日本キリスト教団 大塚平安教会 

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主に目を注いで

2021-09-05 18:38:21 | 礼拝説教
2021年9月5日(日)聖霊降臨節第16主日 教会の一致と交わり

大塚平安教会 礼拝説教

聖書箇所  詩編123編1~4節
      コリントの信徒への手紙二 4章16~18節

説教題  「主に目を注いで」

説 教  菊池丈博牧師


主に目を注いで



以下 原稿になります。

 本日は詩編123編を読みました。詩編120編から続きまして「都に上る歌」とタイトルが付けられています。エルサレムから遠く離れた所に住んでいる人々が、巡礼の旅をしてエルサレムの神殿に向かう過程において読まれた歌であろうと考えられます。
 
 詩編の読み方にも依るわけですが、一つの読み方として、詩編120編はこれから始まる巡礼の旅が安全で、無事に到着しますようにとの願いが込められた詩編。121編は、時が来て、いよいよ出発、「目をあげて、山々を仰ぐ」とありますが、あの山の向こうにはエルサレムがある、遥かに望みみて歩みだした様子が記されている。122編は旅が終わりに近づき、ついにエルサレムの町の門をくぐり、城門の中に入って来た喜びが記されて、そして本日の123編エルサレムの神殿において礼拝を献げる様子が記されている、そのように考えることも出来ると思います。

 長い旅の後、ついにこのエルサレム神殿で礼拝を献げている「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。」とあります。2節には「わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます。」とあります。
礼拝とは「目を上げて、主なる神を仰ぎ見る」ことです。半年近く前になりますが、今年の4月3日、イースター礼拝の前の日でありましたが、この礼拝堂で結婚式を挙げました。式の前の日は準備のために、会堂に花を飾り綺麗に整えました。その状態で写真を撮って、知り合いの方々にも見てもらおうと思いまして、パソコンのFacebookにあげました。知り合いや、教会員の方、何人も見てくださった方おられるでしょう。

 見た方の中に、友人の牧師が写真を見て、コメントを入れてくださった。「しかし、素敵な礼拝堂ですね」短いですけれど、この言葉は心からの言葉だと感じました。私達の教会、礼拝堂が建てられたのは2015年です。いつのまにか丸六年が過ぎています。六年過ぎましたけれど、この礼拝堂がどんなに素敵であって、見事なものであるのか、私たちはどこかで慣れてしまっていますけれど、初めてこの礼拝堂を見る方は大きな感動を感じる方とても多いと思います。

 西欧の教会を尋ねた方も多くおられると思いますが、長い歴史を経て立ち続けている教会は、ほぼ例外なく空に向かう高い塔が目印で、大きく美しいステンドグラスが窓にはめられ、私達が頭で想像する教会の規模を大きく上回り、圧倒される思いがした方も多いと思います。まさに「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎ見る」という御言葉に相応しい会堂を建てようとしたそんな人々の思いを感じることが出来ます。

 しかし、建物よりも更に大切なことがある。それは礼拝そのものです。ある牧師先生が、礼拝とは何か信仰とは何かという問いに対して「驚き」であると答えておられました。

 天地創造の神であり、私達に命を、人生を与えてくださった方が、御子イエス・キリストをこの世に送ってくださり、送られただけでなく、この方の命を持って、私達の罪を贖い、十字架にかけられ死に、しかし、そこで終わりではなく三日後に死に打ち勝ち、復活されて弟子達に現れてくださった。更に、神の聖霊を受けた弟子達は、この方こそ、私達の真の神であり、この方こそが、私達の真の救い主であると受け入れ、感動を持って、すなわち「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます」という思いを持って、世界中の人々に対して福音の宣教を始めました。どこで宣教したのか、街の中で、道路で、広場において宣教活動したでありましょう。けれど、どこよりも宣教の場となったのは、会堂における礼拝であったと思います。

 礼拝に集いつつ、弟子達が話す言葉と、主イエスを通して示された神様の御計画を知らされ、多くの人々が主イエスを受け入れました。なぜ受け入れたのか、説明を受け入れたのではなく感動したからですよ。人は驚き、感動する事柄に影響を受けるのです。礼拝は神の業が示される驚きの場所であると私も思います。

 では礼拝で一体何に驚くのか、主なる神が自分と共におられる、その確信に至る、ことに驚くのではないでしょうか。礼拝は驚き、感動するのです。

 建物に感動する、それも大事でしょう。でも、その何倍もの驚きを持って「神、我らと共におられる」インマヌエルの主が自分と共におられると信じられる所では、どこであろうとも礼拝は出来るとも言えるでしょう。
 
 創世記28章に「ヤコブの夢」という箇所があります。アブラハムの孫であり、イサクの息子であったヤコブは、双子の弟で、双子の兄はエサウという名前です。エサウが兄ですから、エサウがイサクの後を継いで家や財産を守る。それは既に決まっていることでありました。
 けれど、母のリベカは兄のエサウより弟のヤコブを気に入っていて、目がよく見えなくなっていたイサクをだまし、イサクは弟のヤコブに家督を継ぐ祝福を与えてしまいました。勿論、兄のエサウは怒り、父イサクもだまされたわけですから、ヤコブは家を継ぐどころか、ついには逃げるようにして一人家を出るという結果となるのです。
 
 家を出たヤコブは、旅をするにはあまりにも少ない荷物で、連れもなく一人とぼとぼと歩いていたことでしょう。日が沈み、夜となり、しかし宿を取る家もなく、ついに野宿を決心するわけです。勿論、寝袋のようなものも無かったでしょう。側にころがっていた石を取って、それを枕に横たわりました。
 しかし、その夜ヤコブは夢を見ました。先端が天まで達する階段が、地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしている夢でありました。更に、主が傍らに立ってヤコブに話しかけました。
 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。」とヤコブを祝福するのです。
 
 家族をだまし、祝福を得たまでは良かった、けれど、結局は家を追い出され、あんなことしなければ良かった、これからどうやって生きていこうかとどんなにか落胆し、力を失っていただろうヤコブの所に、兄のエサウの所ではなく、追い出された自分のところに主なる神がやって来られて、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなると祝福の約束を示して下さったのです。

 ヤコブは飛び起きました。そして、まことに主がこの場所におられたことを知り、恐れ戦き、枕にしていた石を取って記念碑として立てて、先端に油を注いで、礼拝を献げその場所をベテル(神の家)と名付けたのです。

 ヤコブが絶望の中でこそ、主なる神が自分の所におられる、主我ともにおられることを知り、驚き、恐れ、しかし、それは神の民となる瞬間でありました。
 
 皆さん、礼拝において、主なる神が自分と共におられると知ることです。自分の行いによるのでもなく、自分の信仰によるのでもなく、絶望の中にいようと、落胆していようと、主なる神がこの自分と共におられる、その驚きを、礼拝を通して体験することです。そして、目を上げて、わたしはあなたを仰ぎますと祈ることです。
 
 主我と共におられることを知る時、何が起こるのか、先ほどコリント書を読みましたが、そこには落胆しない人生を生きられるとあります。「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。外なる人とは、目に見える部分です。美しい礼拝堂もどんなに頑張っても残念ながら古くなって、傷んでくることでしょう。西欧の教会では、毎年莫大な補修費が必要だとも言われます。
 そのようにして外なる人は衰えていくのです。けれど、私たちの「内なる人」は日々新たにされていく、毎日、新たにされていく、目を上げて、主なる神をしっかりと仰ぎ見ることです。礼拝において神我と共におられることを確認することです。

 時の総理が変わることになっても、コロナ禍の中で緊張状態が続いているこの時代であろうとも、外なる人は変わりゆきます。そのような状況に押し流されることなく、私たちは、主を見上げて、主を仰いで、この一週間も過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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