日本キリスト教団 大塚平安教会  

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幸せへの道

2019-01-22 10:32:25 | 礼拝説教
【出エジプト記20章12~17節】
【エフェソの信徒への手紙6章1~9節】


 先週の日曜日は月の第2主日ですから、各部集会が行われました。壮年会の皆さんが例年のように外で新年会をされた。年に一度のそんな集いも私は必要だと思います。

 そんな様子をみていた青年会の皆さんが、口々に先生、私たちも新年会をやりましょう、そういう目をして、私を見つめて圧力をかけて来ましたけれど、(笑)それはまた別の機会として、私は青年会の皆さんどうしても行ってみたいと思うことがありました。昨年の12月に日本聖書協会から31年ぶりに聖書が新しく翻訳しなおされまして、出版されました。

 その聖書を早速購入しまして、少しずつ読んでいきたいと思っておりましたが、青年会で行うとしたら、良い機会となるのではないかと考えました。それで、新年会の圧力に屈することなく、一緒にマルコによる福音書の1章を、現在使用している聖書と比較しながら、その翻訳の特徴などの感想を話し合いました。結果的にはやはりとても良い機会であったと思っています。

 当初、購入してさっと読んでみて、殆ど違っていないと思っていましたが、皆で読み進める中で違いがはっきりしてきました。その一つは新共同訳と比較すると、漢字表記が非常に増えています。訳された方の思いの中に、その翻訳に当たって、評判が良いと言われていた、文語訳聖書風にしたいという話しも聞いておりましたけれど、漢字が多いのもその為かもしれません。それから少し面倒な話ですが、文法的には、時制の一致の考え方、捉え方が違っているように感じます。

 例えば主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場面では、現在の聖書は「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼をうけられた。水の中からあがるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降ってくるのをご覧になった」とありますが、新しい聖書では「水からあがっているとき、天が裂けて、霊が鳩のように御自分の中へ降って来るのをご覧になった。」とありました。「水からあがるとすぐ」なのか、「水からあがっているときに」なのか、細かいようですけれど、時制の違いの理解があると思われます。訳された方の考えが込められているのは間違いありません。他にも「もてなす」が「仕える」となっていたり、と今後も暫くは、ホットな話題となるであろうと思います。

 なぜ、今、そんな話をしているのかと申しますと、本日読んで頂いた聖書箇所、エフェソの信徒への手紙の6章1節から9節までを読んで頂きました。
 先週の礼拝でも、申しましたが、エフェソ書が伝える大切なことの一つに、当時の社会状況の中で、支配する側と支配される側を越えて、教会は信仰において一つとなる必要があると一生懸命に訴えている手紙でありまして、特に先週、今週と読んでおります箇所は、当時は、当然と考えられていた、妻と夫、親と子、奴隷と主人 といった主従関係さえも、教会は越えて一つとなって欲しい、そんな思いが込められている箇所なのだと思います。

 けれど、何によって一つになっていくのか、6章1節に「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい」とあります。この「主に結ばれている」という言葉は新しい聖書では非常にシンプルに「主にあって」とありました。「主にあって両親に従いなさい。」言語的には「主にあって」のほうが正しいかなと思います。でも私は新共同訳の「主に結ばれている者として両親に従いなさい」、こちらの方が良い訳し方ではないかと思います。

 先月の12月、私たちはクリスマスを祝いました。もう既にずっと前のことのようにも感じますけれど、丁度一か月程前は御子イエスの誕生のお祝いをしておりました。しかし、聖書は不思議なことに、御子イエスの子どもの頃の話は殆ど登場しません。
 唯一記されているのはルカによる福音書にある、イエスが12歳になった時に、エルサレムで行われる過ぎ越しの祭りに両親や村人と共に出かけたという話しです。ユダヤ世界では12歳が成人式であったとも言われます。

 私たちの国は、先週に二十歳を迎えた方々の成人式でしたが、ユダヤでは12歳。なぜ、12歳かというと、12歳になれば、聖書に記されている律法、御言葉の意味を一人で理解出来、自分の信仰を養いうる年齢であると考えられていたと言われます。つまり大人しとして扱われる年齢です。一つの節目、区切りとして少年イエスの姿が記されたのかもしれません。
 
 その箇所を読みますと、祭りの帰りに、イエスが一緒にいなことがわかり、慌てて両親はエルサレムに戻って、三日も探すのですが、三日目に探し当てたところ、イエスは神殿にいて、学者たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしていたというのです。もしこの時主イエスが12歳でなかったとしたら、こんな場面は起こらなかったかもしれません。12歳であったことが大切であったかもしれません。

 そのような主イエスが、更に年月を重ね、世に出て、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、「水の中からあがるとすぐ」なのか「上がっているとき」なのかはともかく、天から降って来た聖霊に満たされて、神の国の福音を宣べ伝え始めました。主イエスの周りに、集まって来た人々の多くは、この世において、つまり人の世において、差別扱いを受けている人々であったと思われます。

 身分が違うというだけで、別の世界を生きなければならない社会でした。性別が違うというだけで一緒に食事も出来ない世界でした。病気を患っている人の方が差別を受けました。ましてや、妻と夫、親と子、奴隷と主人という関係は、差別というより、支配する側と支配される側と見なされていたことは間違いありません。
 
 そのような世にあって、主イエスは全ての人々に福音を宣べ伝え、神の祝福を祈りました。

 2018年度の、私たちの教会が主題聖句として掲げている御言葉は「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。エフェソ書の5章1節の御言葉です。

 主イエスは、どんな人も、あなたがたは「神に愛されている子供」だと宣べ伝えました。そして、その教えを教会も倣ったのです。妻も夫も、子も親も、奴隷と主人も、その立場が変わることはありません。しかし、そのままであなたがたは神に愛されている子供であって、そして、皆一つなのだというのです。

 しかし、その中で大切なことがある。それが「主にあって」、すなわち「主に結ばれている者として」が大切なのです。「主に結ばれている者として、両親に従いなさい」
 この教えは先ほど読まれました旧約聖書の十戒にも記されている大切な教えでもあります。

 出エジプト記20章に記されている十戒の第五戒、5つ目の戒めが「『あなたの父母を敬え。』そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」とあります。子供達が父と母を敬う事によって、幸福が与えられ、主が与えられる土地に長く生きることが出来るというのです。
 
 父と母を敬うという事が、なぜ幸せと結びつくのか。エフェソを読んでみますと、4節には「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」とありますし、5節には、「奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」とあります。9節には、「主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです」とありますから、読み進めますと、なにも子供だけとか、親だけが重んじられ、逆が軽んじられるという事でもないという事もわかります。
 
 子供が、父と母を敬う、又、両親が、子供を愛し、あたかも主がしつけ諭されるようにその成長を見守る。奴隷と主人の関係も又、そのようだと言うのです。現代の私達は、奴隷と主人という言葉の意味をもう一つ理解しかねますけれども、しかし、ここでパウロが語っている意味は、譬え誰であろうと、どのような立場であったとしても、信仰に生きる人は「主に結ばれている者として」互いに一つになれると伝えているのだと思います。それが人の幸福へとつがる道であると聖書は伝えているのです。
 
 キリスト教に限ることでもなく、宗教とは一体何か、と考えてみますと、やはり宗教の目的の一つは、人間の幸福とは何かに深く関わるのだと思います。

 私が岩手県におりました時に、秋田桜教会で牧師をされている、今は教団の書記もされておられます雲然俊美先生と仲良くしいただいておりまして、その教会に通っていた高校生が、相談があると教会にやってきたというのです。
学校の友達が、仏教系の新興宗教に入って、自分をしつこく勧誘してくるというのです。困ってしまって相談しに来たそうです。自分は教会に通っているからと断ったけれど、その友達がこう尋ねたそうです。「教会に行って何か良い事あったの」。

 そして自分はこの新興宗教に入ってこんな良いことがあった、あんな良いことがあった、だから一緒にやろうよと、こう誘う。そう誘われて、どうにも答えに困って、そして牧師の所に相談しに来たというのです。
 
 雲然先生は、その時、その高校性にどう答えられたのか、までは話されませんでしたが、どうでしょうか、皆さん。この宗教に入れば、こんなに良いことがある、あんな良いことがあると、入るように誘われるとしたらどんなふうに思われるでしょうか。いや自分はキリスト教だから結構ですと恐らく、いや間違いなく、ここにおられる方はそう言って断られるでしょう。
 
 それでは、「教会通っていて、何か良い事あるの」、と問われるとしたら、どう答えられるでしょうか。教会に通っていたら、歩けない足が歩けたとか、白内障が治ったとか、癌が消えたとか、勿論、そういうこともあると思います。思いますけれど、礼拝に通うのも大変だし、礼拝で説教聞くのも腰が痛いし(笑)あっちも辛いし、こっちも辛いし、耳は聞こえないし。家内は、今、歯が痛くて辛い思いをしています。歯が痛いというから、礼拝で説教聞けば治るからとはやっぱり言えません。(笑)歯医者にどうぞと言うしかありません。

「教会に通って、何か良い事あるのか」という問いかけは、キリスト教が伝える幸福感について、改めて考えさせられる問いかけではないでしょうか。

 聖書は、幸福に生きるためには、父と母を敬うことだと教えます。そうすれば幸福になるというのです。
 
 私はこの言葉を読むときに、幸福とは、例えば宝くじに当たるとか、受験に合格するとか、何か良い事が起こるとか、確かにこれらの事も幸いだと思いますが、しかし、「父と母を敬う」という言葉は、むしろもっと身近に、もっと自分の手の届くところに、例えば平凡と思えるような自分達の、家庭の中にこそ幸福があると言えるのではないかと思うのです。
 
 父と母を敬える家庭はどんな家庭なのか、単純かもしれませんが、一つは明るい家庭、隠し事の無い家庭、互いに支えあえる家庭、色々な事が言えるでしょう。

 一言で言うとしたら、お父さんも、お母さんも、お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、そして小さな赤ちゃんも、その家庭の中にあって、夫々、一人一人が、その存在が喜ばれ、尊ばれる。あ~、お婆ちゃんいてくれてよかった。お爺ちゃんがいるととっても嬉しい。そのような家庭。

「父と母を敬え」という言葉の意味は、小さな子供達がお父さん、お母さんを敬うという事よりも、むしろ成人した大人が、年老いた父、母を敬いなさいという意味が強く入っているとも言われます。
 
 けれど、これは2月に予定している幼稚園の講演会で話そうと思っていることでもあるのですが、例えばあまりに騒がしい子供に手を焼きながら「お前がいなかったら静かで助かるのに」とか、女性だけの姉妹に対して、「本当は男の子が欲しかった」とか「おまえは本当にグズだねぇ」とか、そういうメッセージをつい子供達に発信していないでしょうか。「いなかったら静かで助かる」とう言葉は、相手に対して存在を否定している言葉です。
「男の子が欲しかった」というのは、女の子としての存在の否定する言葉です。

 自分の存在が否定されると、人はブルブルッと震えます。「お前は何をしてもグズだねぇ」というのもまた、その存在の価値を否定しているところがあるのです。

 存在が否定されて育つ子供は、自分に自信を持つことが上手に出来ません。自信を持てないと、自分で自分を愛するのが上手でなく、又、自分を愛せない人は、その愛せない歩合に応じて他人も愛せないという事のようであります。

 そんなふうにして育った子が大人となって、結婚して子育てをすると、また同じことを繰り返す傾向があります。だからそのことに気が付くことです。そういった傾向に結ばれていることに気付いて、その繋がりを切って、新しく、主と繋がり、新しく主に結ばれることです。親も子も、主に結ばれることが、幸せへの歩みなのです。

 私達の存在が神様によって肯定されている。お前は私にとって、尊く、貴い、親であろうとも、子供であろうとも、奴隷であろうとも、主人であろうとも、そこに神様の肯定がある。主イエスの十字架は、この人の為の十字架であって、この人の為の十字架ではないという事ではありません。

 私達に命を与えた神の御子が、私達全ての幸福の為に、十字架にかけられ、そして血を流されました。私達は、私達がどのような状況にあっても、しかし、そこに神様が、私達の存在をしっかりと受け止め、励まし、支えて下さるという事を知る時に、そこにこそ揺るぎの無い幸福を感じ取る事が出来るのではないでしょうか。
 
 キリスト教の幸福とは、良い事があるから信じるのではありません。又、信じれば何か良い事が起こるという事もでない。いや起こる事も沢山あるでしょう。しかし、キリスト教の幸福感とは、私達、全ての人がその命を肯定され、全ての人に価値があり、社会の価値観ではなく私達に命を与えたもう、主なる神が、あなたこそかけがけの無い、大切な一人だとそういって下さっているという事を知るという事ではないでしょうか。
 
 他人と比較する事なく、私達は、それぞれに価値があって、その存在が神様によって支えられているのです。無条件で私達は愛されています。
 その愛を一杯、私達は全身に受けて、胸を張って今週も歩んで参りたいと思うのであります。

 お祈りいたします。
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きいてきいて
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