日本キリスト教団 大塚平安教会 

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全ては最善に

2022-01-09 11:58:53 | 礼拝説教
【詩編139編11~12節】
【ローマの信徒への手紙8章26~28節】


 今日の説教題を「すべてが最善に」といたしました。木曜日に雪となりまして、大分寒い日が続いておりますが、昨日朝から今日の準備に牧師室にこもっていたのですが、暖房をつけても大分寒い、それで肌着のシャツが薄いのではないかと思いまして、着替えようと家に帰りました。戻りながら歩きながら、「すべては最善に」、「すべては最善に」と考えながら戻りまして、家に入ってマスクを外して、眼鏡をはずして、着替えて、良しこれで大丈夫、と思いながらまた「すべては最善に」と頭で巡らしながら牧師室に戻りまして、改めてさあやるぞとパソコンの前に座ったら気が付きました。眼鏡をしていない。マスクをすると、耳の感覚がメガをしているように感じるものですから、気が付かなかったんでしょうね。
 あ~しまったと思いましたが、また家に向かって歩きながら更に本気になって、「すべては最善に」「すべては最善に」と自分に語り掛けた訳でありました。(笑)


 新約聖書からローマの信徒への手紙8章を読んでいただきました。28節にこうあります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」とあります。この箇所を御自分の愛唱聖句としておられる方も多いと思います。
 「御計画に従って召された者」とは、亡くなられた方ではなく、神のもとに集められ、信仰者として生きている者、つまり「神を愛する者」とされた人、という意味です。
 つまり、今共に礼拝を守っている私たちのことであり、今、ここにおられなくとも、信仰の兄弟、姉妹として共に歩んでいる一人一人も含めて、私たちに与えられている特権のようなものがあって、それが「万事が益となるように共に働く」のだと信じられる信仰です。
 
 教会には年間を通じれば、多くの方が訪ねて来てくださいます。時にはどこにも行けないけれど、ここに相談に来ましたという方も少なくありません。人はそれぞれの人生を生きていますから話される内容は全く違うわけですが、上手く解決していく時と、解決にはまだ時間がかかるかなと思える時との違いがありまして、どこが違うかというと、自分の過去を自分が許しているかどうかという点にあります。
 
 ある時に一人の青年がやって来たことがありました。既に二十歳を過ぎておられましたが、悩み多く、仕事も見つからないというのです。
 なぜそうかというと、中学生の時にイジメを受けたというのです。イジメは虐待ですから本人にとってみれば本当に辛い経験であったと思います。出来るだけ丁寧に話を伺ったつもりでしたが、その次に来た時も、更にその次に来た時も、自分がこうなのは、中学生の時のイジメが原因だというのです。いつも同じ話をされる。長い期間、話を伺いましたが、暫くして気が付いてきました。
 今が良くない状況を生きていると思っている人は、過去にその原因があって、その過去の原因が解決しないから今も良くない、そんなふうに考えているのではないか。

 今日の9時からの子どもの教会ファミリー礼拝はヨハネによる福音書の3章という箇所でした。ファリサイ派に属し、ユダヤ人たちの議員でもあったニコデモという人がある夜イエス様を訪ねてやってきました。 
 話をする中で、主イエスは「はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」と話された。ニコデモは驚いて「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることが出来るでしょうか。」ニコデモは検討違いの答えをしたわけですが、新たに生まれるとは、勿論、これまでの自分に死んで、主なる神と共に生きる者となるという意味ですが、ニコデモは、自分は既にそのように生きていると思っていたのか、或いは、自分は生まれた時から神の民として生きて来たと思ってきていたので、逆に理解出来なかったのかもしれません。
 
 でも、大切なのはファリサイ派であろうと、ユダヤ人の議員であろうと、新たに生まれることです。生まれ直って、日々新たな信仰に生きることです。その為には過去の自分を引き摺らない。引き摺らないと言っても、経験したことは忘れることは出来ませんし、忘れられません。でも、あの事があったから、あの苦しみを経験したことによって今の自分があると現在を受け入れられるようになるとしたら、気持ちも生き方も変わるのではないでしょうか。過去に引きずられ、過去を生きていると現在を生きられなくなるのです。

 12月のクリスマス礼拝では洗礼式が行われ、私たちに新たな兄弟が与えられまして、喜びの礼拝となりました。洗礼式に先立って私は洗礼準備会を行います。そこで必ず話しますことの一つに「過去を許し、現在を褒め、将来を励ます」という話です。
 
 特に大切なところは、「過去を許し」です。自分の人生を振り返った時に、特に主なる神の愛、神の恵みを知れば知る程に、自分がいかに神から離れ、自分自身に生き、罪深く生きて来たかを思わされるものです。
 
 古代の偉大な神学者アウグスティヌス(AD 354-430)は、76歳まで生きましたが、32歳の時に決定的な回心を経験するのですが、神を知るまでの人生、前半の30年と、主なる神と出会った後の40年は全く違った人生を生きた人でした。
 前半の30年、一面においては勉強熱心で高い能力を持つ人として評価されていましたが、アウグスティヌスは「告白」という書物の中で、こう告げています。「19歳から28歳までの9年間、わたしは様々な情欲の中で、誘惑されたり、誘惑したり、騙されたり、騙したりして過ごしました。」

 青年と呼ばれる時期ですから、演劇やスポーツに打ち込んだりもしたようですが、友達と馬鹿騒ぎもする、時には盗みや悪さもする、18歳からは好きになった女性と同棲して、子どもをもうけたにもかかわらず、結局は別の女性と結婚することになります。自ら放縦な生活をしたと告げています。
 けれど、それから劇的な神との出会いを経験し、過去を許される経験をするのです。元々高い能力を持ち備えていたわけですから、以来、キリスト教の司教となり、生涯を生きることになるのです。
 アウグスティヌスにしてそうなのですから、人の人生には、最初から定まった道が備えられているわけでもなく、決まりきった意味が与えられているわけでもないことがわかります。

 時には思いもよらない出来事が起こったり、良いと思っていた所から悪しき結果が出てきたり、時にはその反対となったり、もあり得るでしょう。人生の評価は、その時その時の一部によって評価するのではなく、断片的に見るのでもなく、刹那的な捉え方をするのでもなく、重層的ですから単純には評価出来ません。でもそのような複雑さの中で、アウグスティヌスは神を知り、自分の人生の全てに主なる神がおられたと理解しました。そのことによって過去が許され、神に立ち返り、前を向いて、自らがなすべきことを見いだし、神に仕える生涯を送りました。
 
 神と出会い、過去の赦しを知ると、今与えられている状況を受け入れることが出来ます。状況を受け入れ、なすべきことは何かに集中できるようになります。

 そうなると、その先には、今与えられている状況から、自分の将来を見つめることが出来、確かな目標に向かって歩みだすことが出来るのです。

 アウグスティヌスは若い頃、マニ教という教えに傾倒していました。元々キリスト教の異端的な教えですが、決定的に違うところは、世の中には良い世界と、悪い世界があると教えました。その為に善い神と、悪しき神がいると教えました。キリスト教では、善なる神のみと教えましたが、では、世の中になぜ悪いことばかりが起こるのか、という問いに明確に答えることが出来たようです。一面では分かりやすいのです。マニ教では、天地創造の神は、悪しき世を作った悪しき神とされていたようです。

 けれど、次第にマニ教に対しても懐疑的となり、キリスト教徒であった母親の祈りと影響も受け、その後、自分で自分を救うことは出来ず、ただ神の恵みによって、その恵みを信じる信仰によってのみと教えるパウロの御言葉から強く影響を受けて、キリストを信じる者となっていきました。

 キリスト教は、天地の創造主である主なる神、主なるキリストこそが我らの救い主であると教えます。そして、その方を信じる者の信仰は「すべてが最善に」です。

 旧約聖書詩編139編、12節を読みます。「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない。」
 
 夜も、昼も、闇も、光も、それらのものは相反していくのではなく、二つの世界があるのではなく、ただ一つの世界があります。出エジプトを果たしたイスラエルに神様は、昼は雲の柱、夜は火の柱を示して、行く道を照らしました。昼も夜も、どんな時も主なる神が与えたもうた時であって、全ての事が相働いて益となり、私たちは良い状況へと導かれていくことを信じる信仰を養いましょう。そのように生きてまいりましょう。過去のあの事、この事に振り回されることなく、過去を許し、現在を褒めて、将来を見つめて過ごしてまいりましょう。

 お祈りしましょう。
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