日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

あなたがたは世の光

2017-06-23 13:58:26 | 礼拝説教
【マタイによる福音書5章13~16節】

 昨日は、町田にある保育園で理事会がありまして、土曜日でしたが出席して参りました。保育園の理事を受けて15年となりますが、その保育園の理事長先生は現在85歳となりました。その先生が現役を退かれるまでは私もなんとか引き受けてと思っているのですが、昨日はなぜ出席したのかというと、これまでの理事であった方が一人は天に召されて、一人は病気で外に出られなくなりまして、わずか5~6人の理事会ですけれど、人の構成が大分変りまして、いつの間にか私は古い立場の人となってしまいました。

 実際の所、無くられた方は弁護士をされておられた方、病気になられた方は、国の内外に保育園、幼稚園を経営して、行政にも詳しい方、私は実際は殆ど何も知らないのに、私が残るなんてと思いながら出席して来ました。私が残っても良いのですかと一応話すのですが、お世辞でも、もう是非これからも宜しくお願いしますと言われるのです。何の役にも立ちませんけれど、と申し上げても、そんなことない、とりあえず頭数が大事ですから、とも言われない。(笑)先生、とにかくお願いしますと言われるのです。
 
 私がしている役割は、深刻な話だとしても、財政的な話だとしても、とにかく、そばでニコニコしていれるだけです。でも、それで良いと言われるのです。この思いは母親の性格を受け継いだのだとも思っています。そう思いますと、幾らでも役に立つのかなと思うのです。

 昨日は、今年も理事として一年行いますという「就任承諾書」にハンコを押しながら、久しぶりに私が何年も前に記した自分の履歴書に目を通しました、事務の方が変更があれば変更して下さいと言われましたので、変更しても良いのですか聞いてみました。学歴と職歴はダメなようです。(笑)
 
 でも、改めて履歴書を見ていまして、自分の人生も色々であったと思いました。私は高校を卒業した後は、成績もそれほど良いわけでもなく、家庭に財政的な余裕もなく、ですから進学は諦めました。その時、同級生で就職した人は4人だけでした。当時は役場に行くとか公務員になるという道も今ほど困難でもなく、道はあったのですが、手に職をつけて生きていこうと思いまして理容師になりました。
 ですから今でも理容師の免許証はきっとどこかにあるはずです。けれど数年働いて、その仕事が自分のものではないなと思いながら、でも、人生って自分の思い通りにはならないものだしなと思いながら、でも、生きていくってこういうことだろうなと思うと、どんどん苦しくなっていくのです。ただただ辛いと感じていくのです。

 そんな辛さを感じながら生きている時に、聖書との出会いがあって、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」という御言葉を読むのです。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは地の光である。」

 この御言葉は、イエス様が、話を聞こうとして集まっていた弟子達、さらにその弟子達の周りにいた多くの人々に対して話して下さった御言葉です。多くの人々は恐らく経済的には貧しかったと思います。でもそんな人々に対して、あなたがたがは地の塩、世の光だよと話して下さった。
 今、ここで私が、「塩の大切さ」について、あるいは「光の大切さ」について改めてお話する必要はないでしょう。
「あなたがたは地の塩である、あなたがたは地の光である。」

 私はこの「である」と言う言葉に心が惹かれます。あなたがたは「地の塩」となりなさいと話されたわけではありません。あなたがたは「世の光」となりなさいと言われたわけでもありません。主イエスが人々に対して、今、あなたがたは貧しい生活を送っているかもしれない。苦しい生活をしているかもしれない。
 でもそこから抜け出すために頑張りなさいと、人々を励まし、諭していたわけではないのです。

 今あるその状態で、そのままで、あなた方は「地の塩」であり、「世の光」だと言うのです。「である」という言葉、英語では「~である」と言う言葉はbe動詞が使われます。Be動詞は「存在」を現わす言葉であると私達は中学生の時に教わります。
 イエス様が人々に話されたことは、私たち一人一人の「存在」を神が、「地の塩」、「世の光」という言葉を用いて認めて下さっているという事だと思うのです。

 この主イエスの絶対的な、一人ひとりの存在を肯定する力は、何にもまして力強いのです。

 先週、私たちの教会は特別伝道礼拝を行いました。安積力也先生という先生にお出で頂いて話を伺いました。長年、学校の、特にキリスト教教育の教育者として、具体的には教員として、教頭として校長として、過ごして来られた方の話ですから、より具体的で、色々と考えさせられました。全てが終わって帰宅しまして、家族に話しました。「今日の安積先生良かったね~」と話しましたら、中3の娘がこんな話をし始めました。「安積先生、現代の若者の、特に20代とか、30代の25%の人は、本気で死んでしまいたいと思ったことがあるって言っていたよね。」「そうだったね」「でも、私一回もそんなふうに思ったことない」と言われてしまいました。確かに25%と言えば、「四人に一人は死にたいと思ったことがあるけど、四人に三人は思ったことが無いんだね、と言って笑いました。」
 
 娘が私も死にたいと思っていたと言わなくて良かったと思いましたが、でも、後で私自身のことも考えてみました。

 実際、私もこれまで色々な人生があったけれど「死にたい」と思ったことがないな、20代の頃に、あんなに辛い、苦しい思いをして生きていたのに、理容師をやめて、でも、塾にも行かないで、殆ど誰からも教わらないで、NHKのラジオの講座を毎日聞きながら、勉強して、勉強して、勉強して。
 今度私が卒業した、学校で、勉強することはどういうことかの話をするのですが、簡単です。ただ一生懸命に、背水の陣を敷いて臨むだけなのです。
 
 私はこの「背水の陣を敷く」と言う言葉が大好きです。目指したもの以外のすべては必要ではないという思いに至るということです。この話についてもいつかお話が出来ればと思いますが、受験生とかに話せればよいかとも思いますが、とにかく、お金もない、体力もない、学力もない、でも、だからこれ以上、後ろには下がらないはずだと思いながら、その当時やれるだけのことはやったようにも思います。

 その当時の、私の気持ちはどうであったのか、「生きたい」、「生きてやろう」「生きていくぞ」なぜなら、人は誰も肯定してくれないし、誰も助けてくれないし、親も家族の誰も応援もしてくれないけれど、主なる神が、あなたは地の塩である、あなたは世の光である。と言っておられる。神様が応援してくれている以上は、私は生きていける、そんな思いであったと思います。

 私たちは、生きていく中で、育ってくる中で、特に日本の私たちの文化の中では、力の出る言葉、元気の出る言葉、肯定される言葉を聞きながら育てられるということはありません。自分の妻のことを愚妻と呼び、子どものことを愚息と呼んだりする。嫌な言葉です。

 生まれた赤ちゃんが初めての言葉を発するのに、凡そ八千時間必要だと言われます。日にちに直すと333日、すなわち一年はかかるということです。
この一年の間に、赤ちゃんはどんな言葉を聞きますか、妻と夫が、家族が、互いに愛し合い、笑い合い、支え合い、喜び合い、あなたの存在がどんなに愛おしいかという様々な言葉を聞きながら、育った赤ちゃんが発する言葉は、自ずと、喜びに満ちた言葉となることでしょう。
 互いに生きることが、どんなにか素敵かと思いながら、話す言葉をもちいるのなら、自ずと、生きていくって素晴らしいと思いながら、赤ちゃんは話し始めることでしょう。だから、その逆もあり得ることでしょう。

 こういう話をしますと、礼拝が終わった後に、よく言われます。私が子育てする時に、聞きたかった、もう遅いわ。遅くありませんよ。人はいつからでも生き直せます。先週、安積力也先生は、フランスの哲学者でもあり、教育者であったルソーの言葉を教えて下さいました。「エミール」という書物に記されている文書ですが、「人は二度生まれる」とあります。正確にはこう記されています。「はじめは人間に生まれ、つぎは男性、女性に生まれる」この言葉の意味は、一回目の誕生は、実際に母親の胎から生まれること。二回目は自分が何者であるのかと知る時が来るという意味です。自分が女であること、自分が男であることを知る。

 それはすなわち思春期を意味します。自我が生まれ、自分で自分であることを知り、自分でありたいと求めてもがく時でもあります。

 その時が、教育をうける大切な時であるとルソーは教えました。人は自分が自分であると知ると、次に、自分以外の他人に、特に友達に、また異性に関心をもつようになります。それは大切なことです。そして関心を持ち始め、関心を持ちつつ人間関係を営む中で、関心を持てば、持つほどに、逆に「如何に自分がみじめで、不幸で、悲しみを負っていて、欠乏しているのか」を知るようになります。でも、それだけでもない、その時期に更に知るのは、自分以外の多くの人もまた、それぞれに、弱さを抱え、悩み、苦しみを背負っているのだと知って、そして、そのために互いが支え合わなければならないと感じるのです。
 
 互いが支え合いながら生きていかなければならないと感じる、だから生きていこうと思う。共に生きていこうとする。その生きていこうと決意することが、二度目の誕生だと言うのです。

 でも私は思います。人は二度でも、三度でも、四度でも、何度でも生まれます。なぜか、神がこの私を肯定して下さるからです。あなたの状況がどうかではなく、あなたは地の塩である。あなたは世の光である。その存在がどんなに愛おしいのかと伝えて下さるからです。収入が幾らかではなく、会社の立場はどうかではなく、家庭が上手くいっているのかではなく、健康であるのかでもなく、あなたは地の塩であり、あなたは世の光、50歳でも、60歳でも、70歳でも、80歳でも、あなたは世の光、あなたは地の塩、そう伝えて下さる方がおられる以上、私たちは、力強く生きていきましょう。そうか、私は主なる神から大いに愛されている、大切にされていることを感じて、喜びを持ってこの一週間も過ごして参りましょう。                           
お祈りします。


コメント   この記事についてブログを書く
« 「元気が出る」 | トップ | 豊かになるために »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事