日本キリスト教団 大塚平安教会 

教会情報や牧師のコラムをごちゃごちゃと

人々に囲まれてしまう主

2022-10-30 13:27:15 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書6章34~40節】

 ヨハネによる福音書20章には、十字架の死から三日後に復活された主イエスと、弟子のトマスが話をしている場面が記されています。
弟子達が祈っているところに、復活の主が現れて「あなたがたに平和があるように」と告げられた。弟子たちは大喜びでしたが、その場面にトマスはいませんでした。ですから、私は信じないと言ったのです。この手で主の傷口を確認しなければ信じないと言ったのです。

 けれど、一週間後、再び弟子達のもとに、主イエスが現れてくださった。その時、トマスもおりました。主はトマスに話しかけました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
復活の主に出会ったトマスは、自分の思いが言葉にならずに「わたしの主、わたしの神よ」とやっとの思いで告げた場面は感動的でさえあります。
それから主はトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 トマスは、まことに幸いだと思います。復活された主イエスと直接出会うことが出来ました。その喜びを胸に、また聖霊の力に満たされて、インドにまでも福音伝道に行ったと伝えらえています。
私たちにも、トマスが体験したように、復活された主イエスとの出会う体験があるのかどうか、きっと、それぞれにおありだと思います。ただ直接的に、復活の主に出会った方はおられないでしょう。それだけに主イエスが語られた「見ないのに信じる人は幸いである。」という御言葉は心に沁みるものがあると思います。

 けれど聖書は、見ないあるいは見えないので、信仰が揺らぐ人々が大勢いたとは記しません。むしろ、主イエスをその目で見ながら、信じ得ない人々が大勢いたことを記している、それが真実です。
今日の説教箇所、またこの礼拝を思いながら説教題を「人々に囲まれてしまう主」としました。主イエスは今多くの人々に囲まれています。なぜ、囲まれているかと言えば、話は6章の最初「五つのパンと二匹の魚」の話から始まります。主イエスは、僅かなパンと魚を用いて、男性だけで五千人、女性、子ども、年寄りを合わせれば、倍の一万人とも、それ以上とも言われる程の人々の空腹を満たし、人々は満腹しました。

 満腹した人々は、満腹と満足感の中で、このようなしるしを見せてくださる方なら「まさにこの方こそ、世に来られる預言者である。」と話し合い、主イエスを自分達の王としようと計画を立て、主を連れていこうという計画を立てたのでしょう。
 その動きを察知した主は、一人山の中に退かれ、弟子たちは夕方となっていましたが船に乗ってカファルナウムと呼ばれる町に向かったわけでありました。湖は夜、暗くなって荒れ始め、弟子達は苦労しましたが、その様子を御覧になった主イエスが水の上を歩いて弟子達の舟に近づき、彼らが主を舟に迎え入れましたら、船は目指す地、カファルナウムに到着しました。

 翌日となり、主イエスを王としようと計画していた人々を中心に、主イエスが山か下りてくるのを待っていたのでしょう。けれど、待っても主は現れません。見ると湖の岸辺にあったはずの舟も無くなっている状況から、既に湖の向こう岸に向かわれたかもしれないと、彼らも舟に乗り主イエスを追いかけて、そしてついにカファルナウムの会堂で主イエスを見つけたわけでありました。
そこで、主イエスは追いかけて来た人々に囲まれてしまうのです。囲まれて会話がなされる、会話を繰り返しはしませんが、主イエスは彼らに向かって語るりかけました。「朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物の為に働きなさい。」、「神がお遣わしになった者を信じる事だ」、「神のパンは天から降る」そして「わたしが命のパンである」と繰り返し彼らに話されました。その意味はどれも同じ意味があって、あなたがたはこのわたしを信じなさい、命のパンである私を信じることだと繰り返し伝えたのです。何度も、繰り返し伝えているのです。

 なぜ何度も繰り返すのか、人々が主イエスを見ても信じていないからです。36節に「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」と主は言われました。彼らは昨日のパンと魚の出来事が忘れられない。あの満腹した喜びを再びと願いながらやって来て、主イエスを取り囲んでいる人々の目に、主イエスがおられるのに、誰も主を信じていないのです。なぜなのでしょうか。
人々の願いと、神の思いとが重なっていないからです。人々はどこまでもパンと魚を求め、主イエスは、あなたがたが本当に求めるべきものは、この私であり、私が命のパンだと伝えている、でも伝わらないのです。

 彼らが、舟に乗ってまで主の後を追いかけたのは、僅かなパンと魚から、皆が満たされ、満足して、この方をこそ自分達の王としたいと願ったからでした。この方をこの世の王とすれば、自分達は毎日満腹して満足するだろうと考えたからでした。それは主イエスを自分達が思い描いたように用いて、神を利用して自分達の要求を満たしたいという思いがどうしても先に立っているのです。
 
 けれど、主はそのような思いに決して乗ることなく、語り続けるのは、何度も申し上げますが、一つだけです。命のパンとしての主イエスを信じること、それこそがどんなに大切かと伝えているのです。人の欲望と神の願いとがぶつかっているとさえ言えるかもしれません。

 少し話は変わりますが、先週の木曜日、綾瀬ホームで、10月の中旬に天に召された方を覚えて記念の礼拝を執り行いました。2020年初頭から世界中にコロナ、パンデミックとなり世界が混乱しました。綾瀬ホームでも当然のことながら、大変神経を使って、外部から来る方の制限や、手指消毒、ワクチン、マスク、換気等、丁寧に行っておられた。その影響があったのか、あったと思いますが一年以上に亘ってどなたも召される方はおられませんでした。
 ですから、今回召された方は、ホームとしてもコロナ感染が始まって以来、初めてであったかもしれません。Aさんという男性の方が召されたのですが、Aさんを偲んでの礼拝でありました。頂いた資料を読みまして、元気で活発な方であって、皆から慕われた方であったとありました。私も写真を見まして、礼拝に参加されていた良く知っている方でありました。81年の御生涯でした。
 その紹介の最後に「老衰により召されました。」とありました。私はこの言葉を読んでですね、老衰という言葉は良いなというか、少し羨ましいなと思いました。
 
 記念の礼拝で少しその事について話をいたしました。私の父親は、「誤嚥性肺炎」と言われたけれど、実際は喉に食べ物を詰まらせてそのまま天に召されたこと。私の家内の父親は、90歳でしたが、お風呂で意識を失ってそのまま天に召されてしまったこと。ですから、家族や身内の側に何の準備も用意もないままに、天に召されてしまうことは良くある。入院しておられたAさんがどのような召され方であったのかよく分かりませんが、でも、老衰によりと記されています。きっと自然に、いつの間にか、そして時が満たされて静かに召されていかれたように思います。と話しました。

 そして、私たちはいつ、どのように召されるのか正直なところ全く分かりません。でも、そのことを恐れながら生きるのではなく、詩編23編に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることはない。主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とあるように、羊飼いである神様を信じて、過ごしていきましょう。と話を致しました。
 綾瀬ホームの皆さんが、静かに良く聞いてくださっていました。本当に良く聞いてくださっていました。きっとこの礼拝が、今はAさんのことを偲ぶ礼拝であるとしても、人を偲ぶ礼拝であるとしても、いつかは自分もまた偲ばれる礼拝が執り行われる。そういったことを私たちは想像することは中々出来ませんが、でも、何か特別な礼拝であると、それぞれの、気持ちの中で受け止めておられたのではないかと思いました。綾瀬ホームに限る訳でもなく、私たちの教会では、来週の礼拝が召天者記念礼拝となりますが、そのような特別な礼拝を執り行いつつ、私たちの命の主が誰であるのかを感じるのではないでしょうか。

 綾瀬ホーム、さがみ野ホームは皆さんがご存知のように、知的障害を持った方の、特に中、高齢の方々が共に生活されておられます。ですから説教するにも、幼稚園の子どもたちに対するように、やれば出来るとか、諦めないで励んでいきましょうといった内容の話はしないことはないですが、これまでの経験からしても、あまり受けが良くないように思います。受けが良くないと集中が切れてしまうことが良くあって、そこから気持ちを取り戻すのは中々大変だったりするのです。

 でも、どんな話をするにしても、静かになる魔法の言葉があって、それは、皆さんよ、神様はあなた方をどんなに大切に思っているか、どんなに必要としておられるか、どんなに大事な一人一人だと思っているか、あなたがたは神様の愛する大切な子どもだよと話しますと、シーンとなるのです。きっとそういう言葉を待っているのからだと思います。いつも待っているからだと思います。そして、何度聞いても嬉しいのです。
 もし、主イエスが、取り囲んでいる人々に対して、この私が、この私こそがあなたがたの命のパンだと告げた時に、彼らがしっかり受け止めて、静まり返り、主を信じる信仰が得られたとしたら、主イエスはどんなに喜んだことかとも思う。けれど、彼らは静まるどころではありませんでした。上手く理解できないのです。

 主イエスは「私が命のパンである」と話されました。サマリアの女に対しては「わたしが命の水である」といった風に話しかけました。私はこれまで、命のパン、命の水、という御言葉をどう理解すればよいのか、どう受け止めるのが良いのか、幾度も迷っていたように思います。
 けれど今回、改めて感じたのは命のパンとか、命の水という言葉よりも主イエスは「命」そのものなのだということです。

 この方は私たちの「命」そのものですよ。この方が私たちに命を与えてくださり、命を生かしてくださる方なのです。私たちは老衰で亡くなるかもしれません。突然に召されるかもしれません。分からないのです。でも、そこが問題ではなく、それまでの命をあなたはどう生きようとしているのかと問われ続けているのだと思うのです。

 そしてそれはそのまま私たちの信仰への問いとなり、私たちの教会の信仰への問いかけとなっていくのではないでしょうか。
 
 先日、ある牧師が奉仕している教会のパンフレットをいただきました。そのほとんど最初に、「私たちの教会は、エホバの証人、モルモン教、旧統一教会といった団体とは違い、正統的なプロテスタント教会です。」とありました。少しびっくりしました。
 確かにその通りだと思いますけれど、私は違和感がありました。昨今は、テレビ報道等でも、旧統一教会に対して厳しい対応をせよと総攻撃がされています。これまでの経緯から、当然のことだと思います。けれど、それでも違和感があります。
 それは、正統を自称する教会の働きが、この世に対して十分な働きをなすことが出来ないままであったから、正統でない組織がそこに付け込み、人々を誘惑し、騙し、人生を狂わせてしまっていたとしたら、私たち自身もまた神に対して大きな罪を負っているのではないかと思うことです。なぜ、正統な教会は、そのような罪を公に言い表さないのでしょうか。

 言い表さないとしても、だからこそ、私たちは主イエスこそ「命のパン」であり、私たちの「命」そのものであり、この方を見つめなければならないと宣べ伝えていかねばなりません。社会はこの世のパンを求め、この世の魚を求めます。この世の価値観で動き、この世の評価を求め、「鳩のようにさとく」生きて行くことが奨励されます。

 でも、教会はこの世に対して、主イエスこそ、この方こそ、私たちの命の根源であり、ここに平和の主がおられ、この方を通して神の思いが実現していくことを、私たちは私たちの信仰を言い表し、与えられた命を生きていきたいと思うものであります。                  

 お祈りします。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 命を与えるパン | トップ | わたしたちの本国は天にある »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事