日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の子の声を聞く

2022-09-18 14:21:27 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書5章19~30節】

 ヨハネによる福音書の5章19節からを読んでいただきました。「御子の権威」とタイトルが付けられている箇所になります。この箇所は、話しの途中から途中という箇所になります。

 先週の礼拝は私がコロナに感染しまして礼拝を休みました。
 
 急遽、大矢真理先生にお願いしまして5章1節からの箇所を説教して頂きました。
 
 ですから話が少し重なるかもしれません。今回与えられている聖書の場面は、場所はエルサレム、祭りが行われていた場面となります。
 祭りは恐らく「過越しの祭り」であろうと思われますが福音書ははっきりとは記しません。しかし祭りに合わせて、主イエスと弟子たちは、エルサレムに出かけられたのでしょう。
 
でも、この箇所は祭りの場面ではなく、「ベトザタの池」と呼ばれる場所で病人が癒された様子が記されています。「ベトザタの池」には病気で苦しんでいる人々が大勢横たわっていました。
現代でもお見舞いとかで少し大きな病院に行きますと、待合室が診察待ちの方々で一杯になっています。こんなに大勢の患者さんがいるのかと驚くことがありますけれど、池の周りには本当に大勢の人々が横たわっていたことでしょう。
主イエスは、その中の一人に目を留められました。38年間病気で苦しんでいた人でありました。当時の平均寿命が何歳か分かりませんが38歳まではいかなかったでしょう。平均寿命以上の年月をその人は病気で苦しんでいました。最も悲惨な状況に置かれていた一人であったと思われます。主はその人に目を留められ、言葉を交わす中で「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。すると、彼は床を担いで歩き出したというのです。主なる神の業がこの人の人生に希望と祝福を与えた瞬間でありました。
 
 けれど、話は少しややこしくなり、喜んで床を担いで歩いている癒された人を見てユダヤ人たちが彼に話しかけます。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」と言うのです。
 これは少し寂しい話ではないですか。この人は38年間も病気で苦しんで、動けずにいた人です。誰かの手を借りなければ移動出来なかったでしょう。ここに登場するユダヤ人たちもその事を知らなかったわけではないでしょう。その人が知らない間に、床を担いで歩いている姿を見るわけですから、「お前、病気が治ったのかい。良かったね。嬉しいね。」と抱きしめました、と言うのなら読む私たちも良い話ですね、となるのですが、ユダヤ人はこの時、治った人を見たのではなく、その人が抱えていた床を見たのです。床を担いで歩いているその様子を見たのです。「あ!安息日違反をしている。」
 なんて人たちだと思いますか?でも、案外私たちも、こういう面があると思います。
「ちょっと待て、なんであんたは安息日に床を担いで歩いているのか」ととがめた所、驚いた彼は「私を癒してくださった方が、そうしろと言ったのです。」と返事して来ました。「そいつは誰だ」となり、自分を癒したのはイエスだと告げたところ、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた、となるのです。
 
 安息日にこのようなことをしておられたからである。と記されています。安息日に、主は癒しの業を行われ、人に床を担いで歩かせた。このような安息日違反をした、それが彼らの主張です。
 けれど、主もとがめを受けて、彼らに語り掛けました。17節です。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」この言葉は大変大切なポイントとなる言葉であります。

 9月5日の月曜日の夕方、私は喉がイガイガするなぁと感じました。一晩寝て、起きましたら、熱があると感じました。当初は7度5分ぐらいだったのですが、一時間後には8度を超えて来まして、これはもしかすると思いまして、発熱外来がある病院に電話しましたら予約を取ってくださいと言うのです。どうやって取るのかと聞くと、ネットで取ってくださいというのです。それでネットで調べて、予約を取ろうとしたのですが、これが案外難しいのです。名前、生年月日、症状だけでもなく、保険証は写真に撮って送らなければならない。お薬手帳があれば、それも写真に撮って送らなければならない。元気であればたいした作業ではないかもしれませんが、大分時間がかかりました。それでも出来まして送りました。予約すると診察室ではなく、家で待機していまして、ギリギリまで待ってそれで診察を受けに行きました。
検査して15分ぐらいで結果がわかり、陽性ですと告げられて、それから更に色々な書類を貰いました。でも、もはや何を言っているのかよく分かりませんでした。薬は後から薬局が直接ご自宅に持って来ますから家で待っていてくださいというのです。
 それから帰宅しまして、とにかく寝込みました。その時点で熱は大分高かったと思います。怖くて測りませんでしたがかなりあったと思います。
 
 午後になっていよいよ熱が高くなりまして、次第に意識が朦朧とする感じとなりました。以前罹ったインフルエンザも辛かったですが、それ以上でした。朦朧としてくるし、それが午後暫く続きました。このまま死んでしまうのではないかとさえ思いました。夕方になっていよいよ意識がなくなりそうだと思った瞬間に、本能的に「氷!」と叫んだんですね。
 長男がその声に気が付きまして、冷蔵庫から氷やら、熱さまシートやらを持って来てくれて、頭、首筋、わきの下、冷やしましたら、意識が戻って来た感じとなりまして、大分楽になったわけでありました。夕方、大分薄暗い頃に、薬局の人が薬を持ってやって来まして、ロキソニンを飲んで、更に大分楽になったわけでありました。
 とはいっても、それから数日は、呼吸が出来ない程に喉が痛い、体も痛い、大分きつい状況でした。
 でも今回改めて思わされたことがあります。それは、主イエスが「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と言われた言葉です。この御言葉を読んだ時に、心に染み入る思いをもって私は受け入れました。
 
 熱がある時も、喉が痛いときも、呼吸が苦しい時も、どんな時も主なる神は、今も尚働いておられる。だから、私たちは命が守られ、こうして生きていける。その神の働きを忘れてはならないと心から思います。
 
 けれど、聖書はこの主の御言葉によってユダヤ人たちが、ますますイエスを殺そうと狙うようになった。と記されます。なぜかといえば、「主イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」と記されています。
 安息日の意味は、旧約聖書出エジプト記の出来事によるものです。主なる神はエジプトの土地において長い間、奴隷とされていたイスラエルに指導者モーセを与え、出エジプトを果たして、自由の民とされました。奴隷であったなら自由はありません。休みもありません。安息日とは自由の民という意味です。その自由を与えてくださった主なる神の恵みを忘れないために安息日が与えられ、感謝して守るようにとされていました。それを破る輩が、メシアであるはずがないのです。救い主であるはずがないのです。むしろ罪人でしかありません。
 更に主イエスは主なる神を「わたしの父」と言われました。その言葉はユダヤ人にとって、神を冒涜する言葉以外の何ものでもありません。ユダヤ人の慣習、慣わしから言えば、父親と長男は特別な関係であって、長男は息子であると同時に、父親と立場を同じくする者とされていました。
ですから「わたしの父」という言葉は、自らを神と等しい者であり、神である、とさえ言ったと感じ取れたのでしょう。
 この主の御言葉によって、彼らはイエスを殺そうとねらうようになった、わけでありました。
長く話しましたが、そのような背景があって、19節以降へと進むことになります。主イエスは、ユダヤ人に対して、御自分をより明らかに、より明確に示すために言葉を尽くして話をされた場面です。
前振りを長くして、今日の箇所を簡単にしようと考えたわけではありませんが、主イエスはユダヤ人たちに対して何を告げようとされたのかと言えば、タイトルに「御子の権威」とありますように、御自身の権威について話されました。

 御言葉を繰り返しませんが、19節では、「その行動において、行いにおいて」主イエスは父なる神と同じ権威を持っておられるということ。20節では「その愛において、」主は父なる神と同じ権威を持っておられるということ。21節では「命を扱うことにおいて」主は父なる神と同じ権威を持っておられるということです。22節では「裁きにおいて」主は父なる神と同じ権威を持っておられるということです。行いにおいて、愛において、命、裁きにおいて、主イエスが働かれるその働きは、父なる神の働きによるものであって、御自身の働きではないと告げているのです。しかし、だから父なる神と主イエスは一体であるということを告げようとしているものと思われます。
この主イエスが話される御言葉は、極めて神学的でもあり、神学用語を用いれば弁証的な御言葉です。ですから、ここで主の御言葉について、あれこれとひねくり回すような説明はしない方が良いと思います。ただ一つ、父なる神の思いと御子イエスの思いが一体であり、分かちがたいものであるということを主は話しておられるのです。

 ここで大切な御言葉は、24節、25節の御言葉です。24節にも25節にも「はっきり言っておく」とあります。文語訳聖書には「まことにまことに我なんじらに告ぐ」とありますが、そのほうがしっくりくる方もおられるでしょう。皆さんよ、よく聞いていなさいということです。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
 皆さん、これまでヨハネによる福音書を5章まで読み進めて参りましたが、死んだ者が神の声を聞いた場面が幾つもありました。4章では「サマリアの女」が登場しました。差別され虐げられていたサマリアの地で、5人もの夫と生活をし、今6人目の男と暮らしていた女性、水を汲みに来ることでさえ人目を忍んでやって来なければならなかった女性に、主イエスは「水を飲ませてください」と声をかけました。
この女性がサマリアの町に戻り、喜びに満ちて「もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と告げた言葉に、誘われて、集まった町の人々と共に主は二日間サマリアで過ごされた。サマリアの人々は「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったのだ」と女に話しかけた場面がありました。
ガリラヤの地では、一人の役人がカナの村におられた主イエスのもとに、馳せ参じてどうか息子の命を救って欲しいと願いました。主はその様子を御覧になり、そしてこう言われました。「あなたの息子は生きる」
5章に入り、ベトザタの池で38年、病気で苦しんでいた男のもとにやって来た主は「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と告げました。男はそのようになりました。
これらの話に登場する一人一人は、あたかも死んだ者ではなかったですか。もはや希望すらなく、今日という日、明日という日を生きようとしていなかった人々ではなかったですか。そのような一人一人に主イエスは出会われて、声をかけて、あなたも、あなたも、あなたも生きていけと希望と勇気と元気を与え続けてくださいました。

 私たちのこの大塚平安教会の歴史も、また同じであろうと思います。主イエスの言葉を耳で聞かなくとも、心で聞いた一人一人が集まり、諦めから、しかし、又やろう、絶望から、また歩き出そう。そのようにして生きようとしている一人一人によって教会は出来ているのではありませんか。主イエスの御声によって生きたのは、私たちです。感謝して今週も過ごして参りましょう。

 お祈りします。


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