日本キリスト教団 大塚平安教会 

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望みの港に導かれて

2021-04-18 12:28:30 | 礼拝説教
詩編107編23~32節
マルコによる福音書4章35~41節

 詩編107編23節からの箇所を読みました。今日の説教題を「望みの港に導かれて」としましたが、30節に記された御言葉から付けたタイトルであります。
 詩編107編は43節まで記される割合に長い詩編です。丁寧に読むとしたら四つに分類して読むことが出来ると注解書にありました。
 
 なぜ、四つかというと、この詩編にはキーワードとなる御言葉がありまして、6節、13節、19節、28節に殆ど同じような御言葉が記さています。6節を読みますと「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らを苦しみから救ってくださった。」とあります。13節には「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと 主は彼らの苦しみに救いを与えられた」とあります。19節、28節もほぼ同様の御言葉が記さていまして、つまり同じ御言葉が四回繰り返されている。それで四つに分類してとなるわけです。

 中を読みますと最初は砂漠の中にいる民が叫ぶ、二度目は貧困と鉄の枷の中で叫ぶ、三度目は、背きと罪の故に叫ぶ、四番目は海の嵐の中で、苦難の中からイスラエルの民が叫ぶのです。状況がそれぞれ違って記されています。けれど内容としては一つです。

 この詩編はイスラエルの民が何らかの苦難を体験していた。恐らくバビロン捕囚の出来事に関係しているであろう。イスラエルの民が、バビロンとの戦いに敗れ、捕囚の民となり、その苦難を主に叫び続けた。凡そ50年後、ついにその叫びは主なる神の耳に入り、神は、民を苦しみから救い、導き出してくださった。その出来事を思い、神に感謝を持って歌い上げている、そのような神の働き、神の業を思い讃美を献げている、それが詩編107編の内容となります。

 特に先ほど読みました23節以下の場面では、イスラエルの民が船で旅する貿易商と設定されています。彼らは大海を渡って商う者となった。けれど、嵐が起こり、波が高くなり、彼らは天に上り、深淵に下り、つまり嵐となったということでしょう。そうなると人のどのような知恵も呑み込まれてしまい、もはや打つ手無し、万事休すとなり「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出され」そして、「望みの港に導かれていった。主に感謝せよ」となるわけです。
 
 私が持っている聖書の一つは「望みの港」が「望みの天」とありました。主なる神はイスラエルを、嵐の中から天の国、神のもとへとぐいっと引っ張り上げてくださった。
 
 嵐の中から、いきなり天の国ですからね。人々からすればバビロンからの解放は、そう思える程の奇跡としか思えない出来事だったと思います。苦しみの谷が深ければ深い程に、喜びの峰は高いと言われますけれど、その格差が人に感動を与え、あるいは信仰を深める働きとなったとも言えるでしょう。
捕囚の民となっていた人々が解放され、自分達の土地に帰り、主に感謝の礼拝を献げられる喜び、どれほどの感動を持って礼拝を献げたことであろうかと思います。
 
 4月に入りまして、緊急事態宣言も解けて教会の礼拝がなんとか再開されています。段々とまた怪しい雰囲気となっていますけれど、なんとか続けていきたいと願っています。教会の礼拝だけでもなく、綾瀬ホーム、さがみ野ホームでの礼拝も再開しました。4月1日には、綾瀬ホームでクリスマス礼拝以来、の礼拝を行いました。丁度桜が満開で、ホームの庭にある桜の木の下での礼拝となりましたが、3か月ぶりの綾瀬ホームです。外で礼拝の準備をしておりましたら、中の良い利用者の女性の方でしたが、私を見つけて、感動したのでしょう。喜んでね「菊池先生~」と叫びながら、子どものように、抱き着いて来られた。私も驚きましたが、職員の方も、こんな姿これまで見たことないと驚いておられました。それから一緒になって礼拝を献げましたけれど、人の思いを越えたところで、思いがけない感動がそこに生まれるのだと思います。

 神が与えてくださる奇跡は、驚きと共に私達に感動を与えます。人生成功の秘訣は何か、それは人に感動を与えることですと、偉い先生は話されました。このラーメン、思っていたより美味いなぁ。こんな仕事をされるなんて思っていたより凄いなぁ、そのようにして人に感動を与えることが出来たなら、そこに成功の秘訣があるようです。

 主イエスが与えてくださった感動、奇跡の物語として、今日はマルコによる福音書から「突風を静める」という箇所を読みました。夕方になってイエス様が「向こう岸にわたろう」と言われ、弟子達と共に舟で漕ぎ出しました。時間的には既に夕暮れか、もっと遅い暗い時間だったでしょう。突然に激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになる程でありました。弟子たちの中には漁師もいましたが、それでも、大分慌ての様子が見て取れます。殆ど諦めながら、漕ぐのを止めて、艫の方で枕をして寝ていた主を起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」大混乱だったかもしれません。

 主イエスは、起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になったというのです。主は弟子たちに向かって「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか。」と言われました。弟子たちは非常に恐れて「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言ったとあります。

 嵐の中を進む舟、それはあたかもコロナ禍を生きる私達の社会でもあり、私達の教会もそうだと言えるのではないでしょうか。2021年度が始まっています。礼拝の後には皆さんの週報ボックスに総会資料が入っているはずです。来週、出来るだけ短く教会総会を行いたいと思いますので、是非、この一週間で資料を読んで下さればと願いますが、数年前から教会資料の最後に、一年間の年間スケジュールを入れるようにしていました。今回も入れましたけれど、2021年度は、実際の所、色々な予定を書き入れないまま印刷しました。
 けれど、それは何もしないというわけではなく、決めきれないでいますという意味です。テレビ、報道などでは夏のオリンピックは本当に行われるのかと言われていたりしますが、これほど先が見えない状況はコロナ前の時代では考えられないことでありました。
 
 しかし、ここで改めて思わされていること、また互いに確認しあうこと、それは教会の歩みは、主イエス・キリストの働きに参加させていただているということです。主イエスが教会の歴史をつくり、神の歴史をつくられ、その働きに私たちは召され、参加させていただいているのです。
 教会が年間計画を練りに練る。それも実に大切だと思います。けれどそこで逆に体験するのは、自分達の計画にない出来事が時として起こるのです。計画は違うと腹を立てたくなるような全く違ったことが起こる。けれど、そこで求められるのは、そこで尚、働き続ける思いであろうと思います。
 
 主イエスは弟子たちに対して「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と話されました。弟子たちは嵐に恐れて神を信じきれず、神の奇跡の業を見てもなお信じられないと思ったのです。そんな弟子を笑うわけにはいきません。それは私達の姿ではないでしょうか。
 
 今、私達の社会も、私達の教会も、いわば嵐の中を進んでいると言えるでしょう。神様がおられるならなぜこんなことが起こるのかとつぶやきたくもなります。頼りのワクチンも予定よりは大分遅れているようです。でも、人の業とはそのようなものでもあります。この嵐の先に、私達がやっぱり信じられないと思う程の神様の感動する業が働くかもしれません。神様ならそうさるでしょう。

 でもだから、大丈夫、だから安心して何もしないではなく、嵐の中だからこそ、必死になって私たちは漕ぎ続けていきましょう。がむしゃらに、どこに向かうかは分からないとしても、漕ぎ続けていきましょう。漕ぎ続けるその先に、必ず神の「望みの港」が備えられていると信じて、神の「望みの天」に引き上げられることを信じて、そして、大きな感動を持って、本当に漕ぎ続けて来て良かったと皆が笑顔で語り合える時まで、励んで参りましょう。
 神の時は必ずやって来きます。その時を目指して、互いに信仰を養い、今もまた祝福と感謝しながら過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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