日本キリスト教団 大塚平安教会 

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神の業が現れる時

2023-03-05 13:19:21 | 礼拝説教
ヨハネによる福音書9章1~12節


 ヨハネによる福音書9章を読んでいただきました。主イエスが「生まれつきの盲人」を癒された場面です。私自身、これまで何度も読んできた箇所の一つですが、何度読み返しても新たな思いにさせられる聖書箇所の一つであると思わされます。

 先週の礼拝までヨハネによる福音書の8章を読んでまいりました。場所はエルサレム、時は秋の仮庵の祭りの場面でした。一週間も続く祭りも終盤となり、夕方となって神殿の松明に明かりが灯された時、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と告げられました。私は世の光という御言葉がより一層鮮明にされた場面として、本日の9章を読むことが出来ると思います。
 仮庵の祭りは終わりました。しかし、祭りから幾日も経っていないと思われます。主イエスと弟子たちはエルサレムに残っていました。安息日となり、一行はエルサレムの神殿で礼拝を守ったのではないかと思われます。その帰り道の出来事ではなかったと、私は想像します。
 礼拝からの帰り、その通りすがりに、道沿いで物乞いをしていた生まれつき目の見えない人を見かけました。見かけたとは、この盲人に主が注目した、あるいはこの人を特別に選んだと言っても良いかもしれません。

 ヨハネによる福音書の5章ではベトザタの池の場面が記されています。池の周りには多くの病人や体の不自由な人、障害を持った人々が集まっていました。人々は病の中で、苦しい、厳しい状況を生きていました。主はその場所に行った折、38年に亘って病気で苦しんでいる一人の人に目を留められました。「良くなりたいか」と声をかけ、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言われました。多くの病人がいる中で、なぜ、この人にだけ声をかけられたのか、私達にはわかりません。
 けれど、この人は多くの病人、けが人の中で最も絶望的と思われる一人ではなかったと思います。主はその人を選び、その人に声をかけその人を癒されたわけでした。

 今日、読まれた場面においても、主イエスは生まれつき目の見えない一人に目を留められました。つまり、その人を選ばれたと思います。聖書に記される主イエスの奇跡の業の特徴は、例えばベトザタの池には、多くの病人にいたわけですから、主が祈られて、全員が治りますようにと願うとしたら、そうなったかもしれません。
けれど、主はそのようにはなさいません。主の奇跡、癒しの業は、ある特定の一人との出会いの中で行われるものです。

そう考えると、私達自身も、主なる神に選ばれた一人一人です。私たちはそれぞれ特有の、神と出会ったという経験しているはずです。そこに神の選びがあったということです。そのようにして神は特別な一人を選び、神様の業を示されるのです。

主がこの人に目を留められたことに気が付いた弟子たちは主に訪ねました。「ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」弟子達の質問は「この人はなぜ目が見えないのか」ではなくて、「誰が罪を犯したのか」という質問でした。
当時のユダヤ教社会にあっては、病や障害があるということは、罪と深い関わりがあると考えるが一般的であったと言われます。

因果応報という言葉があります。善い行いをすれば、善い結果が与えられ、悪い行いをすれば、悪い結果が与えられるという考え方です。分かりやすい考え方です。弟子達もそのように考えたのでしょう。けれど問題はこの人は生まれつき目が見えないのです。生まれる前に罪を犯すことは出来ませんから、それなら両親が罪を犯したのかと主に聞いたのでありましょう。
当時のユダヤ教指導者が教えた教えの中に、母の胎にいる時に、憎しみを込めて母のお腹を蹴った子どもは罪があるという教えがあったそうです。けれど、流石にそれは人々に受入れられていなかったかもしれません。

ただここで気が付かなければならないのは、この弟子達が尋ねた問いは、生まれつき目が見えず、物乞いをしなければ生きていけない人生を生きなければならないこの人の耳に、これまで何度も聞こえて来た言葉ではないでしょうか。例え弟子達が気を使ってコソコソと話したにしても、そのような言葉は必ず盲人の耳には聞こえるのです。幼いころから、ずっと聞こえて来たのであろうと思います。時には親の言葉として、家族の言葉として、近所の人々の口を通して聞こえてきた言葉でありました。
その度に、自らの心を痛め、自分は罪人なのか、罪ある者として生まれてきたのかと絶望の淵に追いやられていたに違いありません。あるいは聞こえていても、聞こえないふりをしてやり過ごすことが賢い生き方だと諦めの思いを持ったかもしれないと思います。

けれど、その次に聞こえて来きた言葉は、これまで一度も聞いたことのない言葉でありました。主イエスは答えられました「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」この言葉は、特別な言葉です。
罪に関して、本人の罪でもなく、両親の罪でもないというのです。生まれつき目が見えない、しかし、それは誰かの罪ではないというのです。目が見えない事と罪とに関わりがないというのです。これだけでも盲人は驚いたと思いますが、主は「神の業がこの人に現れるためである。」と話されました。

更に続けて4節「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
まだ日のあるうちにとは、主イエスの地上でのお働きについて話している言葉です。この時、仮庵の祭りが終わり、10月末頃だったと思われます。しかし、年が明け、3月、4月となり過越しの祭りの季節がやって来る、その時、主イエスは捕らえられ、裁判にかけられ、十字架に付けられます。それが「だれも働くことのできない夜」という意味です。それまでの間、弟子のユダにサタンが入り、裏切りの時となるまでの間、この地上に主イエスによって神の支配が目に見える形で人々に示されるのです。だから「わたしは、世にいる間、世の光である」と告げられたのです。

主イエスはそう言われた後に、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗り、そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。彼は言われた通り、シロアムの池に行きました。目を洗ったところ、目が見えるようになって帰って来たわけでありました。この人に神の業が現わされた瞬間でありました。

私はこの聖書の出来事を改めて読み、今回改めて思わされていることは、生まれつきの盲人がいやされるという出来事です。主イエスは、先ほどの5章においては、38年間歩けないでいた人をいやされました。けれど、この人は生まれつき歩けないのではなく、38年前は歩けていただろうと考えられます。特別な奇跡とはいえ、歩けていた人が癒されて、再び歩けたのです。その前の4章では、王の役人の息子が死にかかっていて役人が主に癒しを求めにやってきた場面が記されています。役人が「主よ、子どもがしなないうちに、おいでください」と願ったところ、主は「あなたの息子は生きる」と話され、それを信じて帰っていったら確かに息子の病気は癒され、元気になったわけでありました。そのようにして、もともと元気であったけれど病気になった、でも主が癒してくださったといったこととも、今日の出来事は違っているのです。

何が違っているのかというと、それぞれに絶望的な状況であることは違いありません。でも、今日の場面は「生まれつきの盲人」なのです。目が見えることは、どんなことかを知らずに生まれた人なのです。出来ていたことが出来なくなった絶望ではない、更に決定的な絶望です。絶対に無理と思われる状況をしかし、主は越えていかれる方として、そこに神の業を現わす方として記されているのです。
 
 私はこの箇所を読みつつ、マタイによる福音書25章に記されている「タラントンの譬」を思い出していました。ある人が旅行に出かけるので、三人の僕を呼んで、自分の財産を預けた。一人は五タラントン、一人には三タラントン、一人には一タラントン預けて旅に出かけます。主人が帰って来るまでの間、五タラントンの人は商売して、さらに五タラントン儲けて、三タラントンの人も更に三タラントン儲けました。主人は彼らに対しては「忠実な良い僕だ。よくやった。お前の少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」と褒めた訳です。しかし、一タラントンの人は、そのお金を、土に穴を掘って隠しておいて、主人が帰って来た時に取り出して返したら、主人は怒って「怠け者の悪い僕だ」と一タラントンを取り上げて、十タラントン持っている者に与えたという話です。
 だから、皆さんよ、あなたがたに与えられている神様からの贈り物である、それぞれのタラント、能力を生かして生きていきましょうと説教で話したりします。その通りであろうと思いますけれど、同時にその時に思う、果たして自分に与えられているタラント、自分に与えられている能力はどの位なのだろうか、どう考えても五タラントンあるとは思えない、三タラントンあるとは思えない。一タラントンもあるのだろうかと思い悩むのです。一タラントンも無いような者がいくら頑張ったとしても、もともと五や三の人にはかなわないのではないかと考えるのは、私だけでしょうか。恐らくそうではないと思います。同じように思っている方多いかもしれません。

 でも、今日与えられた箇所、生まれつきの盲人の目が癒された。そこに神の業が現わされた。その意味は決定的だと思われる絶望さえも超えて、神の業は、神と出会った人にもたらされるのだということなのです。
 神の業は決定的な絶望さえ超えていくのです。それは、生まれつきの盲人が見えるようになる。わたしたちも生まれつきの能力があります。それぞれにありますが、実際は大分偏った形で、バラバラに与えられているのだと思います。ですから出来る人は、なんでも出来、出来ない人は大体出来ない、そして、自分のことを思うと、大体出来ないほうの一人であると、私たちは思っているところがあるのではないでしょうか。
 
 主イエスは、それは違うと告げているのです。神の業とは、決定的な絶望、不可能と思える状況を越えて行くというのです。それは私も、あなたも、今ここにおられる皆さんに対しても、神の業は働かれるのです。だから、自分で自分を決めてしまわないことです。自分はこんなものだ、自分の人生はこの程度などと、決めてしまわない事です。

神の業は、自分の思いを遥かに越えて、私達の人生にもたらされると私たちは信じて生きていけるのです。それが神の福音に対する私達の信仰者の生き方であろうと思います。

先日、日本キリスト教団が発行している新聞「教団新報」が届きました。コロナ禍となってからの諸教会の礼拝出席者数とか、洗礼者数とか、教会財政についての統計が記されていました。興味を持って読みましたが、増加しているのは逝去者数だけのようです。教会員数も、受洗者も、献金も減少し、まとめとしては「このままコロナ禍に収束が見られないならば、より一層、深刻な事態に向かってゆくであろう。」とありました。皆さん、だからどうしますか。だからもう大変なのは確かです。でも、神の業はそこで終わるはずがないじゃないですか。私達には決定的な絶望を越えて、更にそれすらも大きく超えて、死から復活された主イエスが共におられます。だから大丈夫。神のなさることを信じて、私たちはこの3月もしっかりと過ごして参りましょう。

お祈りします。


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