日本キリスト教団 大塚平安教会 

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宝のあるところ

2017-09-11 11:45:08 | 礼拝説教
【コリントの信徒への手紙一 15章42~49節】
【マタイによる福音書13章44~52節】

「宝のあるところ」

 今日は、礼拝の後に各部集会が予定されています。壮年会、婦人会、それに青年会が開催されます。青年会は、横浜の教会シリーズの2回目を開催する予定です。横浜市役所がある中区の教会、私はその準備の為にと、先週の火曜日の朝から横浜に出かけまして、中区にある教会の幾つかを訪問して参りました。天気も良く、良い時間を過ごしました。特に今回は、伝統ある教会も多かったものですから、教会で発行している様々な教会案内や新しく来られた方への礼拝案内等をいただきまして、それらを資料にしながら、私たちの教会もどのようにして、キリスト教を宣べ伝えていこうとするのか一緒に考えていけたらと思っています。
 今回、改めて気がついたことですが、案外、大規模な教会は、ドンと構えて、来られる方を待っているのかと思っておりましたが、逆に大きな教会であればあるほどに、パンフレットや資料や案内が充実していまして、小さな教会程、その充実度が少ないのかなと思わされました。
 単純に印刷機器や財源の問題もあるかと思いますけれど、大きい教会程、外に向かう姿勢、多方面に向かう発信力が強いと感じました。
 資料やパンフレットがあるというのは、勿論、新しく来られる方の為でもありますけれど、その記されている内容の一つに、例えば、自分達はどのような信仰によって立って集っている教会なのかという事柄等も記されているとなると、その働きは、礼拝を守っている方々の為にも力を発揮するのであろうと思ったりもしました。

 私たちが案外難しいと感じることの一つは、例えば新しく来られた方が隣にいたとして、おもむろに「キリスト教とはどのような宗教なのですか」とか、「神様を信じるとはどういうことでしょうか。」と問われとしたら、分かりやすく、簡潔には答えられそうにないということではないでしょうか。

 何も新来者に限らず、友達でも良い、家族でも良いのです。「あなたは何を信じているのか」と問われた時に、その用意があるのかということです。

 そんな問に、待っていましたとばかりに、話をされる方もおられるかもしれません。
 私自身、これまで何度も問われたことは、なぜあなたは牧師になろうと思ったのか?とか、なぜ、キリスト教を信じようと思ったのかと言う問いかけです。その度に、私は自分の生い立ちやら、キリスト教との出会いによって、人生が変えられたのですということを丁寧に話して参りましたし、これからもそうしていくことでしょう。
 
 長男が中学3年生の時ですが、山形県のD学園に入学することが決まっていました。10月頃には試験があって11月頃には合格しておりました。クラスで一番進路が心配な子が((笑)クラスの誰よりも早く進路が決まっていた。あまりにも早いのでクラスの友達にはまだ言わないようにと言われたそうです。ですから、クラスの皆は、受験勉強で目の色が変わっていく中で、息子はろくに勉強もしないで、のほほんと3年の後半を過ごしたわけですが、そうすると友達の方が心配して、お前大丈夫か、もうお前諦めたのか((笑)とは言わなかったそうですけれど、後になって、D学園という高校に決まっていたのだとクラスメイトが知った時に、クラスメイトがどう思ったのかというと、あ~なるほど、お前は牧師になるための学校があって、そこに行くと言うことか、と皆が納得したというのです。その話を聞いて、むしろ私の方がびっくりしました。

 なぜ、自分がキリスト教徒となったのか、なぜ洗礼を受けたのか、なぜ、神を信じるようになったのか、この事を一生懸命に話すよりも、だってお父さんもお母さんも教会行っているからとか、お父さんが牧師だからと言う方が、むしろ人々は納得するのだなと思います。
 けれど、納得するとしても、聞いている人は、自分とは関係のないことだと思ってしまうことでしょう。ですから、むしろ、自分がなぜ、神を信じ、教会に通うようになったのかを告げることが出来る、話をすることが出来る。それは幸いなことであり、一つの賜物でもあると思います。そのような経験があるほうが、キリスト教とはどんな宗教なのかと考える機会があったのかもしれないと思ったりします。

 とはいえ、だからと言って、そのような自分ならではの体験を話せば、それはそれで、聞く人が納得して、自分も教会に行くようにしようと思う人はそれほど多くないことも確かだと思います。例えば、10月の第1週に私たちの教会では「学びと交わりの集い」を行います。今年は宗教改革から丁度500年という年となっていますから、「ルターからまた信仰を学びなおせたら」という思いでもって計画を立てています。チラシも出来上がりました。ルターの回心の出来事と言えば、良く知られている話としては、自分がある日雷に打たれた経験をしたことです。当時21歳であったルターが友達と道を歩いていたら雷に打たれてしまったのです。そこで友達は死に、ルターは生きたのです。自分は死なずに生きることが出来た。そこから2週間後には決心して修道院に入ったというのです。

 この時、ルターの思いはどうであったのか、その時「神の声を聞いた」とも言われていますし、雷に打たれた時に「神様、お助け下さい。私は修道院に入ります。」と誓ったとも言われています。既に500年前の話ですから、何が本当かは完全には分かりません。全部本当かもしれません。でも、その話を聞いた周りの人々が、なるほどと感動して、益々神をあがめたとか、喜んでルターを修道院に送り出したわけではありません。
 
 むしろ、ルターを弁護士にしようと一生懸命に支援というよりは、息子の将来に投資していた父親は大反対を繰り広げましたし、多くの友人もこれまで積み上げて来たキャリアを思い、将来の成功を思えば思う程に、必ずしも賛成したわけではなかったと思われます。このことが何を示しているのかと言うと、自分がなぜキリスト教の道を歩んでいるのかを人に話し、一生懸命に示すとしても、人はその話を聞いて、なるほどと理解した、だから、私も教会に行こうとか、キリスト教徒になろうというような、すんなりとはいかないということなのです。

 けれど、それでは、そういういわゆる「証し」を一生懸命に話すとしても無駄な話だとか、意味がないと言おうとしているのではありません。むしろ、私たち一人ひとりに、時としてルターのような特別な、あるいは特別ではないとしても、一人ひとりに与えられている信仰体験と思われるものがあると思うのです。その体験を分かち合うことを私たちの教会でも是非してみたいと思います。なぜ、自分が導かれたのか、そのような話を言葉にして伝え、また、聞くのです。何より大切なのは、そのことによって、自分はどう神様の方向に向き直ったのか、向き直るために、どう生きたかを話すことがどれほど互いの信仰の養いとなり、神と繋がり、また、人と繋がる役割を果たすのかと思います。

 ルターは自分自身の信仰について「信仰義認」という言葉を用いました。それは神から与えられた信仰によって「あなたは義であると認められる」という教えです。当時のカトリック教会が特に修道士に求められていた修業や苦行によって神に近づくのではなく、どんなに修業しても、人は神に近づくことは出来ず、むしろ、神様が私たちに近づいて下さった、それを信じる。それが私たちの信仰のあり方です。しかし、時としてそこで起こる誤解は、だから行為ではないのだという考え方です。勿論、人の行為によって神に近づくことは出来ません。だから神が近づいて下さった、神が我と共にいて下さったという信仰を自分がどう受け取り、どう生きるのか、生き方そのものが問われているのだと思います。

 本日は、マタイによる福音書の13章44節からの箇所を読んで頂きました。主イエスが「天の国」のたとえを話しておられる箇所となりますが、今日のこれまでの話の筋から言えば、主イエスこそが、「天の国」のたとえではなく、主イエスこそが「天の国」そのものを話せる唯一の方であると言えるでしょう。私たちが話す話や、証しはどこまでいっても、天の国のほんの一部しか話せないのです。どんなに話し上手に話せる人だとしても、天の国のわずかな部分しか話せないものでしょう。キリスト教は言葉の宗教だと言われますが、言葉そのものが天の国を表す道具としては足りないのかもしれません。あるいは主イエスも、限られた言葉によって天の国そのものを話すには無理があると考えたのでしょうか。しかし、なぜ主イエスは、たとえでもって「天の国」を話されるのか、それは「天の国」は説明ではなく、あなたがどう生きるのか問われているのだと告げようとしているのではないかと私は思うのです。

 主イエスはたとえを立て続けに話されます。「天の国は次のようにたとえられる。」畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」さらに三つめのたとえとして、漁師が網を投げ入れて、網が一杯になると、引き上げて、良い魚と、悪い魚とに分けていく。それが天の国のたとえとして語られています。

 この三つのたとえ話から見えて来ることの一つは、畑の中の宝を見つけた人も、良い真珠を探した人も、この一つを得るために行動しているということです。どういう行動か、畑の人も、真珠の人も全く同じ言葉でもって示されます。「持ち物をすっかり売り払う。」この言葉の意味は、その人の人生が変わるということではないでしょうか。畑に宝を見つけた、いいなあと思ったけれど、この土地は人のものだし、この宝を手に入れるには、持っているものを全部処分しなければならいし、自分のものを全部売るなんて、そんな冒険はむずかしいなぁ、どうしようかなぁと悩んだとか、考え込んだわけでもなく、真珠の人も良い真珠だなぁ、高価だろうなぁと思いながらも、持ち物をすっかり売る、そんな馬鹿な事はよした方が良いと助言する仲間もいたかもしれません、でも彼らはこの宝こそと思い、この真珠こそと思って、怠けることもせず臆病でもなく、この時と決意して、そして行動を起こしたのです。

 その行動には、勿論、様々な危険、リスクが伴うでしょう。第一に宝だと思ったけれど、本当に宝なのか、人からみたらガラクタだと言われるかもしれません。真珠も思っていたほど、評価されないということだってあるでしょう。第二に、この行動によって人からの信用を失うかもしれません。畑の持ち主と長年培ってきた互いの信用がこのことによって失われる危険性があります。商人にとって、なにより大切な取引先、売り手や買い手との信用、信頼でしょう。この真珠を買うことによって、むしろ、信用を失うリスクが低いとは言えないのではないしょうか。第三に、この行動が、自分にとって、特に自分の将来にとって本当に有益であるかどうかの保障は誰もしてはくれません。
 
 宝かどうかわわからない、信用を失ってしまうかもしれない、果たして自分の将来に有益なのだろうか。もし、これらの問いが頭の中でぐるぐると巡っているとしたら、彼らは行動には移らなかったでしょうし、行動しないそれこそが賢い生き方だと思ったことでしょう。まわりの皆もそう思っていたかもしれません。でも、たとえ話は、もしそうだとしたらあなたは「天の国」とは遠いと主イエスは告げているのではないでしょうか。

 畑に宝物、高価な真珠、そして漁師の網、この三つに共通しているのは、もともと「隠されていたもの」なのです。普段の仕事では見つけられなかった宝を見つけた、これまで一度も見たことのない高価な真珠を見つけた。引き上げるまでは分からなかった魚を何が良くて、何が悪い魚なのかをより分ける作業、それは、自分にとってこれまでわからなかったけれど、今となってよくわかった、そうだ、自分はこの宝に、この真珠に、この魚にこそ自分の人生をかけて生きていこうと決心していくことが大切なのです。

 これらの天の国のたとえは本当に大切なことを教えています。ジョシュア・ベッカーという牧師は、こう表現しました。「人生とは選択だが、すべての選択は同じ価値を持っているわけではない。人生には、大切なことと、それほど大切ではないことがある。その違いがわかれば人生の可能性は大きく開けるだろう。そして、ある種の挑戦は、すべてを犠牲にする価値がある。」私はこの言葉はとても大切だと思います。
 
 ある種の挑戦は、すべてを犠牲にする価値がある。本当にそうだと思います。主イエスキリストが伝えた福音、天の国、その神の祝福は、主イエスそのものが犠牲となったと言えるでしょう。しかし、神はそのような犠牲を払ってまでも、私たちに愛を告げて下さろうと決心されたのです。

 けれど、更に私は思います。主イエスの死の三日後に、主イエスの復活という出来事は、まさに十字架の犠牲を越えて天の国を私たちに示して下さり、犠牲だと思っていた、犠牲だと思っている一つも、それは少しも犠牲ではないということを示して下さっているのではないかと思うのです。大切なことは、私たちが、私たちに与えられている私たちの人生で、主イエスが伝える「天の国」「宝」をしっかりと見つけることです。その為には必要な犠牲と思えることがあるかもしれません。けれど、全てが相働きて、益となると教える聖書は、私たちの人生に何一つ無駄なものは無いと告げているのです。だから、私たちは安心して、神の宝のある所へ向かって生きていくことが出来るのです。
                                                            お祈りしましょう。


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