日本キリスト教団 大塚平安教会 

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私の魂よ、主を讃えよ

2021-03-29 11:53:32 | 礼拝説教
【詩編104編1~12節】
【ルカによる福音書23章39~43節】

 先日、車の点検してもらいました。その間、一時間半かかるというので、その間に本を読もうと思いまして、家の本棚にあった本を持っていきました。文庫本ですが、タイトルが「下流志向」とありました。
内田樹という神戸女子学院の先生をしておられる方で、大学の先輩にあたる方なのですが、私は購入した覚えもありませんし、なぜ、置いてあるかなとちょっと不思議でしたが、娘か誰かが買って読んでいたのだと思います。

 サブタイトルが「学ばない子ども達、働かない若者たち」とありました。長く教育現場で働いておられる内田先生が、自分の学校の学生たちもそうだし、中学、高校生、いや小学生でさえも、勉強意欲を失っていると感じる。学校を出た若者が働く意欲を失っていると思われる。それはなぜなのか、内田先生なりの掘り下げ方で記してありました。 

 例えば、小学生の子どもが先生に質問するそうです。「先生、なぜ、勉強しなければならないのですか」小学生の子どもが本当にそんな質問をするのだろうかと思いますが、でも、するのでしょう。あるいは少し荒れている中学では、先生が教室に入って来ても、勉強意欲の無い子どもたちは、無視して話していたり、立って歩いていたりしているそうです。先生が「聞いているのか」と怒ると、逆に「聞いているよ」と怒鳴り返される、そんなことが普通にあるそうです。

 義務教育という言葉がありますが、子どもたちはあたかも苦痛を伴う義務としてやらされていると思うのではないか、あるいは逆に最近は「自己責任」とか「自己決定」という言葉があって、自分の人生を自分で責任をもって、自分で決めていくようにと言われますけれど、そうすると自分の役に立つのか、立たないのか、自分で決めて、役に立ちそうもない勉強はしなくて良いと考えて、正当化してしまうということもある。

 あるいは、なぜ子ども達がいつも不機嫌そうにしているのかというと、不機嫌でいる方が周囲を支配出来ると考えているからではないかともありました。 現代社会は、一か月の労働の見返りとして給料が銀行の口座に振り込まれます。
それは親が親として威厳を保つ時が薄れている、そうすると親が威厳を保つためには家に帰って来て、どれだけ疲れたかをアピールすることになって、不機嫌そうに振舞うと周囲が気を遣うわけです。そんな様子を見ている子ども達も、いつの間にか不機嫌そうに振舞ったほうが自分にとって都合が良かったりするのではないか、一時間半では、本の半分までも到達しませんでしたが、大分納得したり、影響を受けて家に帰ったわけでありました。

 家に帰って来て、家内に読んだことを色々と話しました。なぜ子どもたちは不機嫌なのか、自分が周りを支配できるからだそうだよ、すっかり啓蒙された私は自信をもって話しました。家内もなるほど~と言うのではないか。ところが、答えはどうだったかというと「そんなのばかじゃないの。不機嫌より機嫌が良い方がずっといいじゃない。楽しい方がずっといいじゃない。」そう言ったわけでした。

 私は逆に驚きましたが、でも直ぐに全くそうだと思いました。不機嫌でいるより、機嫌が良い状態がどんなに良いか、一度切りの人生を大切な時間を不機嫌で過ごすなんて、なんと空しく、もったいないかと改めて思いました。90分の学びが、一分で打ち砕かれたわけでありました。
 
 今日は一年の中にあっても、特別な日曜日です。コロナ禍の中で、本当に久しぶりの礼拝を執り行っていますが、この一週間は受難週であり、主イエス・キリストの十字架の死を特に心に留める一週間となります。聖書箇所も主が十字架に磔にされた場面を読みました。本来なら神学的には主イエス・キリストの十字架の意味をここで語り、主イエスの贖いの業、私達の罪を赦そうとする愛の思いを語り告げることが求められているのかもしれません。
 
 けれど、今日は、主イエスと共に十字架刑とされた二人の犯罪人について告げられている箇所を読みました。一人は共に磔になっている主イエスに対して、あざ笑いののしりながら「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」と揶揄している。けれど、その様子を見たもう一人の犯罪人がそれをたしなめました。「お前は神をも恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と主に告げたわけでありました。

 私は、この二人の姿、この会話を読みながら改めて思いました。どんなに究極な場面においても尚、人を貶め、辱めようとする人と、全く同じ状況にあって、そこから神を見上げながら、会話できる人がいるということをです。
 
 私たちは、この時期主イエスの十字架刑について聖書では読みますけれど、実際には見たことがありません。それがどんなに残酷な処刑であるかと、よく説明されますけれど、体験することもありません。なぜ、体験しなくて良いのか、全て私達の罪を主イエス一人が負って下さり、私は死ぬけれど、あなた方は生きろとそんな思いでもって十字架に架けられたからだと教えられますし、私もそう話しますし、そう思います。
でも尚、そこにどこまでそういうリアリティがあるかとも思う。リアリティは現実性とか真実性と訳しますが、どこまで自分達が神の十字架を自分のものとしているのか、いつも問われているのだと思います。

 先ほどの内田先生は、子どもたちが「どうして勉強しなければならないのか」と聞いてくる子ども達は、世界の多くの国々で、勉強したくても勉強できずにいる子ども達がどれほどいるのか、ペンの代わりに武器を持たなければならない子ども達がどれほどいるのかについては何も知らないといった事柄を記していました。そうったリアリティを感じられないから、勉強は喜びとならず、させられている感が強く、苦痛でしかないのかもしれません。

 今日は、詩編104編を読みました。1節の「わたしの魂よ、主をたたえよ」という御言葉から始まるこの詩編は、神の天地創造の業を思い、神を賛美し、神の造られた世界に感謝している詩編です。光、雲、風、地面、水、泉、山々、野の獣、空の鳥、草木、そしてぶどう酒、パン、油、月、太陽、次々とはそれらを記しては神に感謝を献げている。読めば読むほどに、喜びに満ちている詩編だとも思います。

 けれど、この詩編はイスラエルの民が捕囚の民として、凡そ50年に亘るバビロン捕囚から解放され、自分達の国にやっと帰って来た時に感謝と喜びを込めて歌ったであろうと考えられています。戦争に敗れ、捕虜となった民が、生きて自分達の故郷に帰って来られた。これまでの主なる神の守りに感謝しつつ歌い上げているのです。私はそのことを知ると、詩編にはイスラエルの人々リアリティがあるなと改めて感じました。

 私たちは、過ぐる1月3日にこの会堂で礼拝を献げて以来、実に2か月半に亘って、礼拝を献げることが出来ませんでした。今日は2020年度最後の礼拝でもあります。これまでの間、お互いに会うことさえもはばかられる状況にあって、コロナ禍の中を過ごして参りました。未だに、決して安心できる状況ではありません。でも、この二か月半を過ごして、良かったと思うことは何かと考えると、会堂で礼拝を献げることさえ、決して当たり前ではなかったと改めて思っています。本当に久しぶりの礼拝をこうして今、献げることが出来る。この喜びを忘れないようにしたいと思います。そして、どのような状況であろうと、状況によらずに、私たちは神の民として、神の家族として、不機嫌になるのではなく、つぶやくのでもなく、ののしるのでもなく、どんな状況にあっても、主よ「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言えた犯罪人のように、主イエスがそれに答えて「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言ってくださるような生き方を、生きていきたいと思います。神の確かな救いをしっかりと自分達の人生に刻み付けて、魂を込めて、主を讃え続け、この受難週を歩んで参りましょう。

 お祈りします。

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