが、後で別の人の洗礼式を見て大きな感動に包まれる時があります。この場に主が共にいてくださっていると新たな確信が生まれて、主にまた自分も生きていこうと心が改まる思いがする。
 けれど、そのような感動が長く続かず、いつの間にか世の中の思い煩いに飲み込まれて行く、飲み込まれながらつい不平不満をつぶやく、主なる神は本当にいて下さるのかと思う。与えられた状況に翻弄されて、神様どころではないなどと思ったりする。それが私達の歩みかもしれません。

 先日、我が家に私の母親の年金給付書というものが届きました。それを見た家内がまた減額されていると私に見せてくれました。私は母親が幾ら年金を貰っているかも詳しくは知りませんでしたが、もともと生きていくためにも全く足りない額でしかないのに、そこから更にまた減額されていると聞いて本当に驚きました。驚くだけでなく、だんだんと腹が立って来ました。国は人ひとりの命を本気で守ろうとしているのだろうか。腹が立つだけでもなく、悲しくなりました。

 けれど、問題は母親のことではなく、自分達は大丈夫だろうかと、それから暫く家内と話し込みました。一体自分達はどうなるのか。これまで家内の母親の世話も含め、親の介護を通して、介護保険であるとか、介護度の違いであるとか、デイサービスのこととか、老健とか、特養とか、ある程度は分かるようになりましたが、自分達の年金はどうなっているのか、これまで殆ど考えたこともありませんでした。
ですから家内と話した後に、本屋に行きましてその仕組みについて記されている本を今呼読んでいます。本当に年を取った時に、自分達はどのように生きていけば良いのか、自分で理解出来ていなければならないと思ったからです。イスラエルの民のように、困った時になると、出来事に翻弄されて、不平不満をぶちまけ、愚痴を言うだけにならないようにしなければなりません。

 それでも尚、人間の努力には限界がありますし、どんなに備えたとしても予期せぬ出来事はいつでもあって、病や怪我はいつも心配ですし、私達の国は自然災害も頻繁にあります。今、私達が直面しているコロナウィスルの世界的大流行は、私達がどんなに予防策を練っていたとしても、尚、困難があるという事実を表しているかのようです。ここまで考えてしまうと、殆ど諦めに近い感覚にさえなります。

 でも、皆さん、大切なことは、それでも尚、主なる神は私達と共におられるということではないでしょうか。出エジプトを果たしたイスラエルが、しかし、その後どんなに不平不満を告げて、腹が減ったの、喉が渇いたの、と言っても主なる神は怒るでもなく、呆れるでもなく、海を二つに割り、鶉を与え、マナを与え、岩から水がほとばしる、人には出来ないその一つ一つの業がなぜ起こったのか、主なる神が、イスラエルを愛しておられたからでしょう。そして、主はどんな時でも、共にいてくださるという信仰をイスラエルの民が、民の全体が養うためでもあったと思います。その信仰の養いとして荒野の40年という時間が用いられることになるのです。

 詩編114編の7節には「地よ、みもだえせよ、主なる方の御前に」とあります。「みもだえ」とは「震える」という言葉です。あなたがたは神の御前に礼拝する中で、神の御前に震える思いを持って礼拝せよ、しかし、その震えは怖さ故の震えではなく、圧倒的な喜びの故にですよ。

 人の業においてはもはやこれまで、万策尽きて、打つ手無しとなるとしても、神は硬い岩を水の溢れる泉とする方であった。この方が共におられた。だからまだあきらめないでいきていけると、私たちは希望をもつことが出来るのです。

 私たちの雲の柱、火の柱は、主イエス・キリストです。この方が私達の人生を導いてくださり、私達と共におられる方です。主イエスは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と話されました。
硬い岩から泉になるほどに水を出してくださる方のその水をどれほど飲んだとしても、人々はまた喉の渇きを覚えたことでしょう。けれど、主イエスが与える水は、渇くことのない永遠に至る水であります。一時だけでなく、命の水として、永遠に主が私達と共におられる。だから、私たちは私達が生きるこの世を、確かな足取りでもって生きていきましょう。私は既に世に勝っていると告げる主にのみ頼り、状況に負けずに進んで参りましょう。

 お祈りします。

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