日本キリスト教団 大塚平安教会  

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主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください

2019-05-13 15:13:12 | 礼拝説教
【詩編5編1~4節】
【ルカによる福音書4章42~44節】

 詩編5編の前半の箇所を読んで頂きました。特に4節から「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。」という説教題をつけさせていただきましたが、「朝ごとに」とは、毎朝ということです。

 この礼拝に集われておられる皆さんの中にも朝起きたら、なによりも早く、朝の祈りから始めるという方もおられるでしょう。教会では毎月、その月のスケジュールが分かるように「教会の歩み」を発行しています。丁度今日が「教会の歩み」の4月分を発行しまして、既にお手元にお持ちの方もおられると思います。

 そこには毎日お祈りする方という欄が記載されてあります。毎日、毎朝、「その方を覚えてお祈りしています」と話して下さる方が何人もおられます。中には、毎朝、一人ではなく、もうあの人も、この人も、何人もの方々を覚えてお祈りして下さっている方もおられます。私たちの生活が、私たちの信仰が、私たちの命が守られ、支えられているのは、勿論、主なる神の支えの中にありながら、しかし、また、このようにして信仰の仲間、隣人を覚えて祈っておられる方がおられる、その祈りの中においても、また人の信仰は支えられているのではないでしょうか。
 
 丁度一年、を少し過ぎましたが、家内のお父さんが昨年3月4日に天に召されました。3月4日は日曜日でしたが、その日の朝に義父は礼拝に出席するために、家を出て駅まで行ったというのです。駅まで歩いて少しフラフラすると思って、無理しないようにと帰宅したその日の夜に召されました。義父は、長年の習慣で朝起きたらすることが決まっていました。一つは目が弱かったものですからヨーグルトにブルーベリーのジャムを入れて食べること、それから毎日、毎朝聖書を読み、読んだ聖書箇所を日本語と英語でノートに書き写し、そして祈ることでありました。自宅での仕事がメインでしたから、そういったことも出来たのだろうと思います。

 忙しい日でも、どんな日でも欠かさず、聖書を読み、そこでしっかりと祈って仕事にとりかかっておられたと思います。今、家内の弟が、教会のSさんのように、決断して自分のこれまでの仕事から離れて神様のお役に立ちたいと願い、神学校に通っておりますが、ある時に、家内の実家で会話をしていた時に、弟が義父に聞いたのです。お父さんは牧師になりたいと思わなかったの?そう聞いた時に、義父は、正直な気持ちだったと思います。「いや、もうグラグラだったよ。」家族中で大笑いしました。でもその後、色々な事があるからな、と言って、なりたかったけれど、ならかった。その正直な思いを告げていたことを思い起こします。

 義父は牧師への道を歩むことはされませんでしたが、毎日、毎朝そうやって自分の信仰の養いの為に、だけでなく、家族の為に、教会の為に、教会員の為に、そして所属する牧師の働きの為に祈りながら生きて来られた方であったと思います。そして、そういう方は、何が違うのかというと、話す言葉が違うのです。どんな時でも、人を励まし、人を助け、人を思い、祈り続ける。何気ない一言が、聞く人の心を潤し、力付けることが出来るのです。ですから私は家内よりも、出来ればお父さんと結婚したかった(笑)と思う程です。

 「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いて下さい。」朝ごとに、それは一日の始まりを意味します。一日の始まりは、人によって5時に起きられる方、6時に起きられる方、7時に起きられる方、8時の方、色々とあると思います。人によって朝の時間も違えば、忙しさも違うわけですから、とても朝落ち着いて祈る時間も無いという方もおられるでしょう。でも、朝ごとにという意味は、朝一番先に、ということでもあると思いますが、その人の心の中に何を一番としているのかということでではないでしょうか。
 
 詩編5編を記した著者、ダビデの詩とありますけれど、学者の間では、どうもダビデが作ったものではないだろうと言われています。記されている詩の内容を読むと、主なる神を信じていない人々から、神を信じている人々に対する抑圧、迫害があり、それ故に主なる神に今のこの状況をどうか守り、助け、救いの手を差し伸べていただきたい、そんな願いが読み取れる文章が続いています。

 「主よ、わたしの言葉に耳を傾け つぶやきを聞き分けてください。わたしの王、わたしの神よ 助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。
 主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。」著者は抑圧、迫害の中にあって、苦しい、辛い状況、厳しい事態に追い込まれていたと思われます。

 私たちの人生も、人生を過ごす中にあって嵐の中を生きているような時も訪れます。思いがけない病気になる、順調に仕事をしていたと思っていたのに、経営が困難になる、また職を失う、親となってしみじみと思うのは、どんなに子どもの事で苦労するかということでもあります。人生の嵐と思われる事態は幾度もやって来きては、大きな波に飲み込まれそうになるのです。

 けれど、そこで改めて問われてくるのは、自分の中で何を一番としているのかということだと思う。主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。この苦しい状況を、この辛い困難を、この迫害を乗り越える知恵と勇気を与えて下さいと祈り、そして、起こってくる出来事の人一つに心が持っていかれそうになる。その時こそ、祈って、出来事に持って行かれるのではなく、主にあってしっかりと耐えて、それらの出来事さえも、宝として、自分が生きるだけでなく、他人をもしっかりと支え、困難の中から祝福が出て来る、そのような生き方を生きていけるようにと祈ることです。

 今、教会は受難節、レントの中を過ごしておりますけれど、9時からのファミリー礼拝で読まれました聖書箇所は、ヨハネによる福音書の19章という箇所でした。主イエスがピラトから尋問を受け、会話をする中で、ピラトとしては、どうもこの男は何も悪いことをしているようでもない、何も罪を見いだすことが出来ない。言ってみれば、ただのみすぼらしい一人の男でしかないのです。だから、主イエスを、大祭司や人々の前に連れ出して、「見よ、この男だ」と言うのです。こんなみすぼらしい、弱そうな男を見ろ、というのです。この男が本当にあなたがたの王なのか、この男に一体なんの罪があるのだとピラトは言ったつもりだったのでしょう。

 けれど、人々は主イエスの姿を見ると、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続け、この男は、自分が神の子と自称したから律法では死罪にあたると譲りません。

 ピラトは困ってしまうし、人々は譲らないし、その状況の奴隷となっていく、でも、その中で、一番落ち着いていたのは主イエスではないでしょうか。既に、自分は十字架に付けられる、そういう覚悟を持って全てを引き受ける思いをもって、動揺していないのです。

 何よりも、自分には父なる神が共にいて下さるという思いと、この方を一番とする生き方によって動じない。このことをも通して、確かに神は宝物に変えて下さることを信じておられたのだと思います。そして、事実、その信仰は、十字架の死を乗り越えて、死に勝利した復活の主イエスの姿を弟子たちに、そして私たちに見せて下さったではありませんか。

 「主よ、朝ごとに」その祈りは、私たちにとっては、誰を、そして何を一番として生きるのか、更に、私たちには多くの試練が与えられるとしても、主は乗り越えられない試練を与える方ではないことを、信じられる祈りなのです。それ故に、その祈りは私たち自身の祈りでもあろうと思うのです。

 更に、詩編の作者は、「わたしの声を聞いてください」とも祈りました。ここに、キリスト教がキリスト教たる大きな所以があると私は思います。
 主は、生きておられる。私たちの声を聞いて下さる方としておられる。迫害にあう、抑圧される中にあって、確かに主イエスはどこまでも堂々としておられました。けれど、私たちは神ではありませんからそんなに落ち着いていられない、堂々としていられない。詩編に「主よ、わたしの言葉に耳を傾け つぶやきを聞き分けてください」とあります。つぶやき、あるいは呻きとも訳せるこのことばは、つぶやきですから不平、不満ということかもしれない、呻きとはもう苦しみの中で、言葉にもならない、つぶやきにさえならない苦悩を現しているとも言えるでしょう。

 でも、そのようなわたしのつぶやき、呻きを「聞いてください」と祈ることが出来る、生きて、聞いて下さる方がおられるというのです。そして、決してそのつぶやき、呻きに「それじゃだめだよ」とは言われないのです。「それじゃやだめだよ」とは言われなくてなんと言われるのか。「よく分かるよ、そりゃ~、つぶやきたくもなる、呻きも出る。本当によく分かる、あなたは本当に精一杯に生きているよ」とそういって下さいます。

 幼稚園のお母さん方にも聖書の会などでもよく話すのですが、「先生、子どもが勉強しないのです。どうすれば良いでしょうか。」と聞かれる。「先生、夫が少しも子育てに協力してくれないのですがどうすれば良いでしょうか。」だから、「それじゃ、だめだ」「それじゃ、だめだ」と子どもにも夫にもつい言葉が出てしまうでしょう。そんな言葉は一切やめて「あなたは頑張っているよ。私にはよくわかっているよ」って言ってみてください。そう話すのです。そうすると子どもも夫も、あなたも変わりますよ、と話すのです。でも、そういうと必ず言われる言葉は、そんなことを言ったら、相手はつけあがりませんか、と必ず聞かれます。
 つけあがらないからまあ言ってみてください。はい、わかりました。と帰って行って、一か月後にやって来て、先生、夫に言ってみました。「あんた、本当に家族の為に頑張って下さってありがとう。」でどうでした。「やっと、分かったのか」(笑)と言われました。と言うのです。だから少しも良くならない。

 でもね、たった一回言ったからと言って人はそうそう変わりませんから、最低でも3か月、半年ずっと言ってみることですよ。と話しますけれど、何が大切なことなのか。「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。」と祈るその言葉をしっかりと聞いて下さる神は、よく分かる、よく分かると、つまり、神の本物の愛をしっかりと示して下さるということです。

 人は「本物の愛」に触れると必ず生き方が変わります。

 先ほど、ルカによる福音書4章42節からの箇所を読んで頂きましたが、そこで主イエスはこう言われました。「しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」

 主イエス・キリストは、御自分の地上での働きは「神の国の福音の告げ知らせ」だと言われます。時には、多くの人々を相手に話されることもあり、時には、一人一人に手を置いて癒され、悪霊を追いす働きでもありました。人によってそれぞれに違いはあるとしても、何よりも、一人一人の苦しみ、辛さ、悲しみを、聞いてくださいと訴えるその声に耳を傾ける働きであったと思います。
 
 そして、そこで人々が見せられたのは、神の本物の愛の姿です。人はなぜ本物の愛に触れると癒され、変わるのか、それは、神の愛が、この自分にも届けられるのだと知る時、何が変わるかと言うと、自分自身が変わるのです。自分はダメだと思っているその心が、そうか私はダメじゃない、神様はこのわたしの言葉をも聞いて下さり、そして責めるのでもなく、「よくわかるよ」と言って下さっている。そのことを知れば、知るほどに自分が自分のことを許せるんです。自分と自分との関係が変わるのです。

 そして、その変化は、自分から人へと代わり、人をも許すことが出来るようになるようです。
 
 皆さん、主なる神は、私たちの朝ごとの祈りを、そして、その祈りの声をしっかりと聞いて下さっています。その方が私たちと共におられる、感謝して、来る2019年度も私たちは共々に過ごして参りましょう。

 お祈りします。
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