日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の栄光が現わされる時

2022-04-17 15:25:59 | 礼拝説教
【ヨハネによる福音書20章1~18節】

 皆様、イースターおめでとうございます。今日の礼拝はヨハネによる福音書20章、少し長い箇所を読んでいただきましたが、主イエスが復活された場面、この箇所には復活された主イエスの他に、メインとして登場するメンバーは、マグダラのマリア、弟子のペトロ、それからヨハネ、この三人が主イエスの復活に際して、どう動いたのかが記されているわけです。
 
 その中で、今日はマグダラのマリアに目を向けて、特にマリアの心がどう動いていったのかを見て行きたいと考えています。
 
 話は少し変わりますが、私が神学生であった頃に、春になる前の寒い頃であったと思います。私自身北国の生まれですけれど、寒がりで体温も上がりません、そういう体質なのだと思いますけれど、アルバイト先で一緒に仕事をしていた女性がいて、その人が漢方のお茶のようなものを飲んでいたわけです。それで話しましたら漢方は良いよと言うのです。それを聞いて、漢方に興味を持ちまして、漢方高いですけども、何か安くて良いものが無いかなと思って、バイトが終わって漢方の薬局に行ってみた、
 そしたら安いといっても安くもないのですが、それでも何とか購入出来るものを紹介してもらって、買って神学校の寮に帰って早速、お湯を注いで飲んだのです。
 すると、ほんとに体がポカポカし始めて、凄く調子が良かったのです。嬉しくなりました。人は嬉しいことがあると黙っていられません。人に話したくなるものです。ですから、寮の仲間にこの漢方は良く聞いたと宣伝して回りました。
 そしたらね、三日後位には、寮の何人もがその漢方を飲んでいました。びっくりしました。でもね、喜びを伝えると、伝わるんだな、伝道するとはこういう事だなと改めて思わされた出来事でありました。

 今日の聖書箇所は、マリアも主イエスの復活を通して伝道する者へと変えられていく様子が記されている、そういう聖書箇所であると思っています。
 週の初めの日、朝早く、まだ日が上がり切らないうちに、マグダラのマリアは主イエスの墓に向かっていました。他の福音書にも、女性たちが主イエスのご遺体が納められた墓に向かう場面がありますが、マグダラのマリアは、誰よりも早く、しかも一人で行動したと思います。マグダラとは地名です。ヘブライ語ではミグダルと言うそうですが、ガリラヤ湖の北西に位置する場所の町のようです。主イエスの母もマリアで、他にもマリアが登場しますから、マグダラのマリアと呼ばれたのでしょう。
 
 彼女の性格を想像してみますと、決断力があり、思うことはしっかり話す人であったように感じます。安息日が終わり、まだ暗いうちに、とにかく主イエスのご遺体がある墓に行ってみよう、そう決心したのでしょう。手にはご遺体に塗る香料を携えていたと思われます。問題は墓をふさいでいる石をどうやって取り除けるのか、そういう課題があったのですが、到着してみるとその石が取り除けてあるのを見ることになります。
 
 石が取り除けてあるのを見て、すぐにマリアの脳裏に浮かんだことは、誰かが主イエスの墓に入って、ご遺体を持ち去ったのだろうということでした。ローマ兵の仕業かもしれないし、墓荒らしかもしれないし、いずれにしても大変だと思い、弟子のペトロとヨハネのもとへ急いで向かい「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と告げるのです。
 
 主イエスは、福音伝道の旅をする中で、弟子たちに問いかけたことがありました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているのか」弟子たちは互いに「洗礼者ヨハネ」という人もいれば旧約聖書の預言者である「エリや」だとか、「エレミヤ」だと言う人もいますと答えます。それでは、あなたがたわたしを何者だと言うのか」と再び問われた時に、弟子のペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と素晴らしい答えを口にしました。主イエスはペトロに対して「ペトロよ、あなたは幸いだ。私もあなたに言っておくあなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と二人の心が通った場面がありました。
 けれど、そのすぐ後で、主イエスは御自分がこれからエルサレムに向かい、長老、祭司長、律法学者から多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明けるのです。その時、ペトロは主をわきに連れ出して、いさめ始めたわけでありました。主はペトロに「サタン、引き下がれ」と強く叱った場面が記されています。恐らく、主イエスの旅は12弟子の他に、数人の婦人たちも一緒だったろうと考えられていますが、その場面にマグダラのマリアも伴っていたかもしれません。
 
 そうだとすると、ペトロも、ヨハネも、マリアも主が三度、三度という言葉は何度もという意味があると言われますから、三度以上に何度も、主イエスの死と三日後の復活について話を聞いていたかもしれません。でも、彼らは理解していませんでした。
 
 主イエスの十字架の死から三日目の週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアも、その後マリアから話を聞いたペトロも、ヨハネも慌てて主の墓に向かうのですが、主イエスは復活された、聞いていた通りであったと理解した人はいませんでした。

 「人は信じたいと思うことを信じる」という言葉を聞いたことがあります。「人は教えられたことを信じるのではなく、自分が信じたいと思うことを信じる」のです。
 ロシアでは、プーチン大統領の支持率が80%を超えていると報道されています。ロシア国内では報道が規制され、ロシアにとって都合の良い報道がなされ、ロシア軍は民間人を殺すようことはしていない、そういった報道はフェイクニュースだと言われると、そう言われているし、報道内容も理に適っていると、客観性を持って信じる、そういう人もいるでしょうが、それ以上にロシア国民も報道の通りであって欲しいと信じたいのです。信じたいことを言われているのでそう信じているのだと思います。
 それが正しいかどうかではなく、自分が信じたいと思うことを信じるのです。

 真実は主イエス御自身が死から三日の後、復活されたのですが、マリアは墓の外に立って泣いていました。なぜ泣いていたのか、主イエスのご遺体が無くなっていて、誰かが持ち去ってしまった。と信じていたからです。それ以外に自分が納得できることはありません。主イエスが話されたこと、教えられていたことをこの状況にあっても、思い出さなかったというよりも、信じてはいなかったのです。
 
 身をかがめて墓の中を見ると、主イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていました。マリアは天使さえも天使だという理解はありません。天使が声をかけ「婦人よ、なぜ泣いているのか」と尋ねても「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えます。
 更に、振り向いてみると、主イエスがそこに立っているのが見えました。しかし、それも主だとは分かりません。目が涙で霞んでいたかもしれません。神様が一時的に見えなくされたのかもしれません。色々と言われますが、でもマリアは自分が信じたいと思っていることを信じているのです。

 主イエスは三日前に十字架で死なれ、この墓に葬られた。そのことを自分はすべて確認している。しかも今、その墓の石が取り除けられて、主イエスのご遺体が無い、これ以上確かなことは無いのです。主は「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを捜しているのか」と尋ねましたが、マリアは園丁だと思って、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。と答えました。
マリアはただ泣いていただけでもありません。マリアはこの状況に出来る冷静に対応しようともしました。思っていることをしっかり伝える能力を持ち合わせていました。「ご遺体の場所を教えて欲しい、わたしが引き取ります」強い決意でもって、応答しようとしています。精一杯の姿であったと思います。

 そのようなマリアに対して、主は突然に「マリア」と話しかけられました。マリアは突然に自分の名前が呼ばれたのです。自分を知っている者の声がしたのです。そしてその声は自分を愛し、自分を助け、自分を救ってくださった者の声でありました。

 その時、初めてマリアは自分が信じていたことではない状況であったと気が付いたのでありましょう。「ラボニ」、「先生」、その応答はマリアが主イエスにそのように話しかけていた言葉であったと思います。
自分が信じていたこと以上の事が起こる。それがイースターの喜びです。聖書は、ここでマリアは躍り上がって喜んだとか、泣き顔が笑顔になったとは記していません。
でも笑顔が戻り、喜びのあまり主イエスを抱きしめたい思いに駆られたことは間違いありません。今、マリアは神を信じるとは、自分が信じていること以上のことが起こり、そしてそれは喜びをもたらす知らせであると信じるに至ったと思います。

 復活の主は、マリアに話しかけます。あなたはわたしの兄弟たちのところへ行って、このことを宣べ伝えなさい。マリアの足取りはどんなに軽くなったでありましょう。
イザヤ書52章(7節)に「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」とあります。マリアは良い知らせを携えて弟子たちのもとへ行き、「私は主を見ました」と告げたのです。
復活の主イエスを信じる者は、自分の思いを越える所で神様は働かれ、自分が思う以上に祝福が与えられると信じる者たちであります。今、私たちの不安定で、不確実な社会状況にあって、そこで打ちひしがれずに、尚、頭を高くあげて主の復活を宣べ伝える者として過ごして参りましょう。

 お祈りします。

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