日本キリスト教団 大塚平安教会 

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手のひらに刻みつける

2017-07-22 08:47:16 | 礼拝説教
【イザヤ書49章14~21節】

 先週の金曜日に、さがみ野ホームの礼拝がありまして、その後、さがみ野ホームで過ごされて、73歳で召されていかれたご婦人の納骨式が、相模原市にありますさがみ野メモリアルパークにて行われました。
 大変暑い日差しの中でしたが、さがみ野ホームの関係者、また、召された方のお姉さんも来られまして無事に納骨をすませました。納骨式と言いますのは、葬儀の一連の最後の儀式となります。地上での別れ、後は神様あなたにお任せしますと祈り、賛美し、また、悲しみの中にあっても、一つの区切りとする、そういう儀式なのだと思います。

 私は納骨式にあたって、何を話すのが良いのかといつも悩みますけれど、永遠の命について思うところをお話します。
 
 ローマの信徒への手紙の14章8節に「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」とありますが、この御言葉から、私たちの人生は生きるにしても、死ぬにしても、主のもの、なぜなら、この方が、この方だけが私たちをいつまでも憶えておられるからだと申します。
 
 私たちの肉親が亡くなる、その思いは特別なものです。4年前に父親が召されて、葬儀に参列しましたが、いよいよ火葬にされるのかと思うと思わず、
「とうちゃん!」と叫んでいました。永遠の命を信じているからなんとも思わないとか、神様が一緒におられるから、悲しみを我慢出来る、なんてことは無いと思います。悲しい時は悲しいし、涙が出る時は涙が出るのです。
 
 お祈りの中にもありましたように、福岡、大分の地域で大変な水害となりました。何名もの方が亡くなられ、被害にあわれ、どんなに悲しいかと思います。その悲しさに対して、私たちは、その大変さはなるほど良く分かるとか、大変だろうけれど頑張りなさいなどと、そうそう簡単には言えない程の思いがあります。私たちはその為にも、祈り、また様々な出来うる支援を考えなければならないと思います。
 比べるわけではないですが、暑くとも穏やかな日に、悲しみの中にあっても、慰めが与えられる納骨式を迎えられる。本当はこの事さえも幸いなのかもしれません。

 永遠の命とは、主なる神が憶えておられることですよ。召された方を憶え、偲びつつ葬儀を執り行い、納骨をする。納骨にはほとんどの場合、親族の方々が中心となりますけれど、つまり、召された方を良く知っている方が集まるのです。沢山の思い出をそれぞれに、その心にお持ちであろうと思います。けれど、納骨に際して、私は時として、今はこの召された方の納骨ですが、この場面は将来の私たちもこのようにして墓に納められる、将来の私たちを見ているようなものですと申し上げます。

 今回は、この方を憶えている方が集まっている、でも、その集まった方もいずれは年を重ね、一人召され、二人召され、10年後、20年後、50年後に、この方を本当に知っている方はどれだけおられるでしょうか。50年後にはおられるでしょう。まだ、幼いこども、10代、20代の方、この方は良く知っているという方、おられるでしょう。でもそれでは100年後はどうでしょうか。この方のことを良く知っている、名前が墓に刻まれているから知っているとか、記録が教会の記念誌にあるから知っているのではなくて、良く知っている、このことも、あのことも良く知っている、という方は殆どいなくなってしまうことでしょう。それなら、その方はもうすっかり忘れされてしまうのでしょうか。永遠の命とはどういうことなのか。
 
 私は、例え人が忘れてしまっても、主なる神は決して忘れませんと申し上げます。主なる神がその方を、わたしを、あなたを忘れない以上、私たちは人の中にではなく、神の命の中で生き続けることが出来る。だから永遠の命を生きることが出来るのだと申し上げます。ある先輩の牧師は、永遠の命について、人が完全に説明することは無理なのではないかと話している文章を読んだ記憶がありますが、私の話も、永遠の命についての、恐らくほんの一部についての、説明にしかならないでしょう

 けれど、主なる神はどのようにして私たちを憶えて下さっているのか、先ほど旧訳聖書イザヤ書49章を読んで頂きましたが、その15節、16節をもう一度読みますが、こうあります。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」

 ここにたとえ、母親が自分の子どもを忘れるとしても、ということでしょう。そんなことはありえなと思えるような話ですが、でも、例えそうであっても、主なる神は、「わたしがあなたを忘れることは決してない。」と言うのです。どのようにして忘れないのか。「わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける」というのです。あなたを刻み付ける。この言葉は独特な言葉だと思いますが、他の聖書で読みますと、あなたの名前ともあります。私の名前を刻み付けて下さるのか、神様の手って大きいんだなとか思わなくて良いと思いますが、また、聖書によっては、このなまえという言葉をあなたの姿、あなたの像、あなたのイメージとも訳しています。つまりあなたの本物、実像を刻みつけているよということでしょう。

 私たちの実像と言われても中々分かりにくいかもしれませんが、先日、幼稚園の職員室に入りましたら一冊の本が目に留まりましてタイトルが「仲間と共に自己肯定感が育つ保育」というのです。著者が浜谷直人とありました。わたしが出た学校の教員されている方で、同じ学部内の建物にいた方なので、なんとなく名前を記憶しております。

 その冒頭にこんな言葉で始まります。「先日、スポーツ番組を見ていたら、有名な監督がインタビューに応えてこんなことを言っていました。「成功の反対は、なんでしょうか」「失敗では、絶対にありません。」と言って、少し間をおいて「成功の反対は、挑戦しないことです。」そして、その言葉を聞いて、そうだなと思ったというのです。なにがそうだなと思ったのかというと、今の時代の子どもも、大学生も、大人も成功することばかりを考えていて、挑戦出来ないでいるというのです。挑戦出来ない苦しみを抱えているというのです。なぜか、挑戦すれば、そのいくつかは幸運に恵まれて成功することもあるけれど、その多くは思った通りにはいかないものなのに、でも、生きづらさを感じている大学生も子どもも、そうは思っていなくて、失敗は許されない、必ず成功しなければならない、といつも思っているように見えると浜谷先生は説明しています。
 
 必ず、成功しなければならないと思っていると、逆に一歩も踏み出せないから、それなら成功も、失敗もしない、引きこもるとか、やる気を起こさない状態の方がまだ良いというのです。つまり、自信がないのです。より良い自分は自分で良いと思えるような気持ちになれない。自信があるとはどう定義するのか、これは難しい問いかけだと思います。自信がありすぎて、自信過剰の人もいて、女性の国会議員が秘書に尋常ではない暴言を吐いて、大きな問題となっていますが、あの人は自信過剰だったのでしょうか。日ごろのストレスがあんな形になったのでしょうか。人の話ではなく、言葉遣いには私たちも気を付けなければならないと思いますが、浜谷先生は自信についてあえてまとめるとすれば、「自分のプラス面も自分のマイナス面にも向き合うことができて、ほどよく自分のことを良いなと思う。そういう感じが、自信があるということではないかと記してありました。

 つまり、自分の良い面、悪い面、どちらも受け入れることができる自分、けれど、そういった自信がどこからくるのかというと、「安心と安全が確保できて初めて、そういう気持ちになれるのです。」とありました。私は本当にそうだなと思います。その人がどれだけ安心と安全をしっかりと確保できているかどうか、また、そのような環境に生きているかどうか、そのような育ち方、成長をしているかどうかが鍵となるのだと思います。ですからね、浜谷先生は特に幼稚園の先生方や、保育する方々や、お母さん方に向けてこの本を記して、より良い豊かな自信があるというよりも、より良い自己肯定感を持てるようにと願っているのだと思いますけれど、でも、それは何も子どもたちだけの問題ではないでしょう。私たちがどれだけより良い自己肯定感を、私たちの良い実像を持って過ごしているのか、生活しているのかが問われているのだと思いますよ。

 その為にも必要なのは、この聖書のみ言葉「見よ、わたしあなたを わたしの手のひらに刻み付ける」という御言葉です。主なる神は、あなたの人生が失敗してはいけないとか、成功しなければならないと思っているかもしれないけれど、失敗も成功も一枚の葉っぱの裏と表のようなもので、どっちも大事で、どっちもあってよかったなぁと思えるように、あなたの人生のその全てを通して、あ~、私は私で良かった。神様ほんとに感謝ですと思えるように私の手のひらにあなたを刻み付けているからね。そう告げて下さっているのです。
 
 神様がその手に私たちを刻み付けておられるどころか、時々、私たち自身が、私たち自身を傷つけることがありますね。自傷行為と呼ばれますけれども、良く知られているのは、自分の手首を傷つけるとか、髪の毛や、眉毛、まつげを抜くとか、エスカレートすると頭を壁に打ち付けるとか、自分で自分を傷つけようとする、その原因も多様だと言われますが、ストレスや不安感、自信の無さからの影響がとても強いのは明らかでしょう。そして、何よりも劣等感、コンプレックスです。劣等感の強い夫婦がいれば、互いに互いを非難して、傷つけあうのです。コンプレックスの強い親子がいれば、互いに親子で非難しあうのです。これも先ほどの国会議員ではありませんが、言葉の暴力でもあり、言葉の自傷行為ですよ。
 
 マルコによる福音書の5章に自分を傷つける人が登場します。墓場を住まいとして、鎖は引きちぎり、足枷は砕いて、誰も彼を縛ることが出来なかったとあります。なぜ、鎖や足枷ですか、人に悪さするからではないですよ。自分に悪さするからです。彼は昼も夜も墓場や山で叫んで、石で自分を打ちたたいていたとあります。もう心も、体も、俺はダメだ~、俺はダメだ~、俺をダメだ~、人生を悲観してね、心にも体にも傷付け、傷ついていたということでしょう。
 この人、大変だなと思います。でもね、言葉で私たちも、このように心で思っていることがありませんか。どうせ私なんかダメだもの、やったって上手くいかない者、医者にいっても治らないもの、思いや、言葉でもって、自分を傷つけていませんか。そして、その返す刀で、同じように人にも悪口を言ったり、意地悪したり、同じ言葉かけをしたりするのです。どんなにか自分に喜びがない人生を生きているか、喜びが無い人は喜びを分け与えることが出来ませんからね。

 でも、キリスト教は、聖書は「神の手に、あなたへの愛が刻まれている」というのです。
もうあなたは、あなた自身の体を、心を痛みつけるのをやめなさい。なぜなら、人となった神が、自らが十字架に付けられて、神が神を傷つけるようにして死んでいくから、あなたをしっかり憶えて、いや、あなたが生きる前から、そしてこの地上の人生が終わった後も、永遠の命として、あなた自身を、あなたのその存在をしっかりと刻み込むのだから、あなたは自分を傷つけなくていいよ。あなたのその重荷を、なんでこんなものを背負わなければならないかな、と思う重荷も、私がみんな背負うからと言われるのです。

 イザヤ書の53章5節にはこう記されています。「彼らが刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かかれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された」とあります。このイザヤ書が記されたのは主イエスの誕生の700年も前の事だと言われますが、そのようにして主イエスが、私たちの傷を、痛手をしっかりと背負って、あなたは生きていける。とおっしゃって下さっているのです。
 
 今日はマタイによる福音書6書25節からの箇所も読んで頂きました。聖書の中でも最も知られている聖書の箇所の一つでしょう。「思い悩むな、だから言っておく、自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」とあります。どんなに思い悩んだところで自分の寿命を一秒でも伸ばすことは出来ないし、神を信じることによって多くの重荷から解放されて、自由に生きていきなさいと教えて下さっています。私たちは神によって、備えられた「永遠の命」を、しっかりと生きて参りましょう。

お祈りします。

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